鉢屋三郎

Nyarlathotep




雷蔵が忍務から帰ってこない。それほど長くはかからないから大人しく待ってるんだよ三郎、と私の作り物の髢頭を撫でて優しく笑って私たちの部屋を出ていってから二週間が経っていた。はじめの数日は言われた通り普段通りに過ごしていた私も、いつしか部屋から一歩も出ることなく日を過ごすようになっていた。心配してくれる竹谷たちには悪いが変装をしようにもしたそばから涙で崩れてしまうんだから部屋を出られっこなかった。

ある日、夜半に目が覚めた私はいつの間にか体を褥から起こし、開けた覚えのない半開きの襖の前に立っていた。以前から、夢遊病の兆しがあるねぇおまえは、なんて雷蔵に言われてはいたが、自覚したのはこれがはじめてだった。

とりあえず開け放っておくのもあれなのでと襖に指をかけた時、押し入れの奥で何かが光ったような気がした。光り物なんて持っていたっけか、雷蔵からもそんなものを買ったなどという話は聞いていない。

不思議に思いながらも頭を突っ込んで手を伸ばして引っ張り出すとどうやら奇妙な形をした金属製の箱のようだ。なにやら奇怪な装飾がほどこされたそれを月明かりの下で眺め眇つしていると蓋のようなものを見つけて何の気なしに私はそれを外した。

なかに入っていたのは三寸程の玉を適当に切ったような不揃いな面で揃えた多面体だった。黒く鈍い輝きを放つそれは所々に赤い線が刻まれている。箱に入っていると言っても箱の内面に触れてはおらず、金属製の帯のようなものとおかしな形の柱七本で箱のなかに吊るされている状態だ。

よくわからないがこれが私の私物でないことだけは間違いないので雷蔵が帰ってきたら彼に謝らなければなるまい、ともとに戻そうとした。

ふわり、何かが見える。目の前にというより頭のなかに情景が浮かんだ。起きているのに夢を見ているような、そんな感覚。

深い木々の合間を見知った影が走っている。誰かに追われているわけではなさそうだが酷く憔悴した顔をした雷蔵が木から木へと一心不乱に走っていた。見る限り怪我はなさそうで不意に涙がこぼれる。それとともに頭の中の映像はブツリと途切れた。


あれから意識を失っていたらしい。畳の上で寝たからだは節々までぎしぎしと痛む。だが頭のなかは靄が晴れたようにすっきりしていた。雷蔵は帰ってきていないが怪我はない。それにいつでも彼の様子を知ることができる。寝たときも片時も離さないように抱えていた箱に思わず私は頬擦りした。


あれからも私はずっと自分の部屋で過ごしている。竹谷たちがかわりばんこに顔を出しにくるが大丈夫だ平気だと飯のお盆だけを受け取ってけして部屋には入らせない。なにせあれを見られたら何を言い出すかわかりゃしないからな。

すこしでも雷蔵を見ていたいと睡眠時間を削ってまであの塊を見続けた私の目元には深い隈が刻まれていた。これでは変装だってできやしないが構うものか。今部屋から出る必要などまったくないのだから。


飯を口に運びながら、またそれをのぞきこむ。ふわり頭の中の雷蔵はどこかを駆け回っているようだった。大きな沼のような、それでいて濁った色をした水を湛えた湖のようなもののまわりをきょろきょろと何かを探しているようである。

不安なのだろうか眉間に寄った皺がいつも朗らかな彼の顔に似つかわしくなく、そんな顔をさせる相手に物であれ人であれ私は腹をたてた。


辺りを見回していた雷蔵がふいに何かに近づく。木々と苔に覆われるようにあったのは平たい石だ。それの表面に刻まれた、顔のない謎の生き物のようなものを指でなぞるようにして雷蔵は小さく呟いた。


「今助けてあげるからね、三郎」


え、
驚愕と疑問、そしてわけのわからない恐怖にかられたわたしはいつの間にか手に持っていた箱を部屋の隅へと勢いよく投げ付けた。

パシッと小気味のいい音、箱が割れた音でも壁にぶつかったでもないその音に思わず瞑っていたまぶたを押し上げるといつのまに入ってきたのだろう。見知らぬ男が私の投げた箱を片手で受け止めて立っていた。

浅黒い肌をした痩身の体躯、身に纏う布は数多の色に変化し頭には冠のようなものをのせている。どこかの城の忍にしては目立ちが過ぎる装いに私は一飛びで対角線上の壁まで身を引いて剣呑な眼つきで男を睨んだ。

「人の部屋に勝手に上がり込むなんて、あんたさては男婦かなにかか?あいにく私には心に決めた人がいるのでね。早々にお引き取り願いたいんだが」

一息に言い切ると面白そうにこちらを眺めていた男の目がにぃーと細まる。猫のような笑みを作った男はははっと軽やかに笑い声をたてた。


「いやはや、人様のアーティファクトを勝手に使っておきながらその軽口。非常に浅慮かつ横暴、今まで見てきた誰しもと等しい、まったくもって嘆かわしい愚かな人間的思考だ。さてもさても、人間というのはいつの時代も変わらない生き物なのだねえ。こんなんじゃワタシが赤い服を着てこの星を訪れる日もそう遠くはなさそうだ」


つらつらとよく滑る舌がわけのわからないことを紡ぐ。意味はわからなくとも自分が貶められていることは容易に想像がついた。狭い部屋では戦いにくいと障子を蹴破り庭先に躍り出る。異様なまでに静まり返る空気に学園の様子がおかしいことをようやっと理解した私は唇を噛む。


「全てが遅すぎたのだ」


声が聞こえたのはすぐ耳元。確かに部屋のなかにいたはずの男は今私の背後でくすくすと笑っている。

動けない私を無視して断末魔のような歪な音が二方向から聞こえはじめたとき、耳元で凄まじく恐ろしいなにかを聞いた。声や音では表現のできない、空間が裂けるような、頭が割れるのを内側から聞いたような。

固まった体を、嫌だと叫ぶ心を無視して無理矢理体を反転させる。

目と鼻の先にあったはずの男の姿はなく、そこに佇んでいたのは三つ目の巨大な蝙蝠のような異形のものだった。にんまりと細まる赤い目玉に、私は意識をなくした。



「これは、酷いな」

泣き叫び半狂乱で自分を呼びに来た生徒を保健室に預け人を近づけさせないようにと他の先生に言付けておいて本当によかった、と木下鉄丸は目の前の惨状に顔を覆った。

不破が忍務に出てから引きこもりがちになっていたとはいえ、心が弱いままではいかんと突き放した己の行動は厳しさからきた優しさだった。だが本人にそうとられなければなんの意味もなさない。見捨てられたと、そう思ってしまったのか。だとすればこれば自分の落ち度だ。

部屋のありとあらゆる壁に、畳に、天井に、叫ぶように書かれた血文字は赤から黒へと色を変えている。これだけの血臭になぜ昨夜のうちに気がつけなかったのだろうと壁を殴り付ける。

ギシリ揺れた細身の体躯、だらりと垂らした腕は片方付け根から寸断され畳に投げ捨てられたまま。爪という爪は剥がれ落ち指先は削れ白いものが覗くものもある。変に伸びた首が振動でぐるりと回って鉄丸の方へと顔を向けた。色々なもので汚れた顔面は顔がなく、ただまっ平らな肉にまざった白い脂肪、つるりとした骨の断面がそこにあるだけだ。

込み上げた吐き気を堪えるように仰いだ天井に、鉄丸は苦渋の表情で小さく呟いた。


「お前は一人でなんかなかったではないか」


ひとりにしないで、ひら仮名たった八文字の言葉の重さに潰されるように、鉄丸は膝をついて項垂れた。





:
:
:
:
:




『ニャルラトテップ』

今は幽閉され眠りについている「旧支配者」の使者にして、仕える主人にさえも嘲笑を向ける無貌の神。無貌ゆえに変幻自在の顔を持ち、千の顔を持つ者とも呼ばれる。
狂気と混乱をもたらすために自ら暗躍し、彼が与える様々な魔術や秘法、機械などは大概人間を自滅させる。天敵であり唯一恐れるものは火の精と位置づけられる旧支配者クトゥグアのみ。
時折人間に化け公然と姿を現すこともあり、それは長身痩躯で漆黒の肌をした人物であることが多い。移動の際は二体の無知な魔笛奏者を従者として伴っている。
また、化身の一つである「闇をさまようもの」は、顔を食らうものなどの異名を持つ三つ目の巨大蝙蝠の姿をしている。
世界の最後が訪れるとき、赤い服を着たニャルラトテップが汚らしい野獣を従えて姿を現すといわれている。
ニャルラトテップの化身たる「闇をさまようもの」を召喚するにはアーティファクト、魔法の道具が必要である。名前は輝くトラペゾヘドロン。覗けば時空を越えた出来事を見ることが出来る。

【 e 】

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -