竹谷八左ヱ門

The Hounds of Tindalos




どこから。

どこからいつもの平穏な日常が狂った音を立て始めたのか、彼には分らなかった。普段通り、ほかの生徒より早く起きて飼育小屋で餌やりをしていた時はなにも変わったことはなかった。

落ち着きなく狼たちがうろうろしていたのも、餌が欲しいがための行動だと思ったし、うさぎたちが一固まりになっていたのも、暖をとっているのだと思った。なにもおかしなところはない。

なかったはずだ。そう考えなければ、今自分が置かれている状況を
冷静に判断することができなくなりそうだった。


はじめに嗅ぎつけたのは異臭。
生き物たちへの餌やりも終わり、食堂に向かう途中。低学年の生徒たちがわらわらとおれを追い越しながら元気にあいさつをするのに返事をしながら鼻を刺激した悪臭に足を止める。

そんなおれにどこか不思議そうな顔をして孫次郎が一緒に立ち止まりおれの袴の裾を握って首をかしげた。

「竹谷せんぱぁい?」
「いや、なんでも」

ないと言いきろうとした時。
少し離れた中庭に沿うように作られた廊下の天井からぶわっと音を立てそうな勢いで気持ち悪い色の煙が噴き出したのを見て全身の肌が粟立つ。悪寒が背筋をかけ上り、先ほどとは比べ物にならないほどの悪臭に生理的な涙が浮かんだ。

「あれ、なん、ですか」

かたかたと震えながら尋ねる孫次郎に意識を取り戻す。あれがなにかは分からないがこちらにとって有益なものでないことは確かだ。青黒い気持ちの悪い煙は生きているかのようにうごうごと蠢き何かを探しているようにも見えた。

えづきはじめて涙目の孫次郎の肩に両手をおいてあちらに背を向けて孫次郎を隠すようにして視線を合わせた。

「いいか、孫次郎。今の時間ならほとんどの生徒が食堂にいるだろう。先生がいれば先生に伝えてくれ。生徒一人もそこから出さないでくれ、と。あいつは俺がどうにかする、すぐ戻るから、な?」

少し早口になってしまったがこの子なら大丈夫だろう。きっと、みんなに伝えてくれる。できれば応援が欲しいところだが、この現象がここだけとは限らない。人数をこいつだけに割くわけにはいかない。

いやいやと首をふる孫次郎をなだめるように一つ頭をなでて、すぐそこの
食堂の入口まで走らせる。そのまえに立ちはだかるように立てばあちらの
角度から見て孫次郎の姿は見えないだろう。普段は開け放たれた食堂の戸が閉まったのを確認して小さく息をつくと、廊下を蹴った。

勢いをつけて加速したままくないを振り切るように投擲、続けて二刀目を
放つ。そのまま転がり出るように中庭に飛び出たおれにしっかり標準を合わせて煙が動いたのを確認して口の端を上げる。

どうやらくないは傷を負わせることはできなかったがこちらへ陽動する役割は果たせた様で安心する。こめかみから伝う汗を乱暴にこぶしでぬぐう。

「おまえみたいなのはちび共によくない影響を与えそうなんでな、
おれと遊んで適当に帰ってくれないか」

三郎だったらここで一つおどけた態度でもとって見せるのかもしれないが
あいにくそんな余裕はない。それにいまのあいつはどこかおかしい。雷蔵が忍務でいなくなってから、部屋から一歩も出ていないようだし、ああそういえば今日はまだ飯も持って行ってやってない。拗ねてなければいい。拗ねたあいつは少々面倒だから。

とりとめもないことを考えながら学園の塀を飛び超える。小松田さんの声がしないところをみると彼も食堂にいたようだ。すぐ後ろを追ってくる悪臭に飛ぶように走り続け、できるだけ誰もいない場所を目指す。

少しでも早く、
少しでも遠くへ。

うるさいほどに鳴り響く心臓に眉を寄せた瞬間、足元の木の根に躓いて無様に転げる。瞬間一瞬前までおれがいた場所にあったものが根こそぎ消えた。

抉り取られたように削られたむき出しの地面に目が白黒する。いったい何があったのか全く見えなかった。学園でもなかなかの動体視力を誇っていると自負しているおれがまったく視認できなかった。

ぐるるる、唸り声のようなくぐもった声に身を翻す。狼の声ではない。そもそも生きた獣の声ではない。


一瞬だけ視界にとらえたそれは四足で青く濁ったぬるついた何かで全身をしとどにぬらしたモノだった。


学園から遠く離れたであろう森が急にひらける。幾度となくこちらに伸びてきた舌をくないで弾きながら、遠く距離をとる。野原の真ん中、視界を遮るものは何もない。

地面を覆う草の背丈も先ほど見た限りあれの体を隠すには足りない。ざっと周りに視線を走らせる。風に揺れる草の群れ。鳥の声も聞こえない。


唐突に吹いた強い風が唐突に凪ぐ。
たちこめる悪臭。
視界を覆うほどの青黒い煙、煙。
立ち上るのは、足元だ。

足元の一片の草の葉の先から噴き出した煙が凝るように形を紡ぐ。質量をもたない、だが確固としてそこに現れた大きな口に飲まれる瞬間まで鋭い舌で地面に縫い付けられた足が動くことはなく。

末期に聞いたのは己の骨が砕かれる音と肉のちぎれる生々しい音。
生臭い吐息にゴリゴリ咀嚼されすりつぶされすべてがこいつの一部になる。
赤く染まった視界は左半分からなにも映さなくなりぷつり、ぷつりと
四肢をもぎ取られる感覚にごぼごぼと声にならない音を狂ったように発した
おれの意識はそこで終わった。





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『ティンダロスの猟犬』

時間が生まれる以前の超太古、異常な角度をもつ空間に住む不浄な存在とされる。
絶えず飢え、そして非常に執念深い。獲物の「におい」を知覚すると、その獲物を捉えるまで、時間や次元を超えて永久に追い続ける。四つ足と獲物を追うその様子から「猟犬」と呼ばれるが、イヌとは似ても似つかない異形の姿をしている。
彼らが出現するには、90度以下の鋭角が必要である。 部屋の角や物品の破片などが形成する鋭角から青黒い煙のようなものが噴出し、それが凝ってティンダロスの猟犬の実体を構成する。その実体化の直前、酷い刺激を伴った悪臭が発生するので襲来を察知することができるが、その時点で既に手遅れとなっている。 彼らから身を守る唯一の方法は身辺のものから一切の鋭角をなくし「曲線」のみで構成することであるという。

【 s 】

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