善法寺伊作

持ち込まれたもの




その日は、朝からやけに気分が悪かった。
胸糞が悪くなるというか、気持ちから腐るようななんとも度し難い気分の悪さで、そのせいか体までぐったりと重く所作の一つ一つまでが億劫だ。
そんな僕に当てられてしまったのか、だとしたら申し訳ないのだけれど、今日は仙蔵まで朝から滅法機嫌が悪かった。仙蔵ったら命のかかった実習でも見たことのないような殺気を周囲に撒き散らしているものだから、それに当てられた下級生達は気の毒でならない。僕にもそれを気遣う余裕なんてなかったんだけどね。
そんな最悪な一日がようやっと終わろうかという、夕刻のことだった。

「…臭い」

学園の中に立ち込める異臭に気がつく。
雨に濡れた獣の独特な臭いと、浜に打ち上げられた魚が腐ったような臭い。気づいてしまうと臭気は鼻を刺すようで、耐え難い苦痛に思わず嘔吐きそうになるほどだった。もしや今日一日気分が悪かったのはこの臭いのせいだったのか。しかしなぜ今まで気がつかなかったのだろう。こんな強烈な異臭が突然臭うというのもおかしな話だ。
ともかく、この臭いの元をどうにかしなければ夕飯を食べるどころか夜眠れるかどうかも怪しい。僕は重い足を引きずりながら臭いの元を辿ろうと学園の中を歩き出した。しかしあまりに強い臭気で鼻が曲がってしまったのか、どれほど歩き回っても臭いの元が全くわからない。どこに行っても同じ異臭が渦巻いている。まるで学園そのものが異臭の元であるみたいだった。
そうして闇雲に学園を歩き出して、どれだけ経ったか。僕の意識は半ば朦朧としていて、もういっそこのまま倒れこんで寝てしまおうかと投げやりに考えていたときだ。

「伊作、」

声をかけてきたのは仙蔵だった。
彼もこの異臭に耐えかねて臭いの元を探していたのだろうか。僕は答えるようにのろのろと手をあげる。それを見て仙蔵は柳眉を顰めた。

「お前、顔が真っ青だぞ」
「うーん…、この臭いの中じゃね…」
「臭い?何の臭いだ?」

仙蔵は探るようにすんすんと微かに鼻を鳴らして、それから困ったように首を傾げた。

「えっと、獣のような、魚のような、学園中凄い臭いがするじゃないか」
「…私にはわからないが」

僕はまさか、と目を剥いた。こんな気も遠くなるような強烈な臭いがわからない?もしかしてからかわれているのか?だとしたら意地が悪い。思わず言い返そうとしたそのとき、奥の廊下から大きな声が飛び込んできた。

「あー、くっさいなー、もう我慢できない。あ、立花先輩ちょうどいい所に!」

鼻声で大きな独り言をぶつぶつ呟きながらひょこりと顔を出したのは、五年の尾浜勘右衛門だった。自分の鼻を小さな洗濯ばさみでつまんでいて、随分ひょうきんな格好をしている。
尾浜は仙蔵の元まで駆け寄ると、唐突にその腕を取ってぐいぐい引っ張り始めた。

「な、なんだ、一体」
「立花先輩だけは絶対大丈夫なので、ちょっと手伝ってください。どうせそのつもりで『ここ』まで来たのでしょうし」
「なんのことだ、私はただ本を読みたくなっただけだぞ」

そのとき初めて、僕は自分が立っているのがどこなのか気がつく。図書室だ。図書室の前の廊下だった。
まあまあと曖昧な笑みを浮かべ、尾浜は仙蔵を図書室の中に引っ張り込んだ。仙蔵も基よりそのつもりだったようだし、戸惑いつつも促されるまま中に入る。何か言いたげに僕を振り返ったところで、尾浜がぴしゃりと図書室の障子戸を閉めてしまった。
僕は呆然とその場に立ち尽くす。口を挟む暇もなかった。それに尾浜だ。僕達六年と彼ら五年は特に仲が悪いというわけではないのだけれど、少し特有の壁というか、境界線のようなものがあると僕は思っていた。それこそ身内のように気安いのは長次と不破ぐらいだと。だからあまり接点のなかった尾浜が僕らにああいう態度を取るなんて正直驚いた。目から鱗だ。実際仙蔵もかなり戸惑っていたようだし。
そんなことを悶々と考えていると、また唐突に目の前の障子戸が開いた。

「いやあ、凄いもの見たなあー」

僕はますます目を剥いた。
にこにこと楽しそうな笑みを浮かべて図書室から出てきた尾浜の背には、意識のない仙蔵が背負われていたのだ。

「せ、仙蔵!?」
「あ、大丈夫です。寝ているだけですから」

ぐったりとして動かない仙蔵を尾浜から受け取って、脈を取る。正常。呼吸も安定している。本当に寝ているだけのようだった。
説明を求める僕の視線に、尾浜は困ったように肩を竦める。

「もう、臭わないですよね?」

はっとした。あれだけ強烈に立ち込めていた臭気が、いつの間にかすっかりなくなっていたのだ。
僕の顔を見て、尾浜はまた意味深に笑う。そして不意にその手に持っている何かを僕の前に掲げて見せた。

「これが臭いの元です。まあ、もう中身はないですけど」

尾浜が手に持っているのは、書物のようだった。しかしその装丁は今まで見たことがないもので、薄べったい箱のようにも見える。なんだろう、あれは動物の皮だろうか。薄黒く濁ったべっこうのような色をしていた。




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