久々知兵助

零感




五年生のみんなで渓谷に写生に行った。
とは言っても目的は写生をすることではない。その渓谷というのが、到底人が入っていけるような場所ではない山奥の秘境のようなところにあり、そこまで生徒達だけの力で行って辿り着いた証として渓谷の風景を写生しそれを持ち帰る、という合同実習だ。
実は私と勘ちゃんだけはその渓谷に行くのは初めてではなく、四年い組のときに一度だけ教師の引率されて来たことがあった。そのときは渓谷に辿り着くだけで丸二日かかり道中で危ない目にも結構遭ったのだが、一年経って少しは実力も付いていたらしく、ろ組の三人と協力しながら険しい道のりを進み一日で渓谷に辿り着くことができた。
しかし日暮れ直前に着いたため周囲は暗く霧まで出てきたので、結局写生は夜が明けてからすることになった。

渓谷のすぐ傍には小さなあばら家が一軒、建っている。
中は狭くじめじめ湿っていて若干かび臭い。一体誰が何のために建てたのか甚だ疑問ではあるのだが、冷たい夜風を凌ぐのには都合がいい。四年生のころにも休憩がてら使ったものだ。
とりあえずそこで一晩明かそう、ということになったのだが、珍しく雷蔵が渋った。
曰く、「このあばら家にはお化けが出る」という噂を先輩から聞いたとか。前に来たときは何もなかったけど、と私が言うと、勘ちゃんが笑った。

「あの時は兵助だけすやすや寝てたからね」

意味深な言葉に、雷蔵はますます怯えてしまったようだ。怯えた雷蔵に興奮している三郎を八左がぶん殴った。
雷蔵には可哀想だが、さすがに野宿は危険だ。このあばら家があるからと思ってあまり準備もしてこなかったし、今から準備をするにもこの暗がりと霧の中ではままならない。

私はふと思いついて、背負ってきた小さな風呂敷包みを解いた。
写生のため持ってきた筆を手に取り、大きく深呼吸。吐いて、吸って、止める。じっと筆を見つめながら両手でぎゅう、と握り締めそのまま心の中で三つ数えて、思い切り息を吐き出してからその筆を雷蔵に差し出した。

「念を込めたから、これを握ってれば大丈夫なのだ」

雷蔵は私と筆とを交互に見て、躊躇いがちに筆を受け取った。三郎と八左は胡散臭そうな顔をしていて、勘ちゃんは面白そうに目をくりくりさせていた。まあ、もちろん私も念とか適当言っただけなんだけど。
そうして不安そうな雷蔵を宥めつつあばら家に入り、おやつにと懐に入れておいた高野豆腐をみんなで食べると、疲れていた私はすぐに眠くなった。隣で勘ちゃんが「きた」とぽそと呟いたのが聞こえたけれど、眠気には勝てなくて重い瞼を閉じた。

翌日、夜明けと共に目が覚める。瞼を擦りながら大きく伸びをすると、私が起きたのに気がついた勘ちゃんがにこ、と笑った。爽やかな朝だ。

「おはよう兵助」
「おはようなのだあ」

ちょうど雷蔵も起きたようで、欠伸をしながら顔を上げた。そして首を傾げた。私も傾げた。

「…三郎、八左、何してるの?」

三郎と八左が、雷蔵の膝に縋りついてめそめそ泣いていた。



よくわからないのだが、泣いてる三郎と八左のよくわからない話を根気強く聞いていた雷蔵が、突然その手に持っていた私の筆を掲げて勢いよく私を見た。

「兵助!この筆ちょうだい、僕の筆あげるから!」
「え、普通の筆だけど、欲しいなら別にいいよ」

なぜか感激された。次に八左が挙手した。

「じゃあ俺は紙を交換してくれ!」

写生用の紙を渡すと抱きつかれて犬みたいに頭をわしゃわしゃされた。さらに三郎まで私に詰め寄ってくる。

「私も何か!」
「えーもう何もないのだ」
「じゃあいっそ雷蔵の筆を!」
「三郎、黙って」
「はい」

…どういうことなの?
それまで黙って成り行きを見守っていた勘ちゃんが感慨深そうに頷いた。

「兵助すごいね」

勘ちゃんにも褒められた。今日は何かめでたい日なのか?
それからさっさと写生を終わらせて私達は山を降り、帰路についた。帰りがけに出会った屋台で雷蔵が田楽豆腐を奢ってくれた。おいしい熱々の田楽豆腐を頬張りながら、ふと思い出す。

「そういえば勘ちゃん、昨日の夜何が『きた』のだ?」
「うん?お化けかな?
「え、豆腐小僧?」
「豆腐小僧には遭ったことないなあ、居たら捕まえてくるよ」
「やった」

え、なにそれ、い組怖い、と三郎と八左が呟いた。




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