鵺式。
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※仙蔵♀ 文仙前提鉢仙




「先輩」

一瞬、鼓動が跳ねた。次いで辟易とする。
足音もなく突然背後に現れた気配に気付いてしまえば、背中に視線がじとりと貼りついているのが嫌というほど感じられた。平坦な声と不躾な視線に覚えはあれど、はっきりと名を呼ばれていないからにはわざわざ振り返ることもない。無視を決め込み歩きだそうとして、しかし逃がすまいと背中から抱き竦められてしまった。

「どうして逃げるんですか、立花仙蔵先輩」

わざわざ耳元で囁く声に、今度こそはっきりと溜め息をついた。
不本意ながらもこうしてされるままになっているのは、この男に対しては警戒というものの類が全く通用しないからだ。
この男にとって私の機嫌や都合ほど取るに足らないことはなく、例え私が酷く暴れようが自分だけは無傷で済むような実力の持ち主であり、かつ私にどれほど口汚く罵倒されようと飄々としているのだ。しかし酷くつまらなそうにしながら私に関わることをやめない。
要するに、この男は私が嫌いで、ただただ私に嫌がらせをしたいだけだ。

「…なんの用だ、鉢屋」

鉢屋三郎。一つ後輩である。
しかし、この男との関係はそんな一言では済むようなものではなかった。

「なんの用、とはご挨拶ですね。仮にも婚約者に向かって」

何を隠そう鉢屋と私は、当人達の意志とは関係なく双方の家に決められた婚約者同士であった。
幼いころからそう言い含められ、当時特に反抗する理由もなかった私は、ああそう、といった程度の認識しかなかった。一方幼い頃から密かに思い人があるようだった鉢屋にとって、私の存在はとんでもないことだったらしい。鉢屋はことあるごと私にきつく当たり、加減も知らず時には怪我をするようなこともあった。
しかし、そんなことをされても私は鉢屋のことが嫌いではなかった。
掴み所のない飄々としたこの男の中に、誰かをそこまで愛する情熱が秘められているのかと思うと、どうにも憎めなかった。

「で?その婚約者殿がなんの用なんだ」
「別に…用がなければ貴方に触れてはいけませんか?」
「よく言う…」

思ってもないことを次から次へと、全く口のよく回る。
鉢屋の腕の中で、どうしたものかと途方に暮れたが、こんなものはまだ可愛いものかと思う。

昔はこんな半端に甘い接触などなかった。
冷たい悪意しかない、こうする以外に知らない、もっと痛々しくて悲しいものだった。
私に嫌われれば婚約も解消されると思ってだろう。私に嫌われるため鉢屋はありとあらゆる嫌がらせをしてきた。しかし私は生半可なことではへこたれたりしない。最も、そこまでして私も鉢屋を好いていたわけでもなかったので、鉢屋がその密かに思う人とやらを連れて絶縁状を叩きつけるようなことがあれば、すぐにでも婚約を解消する心積もりではあった。しかしいつまで経っても鉢屋はそうはせず、私から婚約を解消するよう仕向けているだけだ。
不器用で、一途に人を思う鉢屋は確かに好ましいけれど、しかしその不器用故に執拗な嫌がらせを受け、それだけならまだしも自身に非はないのに婚約解消の不名誉まで負ってやるほど、私は優しくはない。
嫌がらせに屈せず、しかし抗わず、ただ淡々と耐えること。理由の伴わない嫌がらせなど全く堪えなかったし、鉢屋にはそれが一番の仕返しになるだろうと思ったから、そうしてきた。実際堪えたのだろう、鉢屋の嫌がらせは徐々にエスカレートしていくばかり。
そんな破滅的な関係が変わったのは、仙蔵もまたたった一人を愛したからだった。

『私の恋人だ、だからお前との婚約は解消する』

私は文次郎を伴って、鉢屋に相対した。その時の鉢屋の顔と言ったら随分と見物であった。
ぐずぐずしているから私のような冷徹女(いつだったか、鉢屋が私のことをそう罵ったことがあった)に先を越されるのだ、そう得意げにすると、鉢屋はきょとんと目を丸くして、そうみたいですね、と言って苦笑した。
そんな悪意のない鉢屋の表情は初めてで、そう素直に告げると、鉢屋はばつが悪そうに視線を泳がせる。

『いきなり呼び出すから、何事かと思った…なんか、毒気抜かれましたよ』

お幸せに、そう言って、鉢屋は踵を反す。
去っていく背中を見送りながら、お前もそういつまでも燻っているなと、心密かに檄を送ったのだった。

それから、鉢屋が仙蔵に執拗な嫌がらせをしてくることはなくなった。
ちなみに婚約を解消してきたと家の者に言ったら、祖母に酷く罵倒された上に頬をひっぱたかれたので、意趣返しというわけでもないがそれ以来私は家を飛び出して今は文次郎の家に世話になっている。
愛する者が、それ以上の惜しみない愛で返してくれる。それがこんなにも清々しいものかと、幸せというものを初めて謳歌していた私に、鉢屋がまた変わったちょっかいをかけてくるようになったのは、そう間を置かずすぐのこと。
私が家出をしたと聞きつけたらしい鉢屋は、まだ婚約が解消されたことを双方の家の者は認めていないということ、鉢屋自身は解消したと承認しているということを私に伝えた。

相も変わらず、不器用な方法で。

「先輩、」

なおも離すつもりはない様子の鉢屋は、首筋に顔を埋めてきた。
こそばゆさに身震いしながら、なにやら雲行きが怪しくなってきたなあ、と思ったところで、鉢屋の腕がぱっと離れる。かと思えば苦しいくらいにまた抱き竦められて、しかしこの腕は鉢屋のものではない、よく知る熱だった。

「文次郎、」

押し付けられた胸から顔を出すと、文次郎は正面を真っすぐに睨み据え、全身で怒気を放っていた。精一杯首をひねってその視線を追えば、当然そこには鉢屋が立っていて、悪戯が成功した子供のように楽しげに文次郎の視線を受けとめている。

「てめえはまた性懲りもなく、一体なんのつもりだ」
「おお、恐い恐い。じゃあ先輩、また」

文次郎の地を這うように低い声をものともしない様子で肩を竦め、鉢屋はあっさりと踵を反す。
そういえば鉢屋は、いつから私を『先輩』と呼ぶようになったろう。以前は確か『立花仙蔵』と高圧的にフルネームで呼ばれていたような。私とあの男との関係も、名前こそないが、少しは穏やかなものになっているのだろうか。
颯爽と去っていく背中をこの光景何度となく見たなあ、とぼんやり見送って、仙蔵は未だ緩まない文次郎の腕を指でつまんで軽くひねる。

「おい馬鹿文次郎。いい加減に離せ、苦しい」
「…お前もなんで抵抗しねぇんだ」
「あれ相手に抵抗しても喜ばせるだけだ」

未だ不満そうに眉間に皺を寄せる文次郎に、思わず笑む。するりと腕を文次郎の首に回し、背伸びをしてそっと唇を重ねた。

「私が合理的でないことをしてもいいと思うのは、お前だけだよ」

わからない、といったように文次郎の眉間の皺が更に深くなるのがおかしくて、声に出して笑ってしまった。今度は拗ねたように顔を歪める文次郎から返される口付けに答えながら、こっそりと鉢屋のことを思う。
この様子から主に被害を受けているのは文次郎のようだが、鉢屋が未だに私にちょっかいをかけて困らせようとするのはどうやら嫉妬からくる八つ当たりだ。

自分の隣にも愛する人がいるはずなのに、いない。
同じ立場であった私にはいるのに、自分にはいない。

その気持ちはわからないでもないのだ。だから今は、好きなようにさせてやる。
そうしていつかあの男の隣にも愛する人があるようになったなら、その時にこそこれまでの報復をたっぷりとしてやろう。
今から楽しみじゃあないか。

「…何を考えている?」

口付けの合間に心あらずであった私を、文次郎は視線で責める。私はこの目が好きだ。

「お前のことだよ」

言って、今は私もこの口付けに溺れることにして、ゆっくりと瞼を閉じた。





10.01.27
仙蔵と三郎はフルネーム呼びから名字読み、名前読みに変わっていくといい

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