ルフラン
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一際寒い冬の日の夜の事だった。
肌寒さに、手元の本から視線を上げ窓の向こうを見詰めると、一面の銀世界が紅い目の中に眩くに映りこんでくる。
枯れた木々の上に積もった雪が、木の葉の代わりとなって裸の木々を白く彩っていた。
微かに飛び込んでくる月の光が、彼の瞳の色とよく似た赤いソファーに腰掛ける青年の手元で閉じられた赤い表紙を照らし出す。

「何を読んでいるんだ」

ぱちぱちという暖炉の音が、低い男の声とともに青年の耳に飛び込んでくる。
突如部屋へと踏み込んできたフロックコートの男に驚く事もせず、窓の向こうに視線を向けたまま、黒い長髪を一結びにした男は表紙に箔押しされた金色の「マクベス」の文字を数度なぞった。

「なんだっていいだろう」

「そうか」

ブラッドレイはしばし柱にもたれかかったまま、ゆっくりと瞳を閉ざしていった。
何もしてこない男の不気味なほどの静けさに、青年がようやく呆れたように体の向きを変える。

「大事な話なのか」

「そうだな、大事な話かと言われればそうなんだろう」

「勿体ぶらずにさっさと話せ」

長髪の青年の顔に苛立ちが滲む。それを曖昧な笑みで濁し、ブラッドレイは腕を組んだままきっぱりと言い切った。

「しばらく旅に出る」

「旅?」

「そうだな……。10年経っても戻ってこなかったら、私は死んだものと思え。そうなればこの屋敷は名実ともにお前のものだ、おめでとう」

「ちょっと待て、何を勝手に」

「なんだ寂しいのか。「いなくなればせいせいする」と口癖のように言っていたのはお前の方だろう」

いつだって、ブラッドレイ・ルフランという男は身勝手だ。
表情筋をぴくりとも動かさず、声だけが尊大。世界で一番偉いのは自分だとでも言わんばかりに胸を張り、青年を拾ったあの日から変わらず余裕を崩すことはない。
月人の言葉に耳を傾けているようで、打ち明けた時には既に男の中で回答は出ている。天上天下唯我独尊を地でいくとは正にこの男のこと。
今回も、月人に話す前にもう答えは出ていたのだろう。しかし、旅に出るという割には軽装だ。黒のフロックコートに同じく黒いブーツ。防寒の面では十分かもしれないが、荷物というものは何も持っていない。鞄の一つも持たずにどこへ行く気なのだと問い詰めれば、「どこだっていいだろう」と鼻で笑われる。

「どうしても、行かなければならない場所が出来た」

「あなたがそう決めたというのなら、俺が引き止めたところで無駄なんだろう。好きにすればいい、そしてもう二度と帰ってくるな」

「酷なことを言うな。これが今生の別れだったらどうする気だ」

「あなたはそう簡単に死ぬタマじゃない」

「ああ、そうだな」

ぐしゃぐしゃと、片手で髪を掻き乱される。子供の頃を思い起こさせる行為に、青年は咄嗟にブラッドレイの腕を振り払っていた。
不意に、違和感を覚える。珍しく、ブラッドレイが笑っていた。久しぶりに見た男の笑顔は、どこか引きつっているようにすら見え、青年はしばし振り払った腕を下げることも忘れ、まじまじと男の顔を凝視していた。
だが、殊勝な事を思うものではない。
次の瞬間には髪を乱していた腕で頭を一発殴りつけてきたブラッドレイに、何かあったのかと心配していたのが馬鹿らしくなってきた。痛む頭を押さえ見上げたところには、いつもと変わらぬ威圧的な無表情があった。

「……心配して損した気分だ」

「馬鹿にするな。お前に心配されるほど落ちていない」

背を向け、ブラッドレイは振り向きざまに青年を鼻で笑った。

「では、この屋敷を頼んだぞ」

かと思えば声のトーンを下げ、威圧するように語りかけてくる。
相変わらず身勝手な男だ。しかし、その身勝手さに救われたのも確かなのだ。
そう遠くない昔、赤城月人だった自分に吸血鬼としての行き方を教えてくれた相手。吸血鬼としての父とも、師匠とも呼べる相手。
ああ、それでこそいつものブラッドレイだと青年は少し安堵を覚えいた。
もし、もしもの話ではあるが、この男の話通り本当に戻ってこなかったとしても、月人は生涯この男を忘れる事はないだろう。
それもそうだ。これ程身勝手な人間は、そうはいない。

「ああ、そうだ。言い忘れるところだった。この森の奥に池があっただろう。10年経っても私が戻ってこなかったら、そこへ行ってみるといい。きっと、いい暇つぶしになる」

不敵な笑みを浮かべ、男は再度背を向ける。

「キース・ルフラン。お前は我侭なところもあったが、そこそこに出来のいい息子だった」

窓が開き、冷たい風が勢いよく部屋の中に飛び込んでくる。
呆気に取られたキースが次に目を開いた時、そこにブラッドレイの姿はなかった。
風に吹き消された暖炉から、黒い煙が立ち上る。ぱたり、とキースの膝の上に置かれたいた本が立ち上がった拍子に床に落ちた。
次の年、ブラッドレイは戻ってこなかった。
それから3年、5年、8年。
そして、10年目の冬を迎えてもこの屋敷の主人が戻ってくる事は二度となかった。

*  *  *

夢を見ていた。覚める事のない、叶う事のない夢を。
頭上からうっすらと太陽の光が差し込む水底でたゆたいながら、少女は永い永い眠りについていた。
夢の中、少女は親友だった人と穏やかな時間を過ごしていた。放課後の公園、二人ベンチに腰掛け他愛もない会話をする。
自分の正体も、しでかした事も、すべてを忘れ、夢の中でだけは惨劇の前の穏やかな時間が続いている。遠くでカラスの鳴く声がした。
あの日、化け物に成り果てた少女は二度とは戻れないと知りながら、平凡な世界の夢を見る。いつも通り学校に行って、いつも通り昼食をとり、いつも通り寄り道をして、眠り、また学校へ行く。夢の中の少女は血を求める事もなく、夜中に自我を失う事もなく、穏やかな惰眠を貪っている。幸せだった。このまま二度と眠りから覚めたくなどはなかった。
そんな少女の意思を真っ向から否定するかのように、何かが水底に沈んでいた華の体を夜の闇の中へと引き上げていく。
男は華の体を胸に抱き、ざばざばと陸へと上がっていく。

纏うワインレッドのシャツが水に濡れ、月明かりに照らされた男の白い肌をうっすらと浮かび上がらせていた。
金の髪の少女を地面に横たえた男は、濡れた前髪をかき上げながらながら舌打ちをこぼす。
青白い顔をした少女は、どこからどう見ても「眠っている」という次元ではなく「死んでいる」ようにしか見えなかった。
だが、彼女と同じ存在である男には、この程度で死ねる筈もない事は分かりきっていた。
舌打ちを零し、男は自身の右手首に牙を突き立てた。傷口からはゆっくりと血が滴り落ち、男の肘からぽたり、ぽたりと落ちては地面に赤い跡を残していた。

「不味いだろうが我慢しろ」

左腕で少女の口を無理矢理開き、男は傷口を華の口へと近付ける。
ぽたり、ぽたりと数滴少女の口へと男の一部が注がれていく。舌の上を伝い、喉の奥へと血が流し込まれた次の瞬間、止まっていた筈の心臓が何事もなかったかのように拍動を始めた。
びくんびくん、と少女の体が数度痙攣を起こす。片膝をつき、シャツの一部を切り裂き止血を行いながら少女を眺めていた男は赤い瞳を威圧的に細めた。
次第に真っ青だった肌には血色が宿っていき、男が数度瞬きを繰り返した頃には頬はうっすらとだが薔薇色に色付いていた。
次の瞬間、閉ざされていた少女の赤い目が姿を現す。反射的に飛び起きた少女にも動じる事なく、男はそのままの体勢で少女の動向を見守っていた。
暗い夜の森の中、月だけが二匹の鬼を夜の闇の中へと浮かび上がらせる。
起き上がった少女は片手を口に当てると、今にも胃の中のものをぶちまけそうな様子で、先ほどまで自身が沈み込んでいた池の淵に向かうと、おえっと喉の奥から声を発しながら既に吸収されてしまったものを吐き出そうともがいていた。
吐き出せないのだと察すると、今度は池の水を大量に口に含み、口の中に残った苦味を水で流し込み始める。
少女はしばらくぜぇはぁと肩で息をしたかと思えば、ゆっくりと池に背を向け男に鋭い視線を向けた。

「お目覚めかな、お嬢さん」

「……不味い」

少女の苦虫を噛み潰したかのような第一声に、男がおどけたように肩をすくめて見せる。

「人が人肉を食わないように、吸血鬼の血というのは不味いものだよ、お嬢さん。同士の血を美味いと感じるのだとすれば、それこそ異常だ。その点君はまだ正常だ。おめでとう」

「……どうして、私を助けたの」

「強いて言うなら、暇つぶし、かな」

華の瞳が威圧的に細まり輝きを増す。

「そんなふざけた理由で人を生き返らせないで」

「心外だな。私はふざけてもいないし、君を生き返らせたんじゃない。休眠状態から起こしてやっただけだ。――そもそも」

男の瞳が一層強く輝く。お前のような小娘など簡単に消し炭にしてやれるんだぞ、と言わんばかりの迫力に、華は思わず小さく悲鳴を上げ固まった。

「人じゃないだろう、私達は」

最初の威勢はどこへやら、言うにつれ男から勢いが削がれていく。自分に言い聞かせるようにも思えるそれに、華は俯いたまましばし無言になった。

「ええ、そうよ。あなたの言う通り。人間じゃない。……私は、人殺しの化け物だわ」

止血を終えた男の眉間に皺が寄る。
剣呑な光を宿した男の目に気付かないまま、膝の上でワンピースの裾を握りしめ、地面に座り込む。

「こんな私に生きる価値なんてない。……あのまま眠っていた方が幸せだったのに」

濡れた髪から滴り落ちた水滴が、涙のように地面を黒く染めていく。
舌打ちをした男は、盛大に溜息を吐くと立ち上がり長い髪を乱雑に振り乱し少女へと歩み進める。再度前髪を鬱陶しげに掻き上げると、ずかずかと座り込む華の目の前に立ちふさがった。
男の靴を目に入れた次の瞬間、華の体は宙に浮いていた。男は暴れる華を軽々と荷物のように肩へ担ぎ上げ、そのまま大股で山道を進んでいく。その細い体のどこにそんな力があるのかは定かではないが、想定外の安定感だ。
いや、問題はそこではないだろうと華はなんとか一矢報いてやろうと頭を働かせる。その間にも男の足は目的地があるのか迷いなく進んでいく。苦肉の策として、華はバタつかせていた足の片方を振り上げ、男の脇腹に渾身の膝蹴りを叩き込んだ。
グッ……と男が呻き声を上げる。それでもしっかりと華を抱えているあたり、抵抗という意味では成功かもしれないが、脱走という見知からは失敗に終わったようだ。
ならばもう一度、と再度足を振り上げた所で、男の空いていたもう片方の腕が華にボディーブローを打ち込んできた所で、華の意識はぷつりと途切れた。
次に意識を取り戻した時、華の体は柔らかな温もりに包まれていた。もぞもぞと体を動かしながら、ゆっくりと瞼を押し上げていく。最初に目に飛び込んできたのは真っ白な枕だった。

「君には教えることが山ほどありそうだ」

近距離で聞こえた低音に、華は布団を捲り上げ飛び起きた。
ベッドサイドに置かれた上等そうな一人がけの真っ赤なソファーに腰掛けた男は、眉を吊り上げ睨み付けてくる小娘に全く動じない。膝を組み、頬杖をつきながら男はわざとらしくため息を吐いてみせる。

「貴方から教わることなんて何もない」

ベッドの上の華が身を乗り出せば、少女の下ろされた髪がはらりと宙を舞う。
牙をむき出した子猫に、男はそのままの体勢で瞳を閉じ嘲笑を浮かべる。
ゆっくりと赤い目を露わにしながら、男は威圧するように華を睨み付けた。

「「精神的に向上心のないものはばかだ」」

ぴくり、と華の眉が訝しげに動く。

「誤解しているようだから一つ言わせてもらうが、君は自分が、「吸血鬼」という生き物がどういう存在なのか完璧に理解していると言い切れるのか?」

「……貴方は全部知ってるって言うの? 」

「無論、私も全てを知っている訳ではないさ。それでも」

男の目が輝きを増す。

「君のような「長く生きているだけの小娘」、なんかよりは理解していると自負しているのだけれどね」

華が言葉に詰まる。溜息を吐き、男はにっこりと中身の伴わない不気味な笑みを浮かべてみせた。

「で、君はどこまで吸血鬼について理解しているの?」

「……何も」

すっと男の目が細まる。

「私は何も知らない!! 私は普通の、平凡な、どこにでもいる普通の人間だった!! だっておかしいじゃない! なんで私が、私が……!! 」

頭を抱える華の脳裏に過るは、あの日のおぞましい記憶。血を啜る化け物と化した自分の姿。自らの手で命を奪った親友の死の間際。

「仕方ないだろう。私達は、「そういう生き物」なのだから」

華の動きが止まる。おぞましいものを見るような目で男を睨み付けた。
体が震えていた。恐れではなく怒りに。

「何も知らない癖にそんな風に言わないで!! 」

「分かるさ」

「いいえ分かる訳がない。貴方は私とは違う。きっと血を吸うことに何の躊躇いもないんでしょう!? 貴方は生まれつきの吸血鬼かもしれない、でも私は違う!! 私は、本当に、昔は普通の」

「私だってそうだ」

言葉が途切れる。ぽかん、と呆気にとられた顔で華はしばし身振りをつけ雄弁に語る男の顔を凝視していた。

「「少しばかり」物覚えが良く、「ちょっとだけ」運動神経が発達している、周りの人間より「たまたま」見目良く生まれてきただけの平凡な子供だった。父親は弁護士、母親は家庭菜園や裁縫に勤しむ、ありがちで平凡な良くある金持ちの家の、外聞的には理想的な家庭だった。でも……あれは確か小学校に上がったばかりの頃だったかな。「普通の食事」では満足出来なくなった」

華の瞳が動揺に激しく揺れる。

「無論、「美味しい」と感じる事は出来る。けれど、「満たされない」。君にも分かるだろう?」

身に覚えがあった。だからこそ、反論することが出来なかった。

「それからだね、夜な夜な血を求め彷徨い歩くようになったのは。元から、両親のどちらにもあまり似ていなかった私は「養子」という事になっていたし、両親ともに、他人の目がないところでは私を疎ましく思っていたようだけれど……。ある晩、「食事」の瞬間を見られた」

「それで、見られて……どうしたの」

自分でも恐ろしい程静かな声だった。返す男の声も穏やかなものだ。

「殺したよ。私が、この手で」

手袋の上から自分の手を見ながら、キースは静かに言葉を零す。

「それから運良く前にこの屋敷の主だった男に拾われた私は、彼から吸血鬼としての生き方を教わった。……なに、慣れれば案外やっていけるさ。まずは自分を受け入れることから始めるといい」

「……よくも。よくも、自分の両親を手にかけておきながら、そうもヘラヘラしていられるわね」

男が視線を華へと向ける。
男をまっすぐに捉えた少女の赤い目は、明確な蔑みの感情を含んでいた。
まだ人間の感情を残している少女に向ける男の眼差しも、また、冷たい。

「君にもいずれ分かる日が来るさ」

「絶対に、来ないわ」

「じきに慣れる」

「……貴方と意見が合う日は絶対に来ないでしょうね」

「どうとでも言うといい」

言いながら男が立ち上がる。少女に背を向け、余裕の笑みを浮かべながら長い髪を揺らし、男は客室を後にしようと扉へと歩を進めた。ドアノブに手をかけ、男は思い出したかのように少女に微笑みかけた。

「そういえば、まだ名を言っていなかったね。私はキース・ルフラン。気軽にキースとでも呼ぶといい。さて、君の名前も教えてもらえると助かるんだがね」

「……それ、本名なの?」

「どうだと思う?」

しばし黙り込んでから、華はぽつりと言葉を零した。

「……ロザリア」

思い浮かんだのは、いつの日か葵から聞いた名前だった。どうして今それが浮かんできたのかは分からない。
だが、こんな男に自分の本当の名前を知られるのは非常に癪だったのだ。
おそらく偽名だと分かっていながら、キースは優雅に微笑んでみせる。
獰猛な本性を隠し持っていながら、男の笑みは生まれながらの貴族のように余裕を持っていた。

「同族同士、君と仲良くやっていけることを願っているよ、ロザリア。ああ、そうだ、……その服は私からのプレゼントだと思うといい」

不穏な笑みを残し、キースは客室から姿を消した。

「服……?」

言われてみれば、水の底から引きずり上げられたあの時、二人とも下着までびしょ濡れだった筈だ。
しかし、今のロザリアの体にも、先程のキースの体にも濡れている痕跡は見られなかった。
まさか、と恐る恐る自身の胸元に視線を落とす。
目に入ってきたのは鬱陶しいほどのフリルがあしらわれた赤いワンピース。
着替えた覚えは全くない。

そこまで考えたところで、ロザリアは無意識に拳を痛いほどに握りしめていた。
脳裏に浮かんできたいけ好かない男の笑顔に唾を飛ばし、ロザリアは転がるようにベッドから飛び降り、全速力で扉の向こうに消えたキースを追いかけていた。

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