私の中の獣
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雨が、降っていた。
少女の持つ小さな赤い傘が、一面の曇り空の下で鮮やかに色付いている。
辺りには誰もおらず、華は一人雨の公園の中しゃがみこみ、紫陽花の葉の上をゆっくりと滑るように進んで行くカタツムリを眺めていた。赤いチェックのワンピースの裾に水が跳ねるのも気にせず、何を考えるでもなく呆然と。

「綺麗な髪ね」

背後から声が聞こえた。
ちらり、と背後に視線を向ける。青い傘を差した少女が立っていた。
歳は華と同じくらいだろうか。少女は一歩二歩と長靴で水たまりの中を進み、華へと近付いてくる。

「……私に何か」

素っ気ない声にも関わらず、少女は華へと距離を詰めてくる。
傘を差したまま華のそばにしゃがみこみ、朗らかに笑んでみせた。

「あ。えっとね。特に用事って訳じゃなくて、ただちょっと気になっただけって言うか、こんなところで何してるんだろうっていうか……。ほらだって凄い雨だし」

「かたつむり」

「え?」

「かたつむり、見てるの」

華の視線の先を追い、やっと少女は気が付いたのか小さく声を上げた。
特にかたつむりが好きだとか、そういう訳ではなかった。
ただ、あの家と呼んでいいのかも怪しい魔窟にいるくらいなら、外にいた方がマシだと、そう判断しただけのこと。
眼鏡の奥の赤い目が不安定に揺れる。

「そっか。かわいいもんね、かたつむり」

「そうだね」

きっとこの子は、普通の家の普通な子なんだろうなと、華はそっけない答えを返し、華は再びかたつむりに視線を戻す。
葉っぱの上をのんびりと歩いていく様が、ひどく羨ましいと思った。
どこにでもいる普通の生き物、珍しくもない、いたって平凡な存在。

「私なんかと関わったら、変な目で見られるよ」

「どうして?」

「……みんなと、同じじゃないから」

「いいじゃない、別にみんなと違っても」

大きく目を見開き、自身を見つめてくる金髪の少女に、神崎葵はにっと口角を吊り上げた。


*  *  *

人の飼い犬に犯人が手を掛けてから一週間。
梅雨の到来もあり、教室の空気は暗くなる一方だった。
警察や保護者による巡回も数を増し、小さな田舎町は一種のパニックに陥っていた。
誰が言い始めたのかは分からない。だが、ある時を境にまことしやかに囁かれ始めた噂がある。
今回の事件は全て「吸血鬼」の仕業なのではないか、と。

最初は面白半分だったのだろうが、一向につかまらない犯人に、皆痺れを切らし始めていた。
次に殺されるのはきっと人間。次でなくとも、その次、もっと先かもしれないが、いずれは必ず。
いつか必ず自分達に向けられるであろう牙を、人々は恐れていた。

そんな空気が小さな町の中を包んでから数週間、丁度梅雨が明け、本格的な夏が始まった7月の頭。
前回の事件から3週間程、何の騒動も起きていなかった事から、町の人間も安心し始めていたそんな時だった。

「華、大丈夫?」

短縮授業も解除され、のんびりと晴れ渡る空の下教室で昼食を取る。
そんな天気とは反対に、真っ青な顔をしている親友に葵は眉を顰めた。

「あ、うん。ちょっと寝不足なだけだから。全然平気、大丈夫」

へにょり、と情けなく笑って見せた華の目の下には、確かにくっきりとクマが刻まれていた。

「最近ちょっと体調がましになってきたと思ってたのに。……季節の変わり目だから?風邪でも引いた?」

「ほ、本当に大丈夫だってば!」

「じゃあ、私のさっきの話聞いてた?」

「えっと……」

「ほら聞いてない。だ、か、ら。助っ人として今日は夜の見回りに参加すーー」

「駄目!!」

耳障りな音を立て、華が立ち上がった。彼女にしては珍しく鬼気迫った顔で、机に両腕を付き、肩を揺らし荒い息を零す。

「えっと、華?」

「それだけは駄目。絶対、駄目。……その、だって、危ない……だろうし、だから、その」

「心配してくれるのは純粋に嬉しいよ。大丈夫大丈夫、私はそう簡単に死んだりしないから」

「そう……だね」

小声で呟き、華は静かに椅子を引き腰掛けた。
縮こまって食事を再開し始めた華に、葵は悪い事しただろうかと眉を下げた。

その日の晩。
楽になってしまえと囁きかけてくる悪魔に必死に抗い、華はベッドの上で布団にくるまったまま震え上がっていた。
一種のおまじない、のようになっている黒ぶちの眼鏡をしっかりと両手で握りしめる。
眠ったら終わる。全て終わる。
もう一度眠ってしまえば、今度こそ宮裏華という人間は死んでしまう。
そんな気がしていた。上から布団を被り、ベッドの上に座り込んでどれ程の時間が経ったのだろうか。
眠ってはいけない、今夜だけは意地でも乗り切らなければならない。
泥のように眠った次の日、華からはその晩の全ての記憶が抜け落ちている。
夢も見ずに深く眠っていたのだろうと最初は考えていたが、相次ぐ動物の惨殺事件。流石におかしいと気付く。
現に、眠る事さえ我慢していれば何も起きないのだ。
そもそも、三週間近くも起きたままでいられるというのがおかしい。

明らかに普通じゃない。
お願いします、神様、助けてください。
眼鏡を強く握りしめ、華はただ祈っていた。
施設の小さな部屋の中、お化けを怖がる子供のように。
現に、華は恐れている。自分自身が起こしたのであろう悍ましい事件の数々を。

自分は一体どうなってしまったのだろうか。
不意に、クラスメイト達が噂として囁いていた言葉を思い出した。
次の瞬間、ドクンと心臓の拍動が増す。早まっていく鼓動に、強く揺らぐ赤い目が暗闇の中鈍い光を発していた。

「わ、たし……わたし、は」

嫌だ。化け物になんてなりたくない。
宮裏華の意識に反し、体は血を欲し疼く。
噛み締めた唇の間から、一般的な人間のそれより鋭い犬歯がむき出しになっていた。
嫌だ、これ以上誰も傷付けたくなんてない。
血をすする化け物になんてなりたくない。
こんな自分を肯定してくれた葵を裏切りたくない。嫌だ。絶対に嫌だ。
やっと自分を肯定できるようになった。
金色の髪も、赤い目も、日本人離れした白い肌も、ようやく受け入れられるようになった。
それが自分なんだと、やっと前向きに思えるようになったのに、それなのに、どうして。

震える体を必死に抑え込む。
握りしめた眼鏡も一緒になって震えていた。

「いいじゃない、別にみんなと違っても」

かつて華を救った筈の言葉が、今度は華を追い詰め始める。

ああ、そうだ。

人と違ったって、いいんだ。
そう言ってくれたのは、他ならぬ葵じゃないか。

瞳が輝きを増す。
どうして、化け物じゃいけないんだろう。
人と違ったっていいというのなら、化け物であってもいいじゃないか。
ああ、そうだ。
最初から化け物としてこの世に生を受けたのならば、悪逆の限りを尽くす魔獣と化したってなんらおかしい事はない。
人の首筋から血を啜り、それをこの身の糧として何が悪い。そうやって生きる事を決められて生まれてきたと言うのなら、存分に血を啜ろうではないか。
最初から間違っていたのだ。人間であろうと馬鹿みたいに善人ぶるからいけない。
最初から、この身は人などではなかったのだ。
さぁ、食おう、殺そう、その腸を切り裂き中身をぶちまけてしまおう。
首筋から血を啜り、全ての血を抜き取ってやろう。
足りない、足りない、体が血を欲している。疼く、乾く、満たされない。
血を、血が、血、血、血が、血が足りない、血、ああ、血が欲しい。欲しい、欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲欲!!!!!

嗚呼!それが普通!これこそがあるべき姿なのだ!

ならば、どうして。どうして、私はこんなところで怯えていたのだろう。
いや、そもそも私は……。

「何に、怯えていたんだっけ……?」

理性が、手のひらから零れ落ちる。
床に落ちた眼鏡が音を立てて割れた。


*  *  *

叫び声が聞こえる。まずは一人、二人。
残り三人。
聞き覚えのある声がしたような気がした。
だからどうしたと言うのだろうか。
誰にも咎めさせはしない。これが、化け物の、吸血鬼の本来の姿なのだから。
逃げろと遠くで声がした。
口角を吊り上げ、背を向けた男に牙を突き立てる。乾きが満たされていく。
あと二人。
まだ足りない。疼きは増し、吸う程に乾いていく。
本当に欲しいものはこれじゃないとばかりに息が上がっていく。

視界がぐらぐらと不安定に揺らいでいた。
赤く染まる視界に再び口角を吊り上げ、華だったものは最後の一人を庇おうとする男に牙を突き立てた。
ああ、この男はそこそこ美味いかもしれない。
そんな事を思っていると、いつの間にか男の体がぽろぽろと崩れ落ちていた。最後には粉となって風に消えた男に、最後の一人は腰を抜かしていた。あと、一人。

ゆっくりと近付いていき、腰を抜かしている少女に合わせ腰を屈める。

「ぁ……あ……」

か細い声を漏らし青い顔をする少女に、化け物は静かに抱きつく。
少女が何か言おうとする直前、華は勢いよく少女の首筋に牙を突き立てた。

「ぁ……」

呻き声が少女の口から溢れ出る。
匂いすらも心地よいとばかりに息を吸い込み、華は躊躇なく美酒を啜り取っていく。
格別だった。今まで吸ってきたものの比ではない。比べるのすらおこがましい。
美味しい、美味しい。
喉の奥に血を流し込んでいく度、甘やかな刺激が背を駆け抜けていく。

「……は、な」

耳元で聞こえた小さな声が、華の意識を急激に現実へと引き戻した。
鋭い光を放っていた瞳が元の落ち着きを取り戻す。
だが、自身の腕の中で青い顔をしている少女の存在に気付いた瞬間、恍惚に染まっていた頬から血色が消え失せた。
激しく揺らぐ赤い目が写していたのは、既に事切れていた親友の姿だった。
突き刺していた牙を抜き、必死にぐったりと横たわる葵の体を揺する。

「葵!……葵っ!!」

動きはない。
二度と息を吹き返すことがないと知りながら、何度も体を揺すり続ける。

「葵っ……!!嘘だって言ってよ……っ。葵ってば!!」

何度揺すっても反応はない。
なんて事をしたんだと、不意に、自分がいままでやってきた事がフラッシュバックしてきた。
覚えていなかった夜の記憶、その全てが華の頭の中を駆け巡っていた。
全てを思い出した時、急激な吐き気が華を襲った。
葵から距離を置き、道の端の方で思いっきり胃の中の血を吐き出す。
げほごほと何度も咳をし、生理的な涙を零す。湧いてくる感情はただ「気持ち悪い」とそれだけだった。

ガンガンと痛む頭で振り返れば、視界に入ってくるのは死体の山と血の海だった。

再び襲ってくる吐き気に口を押さえ、数歩後ずさる。
なんて事をしてしまったのか。取り返しがつかない。
人だけは絶対に手にかけまい、そう思っていたのに。それどころか、今手にかけてしまったのは

「わたし、わたしは、」

「おい、誰かいるのか?」

突如聞こえた声に、華は飛び上がった。
とにかく動かなければと華は半ば転ぶようにして近場の林の中に駆け込んだ。
懐中電灯を持った別の見回りの班が死体を発見したのはその直後だった。

足を滑らせ林の中、坂道を転がり落ちていく。
強烈な痛みが身体を襲う中、華の意識に反し身体は転落を続ける。
身体を丸め、襲う強烈な痛みに耐えていると、突如身体が不気味なまでの浮遊感に襲われた。

次の瞬間、華の身体は水の中に沈んでいた。
どうやら、坂の下に池があり、そこに落ちたらしい。
急激な変化に身体は対応できず、口の中を水が犯していく。
ごぼぉ、と大量の空気が泡となり水と引き換えに口から出ていく。
なんとかしなければ、溺れる。死ぬ。

もがく身体とは反対に意識は朦朧としていく。

だが、こんな自分に生きる意味などあるのだろうか。
動物を殺し、人を殺し、あまつさえ親友だった人までをこの手に掛けてしまった。
生きる資格なんてない、意味なんてない。死んで罰を受けるべきだ。

そう思った瞬間、華はもがく事をやめた。
肺の中が水に侵されていくのを感じながら、水に身を任せる。
深い深い水の底へと沈んでいく。

ゆっくりと目を閉じた瞬間、世界から色が消えた。

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