おかえり
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「……冗談……ですよね……」

「冗談じゃない」

震える声で発された由香の願いをばっさりと切り捨て、キースは眼下の怯えた眼差しの少女に顔を更に近付けた。
唇と唇が後少しで触れ合う、という距離で赤い目は由香の瞳を覗き込む。
由香は逃げ腰になっていた。
どうしたらいいのか分からなかった。
咄嗟に判断出来なかった。

「逃げるな」

由香の両腕を押さえつけているのと反対の腕で、キースは逃げ腰になっていた由香の腰をガッチリと掴んで離さない。
零に限りなく近い体の距離。
なんとかキースから逃れようと体をよじるのだが、抵抗すればする程拘束は強まっていく。

「私は本気だ。……私の言う事に大人しく従って、追いかけるのを諦めると言うのなら、私は今まで通り、紳士として君に接する事を約束しよう。けれど、どうしても行くと言うのなら」

キースは少女の細い腰を抱く腕に僅かに力を込めた。

「ここで君を抱く」

キースは本気らしい。
言葉の端々には刺々しさがにじみ出ており、由香を睨む眼差しは鋭い。

「……私が。私が、ここでキースさんの花嫁になれば、お兄ちゃんを追い掛けてもいいんですね」

由香は身体を震わせながら必死に声を絞り出した。瞬間、驚いたかのようにキースの瞳が大きく見開かれた。
口を開け何か言いたげに喉を震わせていたが、結局何も告げる事はなく、キースの瞳は元の鋭さを取り戻すと由香を責めるように見詰めていた。

兄を放っておく事は出来ない。
今回の件に関しては、由香にだって責任がある筈だ。
兄の正体に気付けなかった。
誰より近くにいた筈なのに、何も分かっていなかった。
その結果がこれだ。

「キースさんが花嫁になれって言うなら、なります。だからお兄ちゃんを追い掛けさせーー」

追わなければいけない。
ここで、自分ひとりだけ皆に守られている訳にはいかない。
そんなの虫が良すぎる。
確かに兄が自分に向ける感情は歪んだものだ。それでも叶夜は由香を大切に思っていてくれた。
それが、由香の中での青桐叶夜像だ。

「君は、何も分かっていない!」

そう焦ったように叫んだかと思えば、由香の右腕を力強く掴み、そのまま引き寄せた。
中途半端に起き上がる形になり、由香は驚きに目を見開く。
忌々しげに眉を寄せ、普段に比べ幾分口調も荒々しくなっているように思えた。

「あの男は君が思っているような男じゃない!!君を私は二度も失いかけたんだぞ!?その度私がどんな気持ちだったか分かるか!?それでも、それでも殺さなかったのは君の為を思ったからだ!!ーーいいか、君は何も分かっていない。君はーー!!」

そこまで叫んで、キースは口を閉ざした。
由香の右腕から手を離し、その衝撃で由香は再びベッドに沈みこんだ。
キースは由香の腰は掴んだまま、空いた片方の腕で苦悶の表情を浮かべた顔を隠すように掴んでいた。

「嗚呼糞っ!」

突然零された粗野な言葉遣いに、由香はぽかんとしてキースの顔を見ていた。
焦った様子のキースを尻目に、どこか不思議なまでに落ち着いている自分がいた。

(キースさんも、そんな風に焦ったりするんだ)

あまりにいろんな事が立て続けに起こったせいか、まともに物事を考えられなくなってきているらしい。
それにしても、今、キースは一度ではなく二度と言わなかったか?
だが、頭が回りきっていないこの状況ではそれ以上考える事が出来なかった。
そんな由香を見てはっとしたのか、落ち着きを取り戻したらしいキースは、再度由香に身を寄せ、確かめるように囁いた。

「……本当に、いいんだね」

一瞬、由香の中に迷いが生まれた。
このまま、全て忘れてここで大人しく守られていればいい。キャロラインの助言に従うのなら、ここでキースの花嫁になってしまう事は、彼女への裏切りになるのだろう。
それでも、由香は兄を追いたかった。
その為の最善策が、これ以外に思いつかなかった。

「はい」

これでいい。
遅かれ早かれ、由香がキースから逃げられない限り、この人に身を捧げることになるのだ。それが少し、早まっただけの事。
何も取り乱す事はない筈だ。
なのに、先程から震えが止まらない。
ごくりと生唾を飲み混む音がやけにうるさく感じられた。心臓が早鐘を打つ。
自分で言っておいて何だが、早速由香は後悔の念に苛まれた。

由香の返事を合図に、キースの気配が変わる。由香の首筋に残る叶夜の傷跡に小さく舌打ちする。
どこか凄味すら感じられるそれにびくりと身を震わせ、由香は固く目を閉じた。
ぎしりとベッドが軋み、そんな由香を慰めるように、頭のすぐ横に手を起き、キースは由香の額に柔らかな口付けを落とした。

「出来るだけ、努力はしよう」

何を、とは聞かない方がいいのかもしれない。
再度額に口付けを落とし、瞼、頬と段々口付けの場所が下がっていく。

「……舌を出して」

言われた通り、目を固く閉じたまま恐る恐る舌を出せば、キースの舌が絡められる。
そのまま唇を押し当て、キースは慣れた手つきで由香の舌を蹂躙し始めた。

「ぅ……ん……っ!」

僅かに上がった声に機嫌を良くしたのか、雰囲気を和らげると、キースは由香の頬に手を当て、優しく撫であげた。
ぬちゃぬちゃ、という生々しい唾液の混ざる音が頭の中にこだまする。
体は火照り、由香は気付かないうちにキースの腕に爪を立てていた。

キースはそれに、気を悪くした素振りなど全く見せず、むしろ喜色を滲ませていた。

目に涙を浮かべながら、苦しさに、救いを求め、うっさらと瞼を開けて、由香は早速後悔した。

目に飛び込んできたのは、壮絶な色気を纏い、欲情しきった様子で由香をその瞳に捉えるキースの姿だった。

それまで瞳を閉ざし、少女の唇を無遠慮に貪っていた男は、由香の瞳が見開かれている事に気付くと、目を細め優しく微笑み、喉元を魅惑的に上下させると、最後にぺろりと由香の唇を舐め、名残惜しげに口付けを中断した。

一心不乱に自身を求めるこの世のものとは思えない美丈夫の姿に、恥ずかしいと思いながらも、ぞくりと、身体の奥が切なく疼いた事に由香は気付いてしまった。
胸で息をしながら、どこか恍惚に満ちた様でキースの行動を見守る。

「ぅ……っ……」

首筋に口付けられた瞬間、喉元から再び嬌声が滲む。頭上のキースが笑う気配がする。
恥ずかしさに微かに身をよじれば、仕置とばかりに柔らかな口付けが一変、軽く首筋を噛まれた。

「ぃ……っ!ぁ……っ……!」

痛み混じりのそれに、またしても声を上げればキースの目元が細められる。

「もっと早くに、こうしておけば良かったのかもしれない」

不穏な呟きをこぼし、キースは由香のワンピースのボタンを一つ、また一つと外していく。
ゆっくりと、噛み締めるかのように慎重に。

「キースさん……?」

涙を微かに浮かべながらの問いを曖昧に濁し、キースは軽く由香の頭を撫でた。

「ただ、自分の心の醜さを、改めて思い知らされているだけだよ。……由香」

名前を呼ばれ顔を上げれば、柔らかな微笑とぶつかった。

「愛しているよ」

時々、キースの事が分からなくなる。
好きだと戯れに言われる事も、こうやって愛を囁かれる事も、どうしてなのか、今だって分からない。
そんな時は無性に泣きたくなる。
申し訳なくて、何がなんだか分からなくなって。
時々感じる彼に対する懐かしさは何なのか。
この、一方的なまでの献身は何なのか。

由香の足の間に、自身の足を割り込ませ、露になった、決して豊満とは言えない胸に唇を寄せる。
腰に指を這わせ、心酔しきった様子で何度も撫でる。

「君が私を嫌いになったとしても、もう、構わない」

後少しでスカートの中に手が入るというその時、キースの動きが止まった。

「そこまでにして頂きましょうか」

聞こえた凛とした、それでいてどこか凄味を感じさせる冷淡な声に、由香は咄嗟に目を見開いていた。
そこにいたのは確かにキャロラインだった。
キースの、本来主で在る筈の人の首に、背後から銀色の刃を突き付け、キャロラインは真っ直ぐに由香を見ていた。

「忘れたとは言わせません。貴女は誰の花嫁にもなるべきではない。……忠告した筈でしょう?」

彼女の言葉遣いには怒りすら感じられた。

「……行ってください」

由香は動けなかった。黙ってキースとキャロラインの顔を交互に伺うように見る。
キャロラインはここで大人しく守られていろと言った。
全て済むまでここにいればいいとも言った。
それと同時に、誰の花嫁にもなるなと言った。
キャロラインも自分の行動の矛盾に気付いているのだろう。忌々しげに由香を睨み付ける瞳の奥には彼女なりの苦悩が伺える。

「行って」

キャロラインが自分の中の迷いを断ち切るように静かながら語調を荒らげる。
キースは暗い瞳で、由香を呪うように見詰めていた。

「行けと言ったのが聞こえなかったの!?行きなさい!!行って!!行けェェェェ!!!青桐由香ァァァァ!!」

顔を歪め、上げられた叫びに、由香はやっとはっとして身体を動かした。
顕になった胸元を隠すように左手で服の襟元を掴み、キースの腕の隙間をすり抜けるようにしてベッドから飛び降りる。
キースは逃がさないとばかりに逃げる由香の腕を掴もうとしていたが、キャロラインがそれを許さなかった。
キースの意識がキャロラインから由香に逸れた一瞬の隙に、立ち上がり由香を追おうとしたキースの首を背後から肘でガッチリと掴み、自分諸共キースにがっちりと抱き着いたまま、ベッドから床へと転がり落ちた。

二人分の重みに床が悲鳴を上げる。
どんガラガラ!!といったやかましい音が鼓膜を揺らす。
ベッドサイドに置かれていた花瓶が無残に散った。

走った。振り返らずにただひたすらに走った。
背後が気にならなかったと言えば嘘になる。ここで振り返ったらもう先へ進めないと思った。
ただ事ではない物音が由香の後ろ髪をひく。何かが折れる音がする。壊れ、散り、粉々になっていく。
走った。前だけを見つめ、階段を目指し一直線に。
半ば飛び降りるようにして階段を駆け下りていく。
途中足がもつれ転びそうになるもなんとか体制を整え、由香の身長よりもはるかに大きい玄関の扉を、全身を使って押し開けていく。
微かに通る隙間が出来た瞬間、急いで滑り込む。もう後ろは気にならなかった。
全力疾走で港家に向かって坂道を下っていく。
港家の微かに開いた玄関を目に入れた瞬間、世界の時間そのものが止まったかのように感じられた。
明かりは点いていない。夜の闇の中、真っ暗な一軒の家だけが由香を待ち構えていた。
的中しようとしている嫌な予感に、運動し、上がった筈の体温が急速に冷えていく。足元がバラバラと呆気なく崩れ落ちていく。
胸の前で片腕を握りしめ、息を飲み込むと、空いたもう片方の腕で勢い良く扉を開けながら中へ踏み込んだ。

「お兄ちゃん!!」

必死の叫び声への返事はない。
恐ろしいまでに静まり返った室内に、ぞっと血の気が引いていく。
気付いた時には靴を脱ぐことも忘れ、土足で階段を駆け上がっていた。

「かずくん!!お兄ちゃん!!」

叫びと共に勢いに任せ兄の部屋の扉を開ける。そして見たものに、由香は声を失った。
口元を押さえ、一歩、二歩と引き下がっていく。廊下の壁に背が当たった瞬間、始めて由香は声を発することに成功した。

「ぁ……」

声と呼べるのかすら怪しい微かに漏れ出た音だけが、情けなく無人の家内に響き渡った。
広がっていたのは、床一面に広がる赤だった。兄の姿も、和真の姿もない。死体もなく、一面の血の海だけが由香の視界を赤く汚していた。
このままここで怖気付いている訳にはいかない。由香には確かめる義務がある筈だ。これが誰の仕業で、この血は誰が流したものなのか。兄の仕業なのかどうか。
深呼吸し息を整え、由香は恐る恐る室内に足を踏み入れた。乾ききった血は既に赤黒く染まっており、かなりの時間が経過したのであろうことが伺い見れた。時計を見れば、時刻は深夜の12時30分。どれだけの時間自分が眠っていたのかを考えると、自分の鈍感さに殺意すら湧いてきた。
部屋を満たす吐き気がするほどの血の香りに、由香の身を吐き気が襲う。それをなんとかやり過ごし室内を見渡していると、兄の勉強机の上に何やら光るものを見つけた。銀色の拳銃。かつて由香はこれを一度目にしたことがあった。キースが肩を撃ち抜かれたあの時、和真が手にしていたものと一致する。白銀のボディに刻まれた白薔薇のモニュメントが特徴的な美しい凶器のグリップには、くっきりと血痕がこびりついていた。この血が誰のものか、考えたくはなかった。
だが、今現実から目を離したところでどうなる。早く、早く、これ以上取り返しのつかないことになる前に。
添えられていた、この部屋には不釣り合いな可愛らしいメッセージカードに視線を写す。
書かれていた「学校で待ってる」の文字、見慣れた筆跡に、由香は持っていたピストルを強く胸の前で握りしめた。

引き金を引けば全てが終わる。
一発の銃弾を心臓に撃ち込む。
たったそれだけで全てが終わる。

大丈夫だよ、お兄ちゃん。

強く胸の前でピストルを握りしめたまま、由香は深呼吸した。
大丈夫、きっと出来る。他の誰でもない。
由香がやらなけれないけない。
決意を固めるようにして、一歩一歩慎重に階段を下りていく。
だって、これはきっと罰なのだ。
何も知らず、のうのうと生きて来た罰。兄の正体にも気付かずに、優しさに守られて生きていたことにも気付かずに、全てから目を反らし続けていた罰。溜まりに溜まったツケを清算する時がきただけ。

もう、全部終わりにしよう。

開けっ放しにしていた玄関の扉をしっかりと閉ざし、玄関扉に向き合うような形で由香は再度深呼吸した。
うるさいほどに拍動を続ける心臓に、黙れ黙れと心の中で悪態を吐く。
ワンピースのポケットに銃を入れ、服の上からしっかりと確認するようにピストルを握りしめた。
閉ざされた扉に背を向け、由香は深く息を吸い込むと走り出した。
暗い町の中、ガタガタの道を走り抜けていく、いつもの通学路が違う顔をのぞかせていた。
田舎の夜道なのが幸いしたのか、誰ともすれ違うことなく高校まで来ることに成功した。
今が何時なのかは分からない。そんなこと、考える余裕などなかった。
校門をくぐった瞬間、明確な邪気にぶるりと背筋に震えが走った。

相手は兄であって兄ではない。
兄の顔をした殺人犯だ。
だから大丈夫、きっと迷わない。出来る筈だ。
無謀なことは分かっている。だが、誰かを頼るだなんて虫のいいことができる訳がない。

土足のまま、ずかずかと校舎内に踏み込んでいく、
最初に目に付いたのは床に付着した血痕だった。
由香を誘うように落とされていた血の跡を辿り、慎重に階段を上っていく。
きっと叶夜には全部ばれていることだろう。
由香が叶夜を殺しに来ることも、既にこの校舎内にいることも。

血痕は二階で途切れていた。嫌な予感がした。
廊下を曲がり血痕を追いかけていく。
たどり着いたのは、窓という窓が割れた、見るも無残な自身の教室だった。
ガラスのなくなった窓枠から、床に誰かが倒れているのが見えた。

「大丈夫ですか!?」

咄嗟に扉を開け、荒れ果てた机の山をかき分け、少女の元へ駆け寄る。
ぐったりと力の抜けた体を何度か揺すっても反応はない。
きつく歯を食いしばった。そのまま叶夜を追おうとして、ふと、髪でかくれていた少女の顔が目に入った。
次の瞬間、由香は再び少女の遺体の横に跪いていた。

「依織……ちゃん」

流れ落ちた涙を必死に拭いながら、由香の心にはこれ以上ないという程、叶夜への怒りが蓄積されていた。
再びポケットの上から拳銃を握りしめ、由香は荒くなった鼓動を落ち着かせようとした。

「ごめんなさい……っ。ごめん、ごめんね……っ」

どうして彼女が死ななければならない。由香だけが狙いなら、依織は関係ない筈だ。
もしも、今回の騒動の全てが由香の怒りを駆り立て、絶望させる為に叶夜が仕組んだものなのだとすれば、由香は到底叶夜を許せそうになかった。だが、正直なところまだ実感が湧かないのだ。心のどこかで、兄の仕業ではないと信じたがっている自分がいるのも、また事実だった。

ふと、依織の手のひらに一枚の紙が握られていることに気付いた。
叶夜の部屋に置かれていたものと同じそれに、鼓動はますます早鐘を打つ。

「家庭科室」とだけ書かれたそれは、由香を「早く来い、でなければまた犠牲者が増えるぞ」と脅しているように思えた。

微かに開いていた依織の瞼をそっと閉ざしてやり、由香は数秒黙祷を捧げた。
血がにじむほどに口の端を噛み締め立ち上がる。

「家庭科室」と書かれた紙がしわくちゃになる程きつく握りしめ、由香はゆっくりと歩みを進めた。
叶夜は楽しんでいる。由香が訪れるのを。それだけではない、殺しさえも楽しんでいるように思えた。
叶夜にとって、きっとこれはゲームでしかない。もしそうならば、悪趣味さに反吐が出た。
由香の知っている青桐叶夜は死んだ。ならばもう、迷う必要はどこにもない。

階段を上がり三階へと進む。
階段を上って三つ目の教室、そこが家庭科室だ。

階段を上がりきったところで、由香は数度深呼吸を繰り返した。
大丈夫、大丈夫。そう自分にいい聞かせ、足を家庭科室に向けて進める。

拳銃をポケットから取り出し、一度扉の前で立ち止まる。
両手でしっかりと拳銃を構え、由香は足で家庭科室の扉を開けた。

「おかえり、由香」

窓辺に佇む獣は、凶器を向けられて尚美しく微笑んでいた。
赤い瞳を暗闇で輝かせ由香を見つめるその姿が、かつて兄と慕っていた男の姿と恐ろしい程に重なって見えた。

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