芽生えた憎悪
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7年前、あの事件の後大人達に発見された由香は、すぐに病院に運ばれた。
医師の話ではかなりの量の血を抜かれた様だったが、辛うじて致死量寸前のギリギリであり、なんとか一命はとりとめた。
だが事件の直後、由香はあまりの精神的ショックに、一時的に話す事が出来なくなってしまった。
大好きで信頼する兄が見舞いにやってきても、「大丈夫、心配かけてごめんね。」という一言さえ言えなかった。
そんな由香の様子を見ても、兄は決して気分を害さず、ただ黙って由香の手を握っていてくれた。
「由香、ごめんね。…ごめん。…本当にごめん。」
病院のベッド脇の椅子に座りながら、叶夜は由香が眠った後はずっと涙を流していた。
「守れなくってごめん。」
「僕があの時手を離さなければ、由香は…。」
そんな事言わないで。
お兄ちゃんは何も悪くない。
そう思っても、口に出す事は出来なかった。
ただ、声が出ないこの口が憎くて憎くてしかたなかった。
そんな毎日が続いて一週間程が過ぎたある日、一人の精神科医の男性が由香の病室にやってきた。
「由香ちゃん、始めまして。俺は小高、よろしくね」
小高というらしい気さくな男性は、由香の目を迷いのない真っ直ぐな眼差しで見詰めた。
「ねえ、由香ちゃん。辛いかもしれないけど、事件の事詳しく話してくれないかな?ああ、もちろん…話せる様になってからでいいよ。…焦らずゆっくりと時間をかけて治していこうね。」
そう言って、小高は朗らかに笑った。
そしてポケットから小さな飴玉を1つ取り出して由香に手渡した。
キョトンと虚ろな瞳でそれを受け取った由香に、小高は自身の唇に人差し指をそっと押し当ててウィンクしてみせた。
「本当は、勝手にこんな事しちゃいけないんだけど……。他の先生達には内緒、ね?」
悪戯っ子の様に笑う小高を見ているうちに、由香は不思議と心が和んでいくのを感じた。
コクンと僅かに笑顔を浮かべて頷く由香に、小高は満足そうに笑った。
あれから、見ず知らずの人間に少なからず恐怖心を抱く様になっていた由香だったが、この人なら信じてみてもいいかもしれない。
そう思わせる不思議な物が彼にはあった。
それから、小高は口を開こうとしない由香の部屋をちょくちょく訪れる様になった。
兄と和真は、どこか小高に対して警戒心を放っていたが、伯母と可奈は由香と同じで小高を気に入った様だった。
「由香ちゃん、良かったわね。優しい先生で」
口を聞けない由香に対する伯母の態度は、普段となにも変わらなかった。
それが、由香にとってはとても嬉しかった。
仕事で病院に来れない母に変わって由香を元気付けようとする伯母を、由香は一層信頼する様になった。
小高が最初に由香の部屋を尋ねてから更に一週間程過ぎた頃、由香の精神はかなり回復傾向にあった。
小高は特に医療行為をした訳ではなかった。
由香の部屋を訪ね、叶夜や伯母と少し会話して、無言の由香にただ一方的に話す。
ただそれだけの事なのに、由香は穏和な小高に心を開きつつあった。
そしてある日、由香はポツリと小高と二人っきりの時に口を開いた。
「あの……」
本当は自身でも声が出た事に驚いていた。
だが、小高は驚く事もなく普段と変わらない態度で由香に接してくれた。
「由香ちゃん、事件の事詳しく話せるかな?」
コクリと頷いてから、由香はポツポツと、断片的であったが話始めた。
途中何度も泣きそうになり、話し終わった頃には既に顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
小高には全部胸のうちをさらけ出した。
着物をズタズタにされた事、起きたら臓物の潰れた物が散乱してあた事。
そして─血を抜いたのは吸血鬼だという事。
にわかには信じられない話だが、それでも小高は信じると言って由香の頭を優しく撫でてくれた。
「よく、頑張ったね」
その日、由香は小高にあやされながら一日中泣き続けた。
由香が話せるようになったと知った叶夜は、歓喜した。
苦しいよ、と苦笑いを浮かべる由香と、そんな由香を抱き締めてくる叶夜の二人は、伯母である茜から見ても微笑ましかった。
「ねえ、お兄ちゃん。」
「ん?……何?」
伯母が退出し、二人きりになった部屋の中で、体重を叶夜に預け、されるがままに頭を撫でられていた由香は、年相応の甘えた声を上げて叶夜を見上げた。
「私ね、小高先生にみてもらえてよかった」
由香はにこっと、少しはにかんでそう言った。
昨日までの無表情で人形のように死んだ目から一転、今の由香はちゃんと「生きていた」。
小高はこんな自分のような子供の言うことを信じてくれた。
吸血鬼の事も、馬鹿にせず信じてくれた。
普通の大人なら、気が狂っているとしか思わない様な発言も、親身になって受け止めてくれた。
悩みを打ち明けられる他人がいる。
それは、母のせいでろくに外に出られなかったまだ幼い由香にとって何よりも嬉しい事だった。
地元にいた時にはよく耳にした中傷の言葉も、ここには届かない。
安堵して自身に身を任せている由香に、叶夜はひどく上機嫌に囁いた。
「そうだね、先生のおかげで由香も調子を取り戻せた訳だし……。今度一緒にお礼を言いに行こうか」
「うん」
叶夜は、完全ではないものの元気になった妹を、この笑顔をただ純粋に守りたいと思った。
家に帰れば、また母親から由香を守らなければいけない。
それまでは
叶夜は、ただ愛しい妹と過ごす和やかな時間を大切にしたかった。
だが、叶夜が無邪気に笑う由香を見たのはそれが最後だった。
あの日の夜は、いつもより蒸し暑かった。
由香は、あまりの暑さに目が覚めた。
本来なら空調が効いている筈なのだが、由香の個室のエアコンが故障したらしく、今は修理中の為使えない。
変わりに窓を開けているものの、やはりエアコンとは比べ物にならず暑い。
ベタベタと汗で髪と肌が濡れ、気持ち悪い。
(喉……渇いた……)
汗を流したせいか無性に喉が渇いた。
仕方なく、室内の備え付けの小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ごくりと飲み干していく。
夜の病院は静寂に包まれ、足音ひとつ聞こえない。
そのせいで、由香の喉が微かに鳴る音でさえ響く。
流石にベタベタの状態で寝る訳にもいかず、水を飲み干した由香は近くに置いてあったタオルで汗を拭き取っていった。
その時、コツ、コツと誰かの足音が夜の静寂を乱した。
「……っ!?」
びくりと思わず扉の方を向き、そのまま固まってしまう。
暗闇の中で一人きりという状態も相まって、あの時の悲惨な光景がフラッシュバックしてしまい、由香は布団を抱き抱えてギュッと目を瞑った。
(早く行って……!早く行ってよ……!)
だが、そんな由香の思いとは反対に、足音は由香の部屋の目の前で止まった。
バクバクと心臓が張り裂けそうだった。
また、吸血鬼だろうか。
今度こそ殺されるのだろうか。
由香のそんな不安を他所に、外に立っているであろう人物は声を発した。
「なあ」
低い男の声だった。
「お前、ここの患者の担当だったんだろ?」
(患者……?)
その単語に疑問を覚える。
「どうだった?」
「まあ……いつもどうりかな」
どうやら外にいる人物は二人連れらしい。
そして、そのうちの片方の男の声には聞き覚えがあった。
(小高……先生……?)
そこで、はっと気が付いた。
この二人は、ただの夜の巡回をしているだけなんだ、という事に。
(よ……良かった……)
安全だと分かったからか、強張っていた身体から力が抜けていく。
無駄に勘違いをしていた自分が馬鹿らしくなり、由香は微かに渇いた笑い声をあげてしまった。
外の人物が安全と分かれば心配はいらない。
由香は安堵して、再び眠りにつこうとした。
だが、つけなかった。
それどころでは、なかった。
「ふーん、いつも通りねぇ……。お前知ってるか?ここの患者、変人って有名だったんだぜ?」
男の言葉に落ち着いていた筈の心臓が再びうるさく鳴り出した。
変人、おかしな子、感じ悪い、薄気味悪い。
東京の学校で、耳に蛸が出来る程聞きあきた悪口や中傷の言葉。
男の言葉は、いつも母の言い付け通り、誰とも話さずまっすぐ家に帰ってしまう由香に対して叩かれていた陰口を思い出させた。
「青桐さんって感じ悪いよね」
「付き合い悪いし。…ちょっと頭いいからって調子に乗ってるんじゃないの?」
(私だって……好きで一人でいる訳じゃない……)
一人でいるのは母親が恐いから。少しでも帰りが遅かったりすると、母は殺気を放ちながら鬼の形相で怒るのだ。
「どうして言い付けが守れないの!!私はあなたが心配なの!!お願いだから……お母さんに心配をかけないで!」
奏は、不安定な人だった。
叶夜の帰りが遅かったり、仕事がない日は終始穏やかなのに、普段はヒステリックに怒っていた。
─ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!ごめんなさいごめんなさい!!
カタカタと震えながら、布団にうずくまっていると、小高の穏やかな声が由香の鼓膜を優しく震わせた。
「変人って、別に普通の子だったと思うけど?」
その言葉にじーんと心が暖まっていくのを感じた。
(やっぱり、先生はいい人だ)
だが、相手の男は小高の言葉に納得がいかなかったらしい。
「まじかよ。お前正気か?」
ドン引きした様子の男に、小高は終始穏やかに、けれど由香にとっては聞き捨てならない台詞を平然と言ってのけた。
「……ねえ坂本、僕の担当する患者が『世間でどう呼ばれてる人間』か、君も知ってるだろ?」
「ああ……そういえばお前、青桐由香みたいな頭がおかしくなった、精神に異常をきたした奴の担当なんだっけ?」
「そうそう、おかしくなった子供を社会復帰できるまで回復させてあげるお仕事。でも狂っちゃった子って案外扱いやすくていいよ?ちょっと優しくしとけば、すぐに心を開く。単純で助かるよ。本当、馬鹿みたいだよね。こっちは仕事だから仕方なく戯言を聞いてやってるだけなのに。」
「うわ…お前それ人としてどうなんだよ。」
「だって事実だよ。ここの患者、何て言ったかわかる?『吸血鬼に襲われた。』だってさ。そんなものいる訳ないのに。幻覚症状まで出てるとなると、もう終わってるね」
最後の小高の声は、内容とはちぐはぐに楽しそうな声音だった。
だから最初由香は何を言っているのか理解出来なかった。
あの時、由香に飴をくれた時と寸分違わぬ優しい声音。
しかし吐かれた言葉は、由香の心をえぐる凶器だった。
(私は狂ってないっ…!!)
信じていたのに、この人なら平気だと思っていたのに。
だから兄にも言わなかった真実を隠さず話したのに、手酷く裏切られた。
「あ……っあ………あ……………あっ…」
声にならない声が口から漏れ出す。
─嫌だ、嘘だ、信じたくない…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!!!
その後も二人の話は続いていた様だったが、由香の耳には何も入ってこなかった。
ただ胸が痛くて苦しくて、ダラダラと滝の様にあふれでる涙で枕を濡らすしかなかった。
「どう?由香ちゃん。平気?」
(平気だなんて……どの口が言うんだろう……)
翌朝、いつもと同じ様に由香の顔を見に来た小高に、由香は吐き気を覚えた。
馬鹿にして見下しているくせに、何を飄々とぬかせるのだろうか。
人間なんて、うわべではなんとでも言える。でも本心ではいつだって他人を見下している。
簡単に裏切る。
優しい顔をした人間程、裏には狂気を飼っている。
(人間なんて……他人なんて……信じるだけ無駄なんだ)
裏切られるぐらいなら、最初からなにも信じなければいい。
怒りと嫌悪を通り越し、殺意すら覚えた。
(死ねばいいのに)
それこそ、あの祭りの日にぐちゃぐちゃにされて死んだ吸血鬼の様に、残酷に無様に死ねばいい。
内臓ごと跡形も残らず切り刻まれてしまえばいい。
「元気ないみたいだけど……熱でもあるの?」
「っ……!!触らないでっ!!」
バシンと嫌悪を露にしてでこに触れようとした小高の腕を払い除ける。
「……由香ちゃん?」
「一人にしてください」
疑問を露にした小高に、由香は感情を殺した声で告げた。
できればもう二度と会いたくない。
そんな由香の願いが天に通じたのか、その日以来由香が小高に会う事はなかった。
「由香ちゃん、残念なお知らせがあるんだけど……落ち着いて聞いてね。」
翌日、茜と叶夜が神妙な面持ちで由香の元を訪れた。
「どうしたの…?」
「実は、小高先生がお亡くなりになられたの」
なんの感情も沸かなかった。
ただ、死んだのかと。それしか思わなかった。
むしろ、ざまあみろとすら思ったかもしれない。
「由香……ごめんね」
なんの感情も表さない由香を、兄である叶夜は絶望のあまり感情を表せなくなったのだと勘違いしたらしい。
悲しみも憎しみも殺意もない、ただ冷えきってしまった。
由香の心は意図せず閉ざされてしまったのか、それとも由香本人が望んで閉ざしたのか。
そんな事今となっては分からないが、確かに由香の心はこの時止まってしまった。
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