アイレンY
ーーーーーーーーーーーーーーー
「姉様は僕の理想です」

にこにこと、國依が笑っている。
姉の目の前で正座をし、一定の距離を保った状態でにこにこと、それこそ人形のように微笑んでいる。

「姉様は、そのままでいてくださればいいんですよ」

笑顔の仮面を貼り付けた國依が座布団から立ち上がる。
一歩、二歩と依織へと近付いてくる弟を、依織は黙って見上げていた。
昔は依織が座っていて、ちょうど視線がかち合う程だった國依を、今や依織が下から見上げている。
遥か頭上にある内面を全く見せようとしない弟の笑みを、依織は純粋に恐ろしいと思った。

「姉様。僕は、姉様に変わって欲しくないんです。賢い姉様なら分かるでしょう?」

依織の目と鼻の先に座し、そっと膝の上で握り締められている依織の腕を握る。
再び依織の眼下へと収まったものの、國依の態度は傲慢だ。

「今までもこれからも、ずっと、そのままでいてください。だって、姉様が姉様でなくなってしまったその時は……」

にこにこと笑いながら、弟の顔をした悪魔は依織の首に両腕の指を食い込ませた。

「その時はーー」

にぃっと一際釣り上げられた口の端を見届けた瞬間、依織は声にならない悲鳴を上げながら身体を起こしていた。
ぜぇはぁと、夢見た悪夢の痕跡を肩で息をしながら必死に拭い去ろうともがく。
隣に弟の姿はなく、そっと胸を撫で下ろす。
あれは夢。弟の姿をした幻だというのに、動悸は一向に収まりそうにない。

中学校に上がり、依織と國依の部屋は別々になった。
相変わらず、國依は依織に過度に干渉したがる。むしろ、歳を重ねる毎にその傾向が強まってきている、といった方が正しい。

とにかく夜風にでも当たって落ち着こうと、依織は布団から這い出し、軽く外の様子が伺える程度に、縁側へと続く襖を開けた。

こうやって、夜風に当たるのは随分久しぶりだった。
あの男、真壁の元に通っていた頃は頻繁に寝室を抜け出していたが、それも昔の話。

庭の木の、桜が散っていた。
ついこの前まで満開だと思っていた花弁は、両手で数えられる程度にしか最早残されておらず、庭先には桃色の斑点が刻まれている。

真壁と会わなくなってどれ程経ったのか、と依織はらしくなく感傷に浸っていた。
思えばもう6年になる。
最後に真壁と会ったあの日の事は今でもよく覚えている。
今までの好意が嘘のように手のひらを返し、食事の邪魔だ、帰れクソガキ、と怒鳴りつけられた。
今にして思えば、それは真壁なりの気遣いだったのだろう。このままズルズルと依織が真壁と関わりを持つ事は、倉橋の家としてはよろしくなかった筈だ。

真壁は真壁なりに依織を気遣っていて、当時の依織はそんな真壁の気持ちを汲み取る事が出来なかった。

結局のところ、真壁は依織のために悪役を自ら買ってくれたのだ。

あの男は依織の当初の想像通りの男であり、全ての吸血鬼がそうであるとは言い切れないが、少なくとも真壁は「悪い男」ではなかった。

自室からは伺う事の出来ない蔵に恋い焦がれるように、依織はぼーっと蔵のある方角を眺めていた。
そんな時、何処からか話し声が聞こえてきた。
慌てて襖を閉め、微かに作り出した襖の隙間から依織は外の様子を垣間見た。
見えたのは二人の男。
よく見れば、倉橋の家の中では古参に位置するであろう者達であり、彼らとは依織も何度か口を交わした事があった。

苛立たしげに顔を歪めている坊主頭の方が田口、そんな田口を宥めている咥えタバコの男が長岡だ。

田口も長岡も、粗野ではあるが親切な気のいい男達だ。
当主の娘である依織に対しては親切であり、小さい頃にはこっそり菓子を貰ったりもした。
こんな夜中に一体どこに行くんだと、依織は目を凝らして彼らの行く末を見守った。
田口の方は金属製のバットのようなものを手にしており、「狩り」にでも行くのかと思ったのだが、そうだとすれば二人というのは些か少なく、長岡が武装していないのもおかしい。

それに、彼らの纏う服は狩りに行くにしてはラフすぎた。ともすれば寝間着とすら形容できるヨレヨレの着物を纏い、二人は何処かへ向かおうとしていた。

「俺は納得いかねェ」

「落ち着けよ」

ピリピリとした雰囲気が漂っている。
田口は、金属バットをまるでメガホンか何かのように肩に担ぎ、トントンと自身の肩を苛立たしげに叩きながら長岡に愚痴をこぼしていた。
長岡は深く息を吸い込んだかと思えば、ゆっくりと口から煙を吐き出した。

「ま、俺も気にくわねぇといやぁ、気に食わんがなぁ」

「だろ!?出来損ないの息子の癖に、國広様の気に入りだからって調子乗ってやがるんだぜ、あいつ。……あー、まじで腹立ってきた」

「はいはい。そんな時の為のアイツだろうが」

(アイツ?)

どうにも嫌な予感がする。
それが確信に変わったのは二人の向かう方角が、蔵の方向と一致していると気が付いた瞬間だった。

まさか、いやでもそんな筈は。

依織の気持ちを他所に、二人の男の足は止まらない。
嫌な汗が全身から吹き出していた。
田口と長岡が依織の視界の外へ行くのを見届けると、依織は咄嗟に玄関から靴を持ち出し、庭にその二本の足で立っていた。
蔵に向かって全力疾走だった。
頼む。外れてくれ。
だが、依織の想像通りだとするならば、真壁が囚われている理由にも辻褄が合う。
違う。そうじゃない。
首を振って必死に否定を繰り返す。
そんな外道が許される訳がない。違う。絶対に違う。

ならば、胸に広がるこの不安は何だ。

蔵の扉は、開いていた。
地下へと続く階段には、田口の叫び声が反響している。嫌な予感が確信に変わった瞬間だった。
足音を立てないよう慎重に階段を下っていく。

ゴッと、何かが砕ける音がした。

バキッ、ボキッ、ガッ。
今までに聞いた事のない音が依織の耳を侵していく。

「ムカつくんだよ……っ!!何が天才だ!!何が……っ!!再来……!だ!!お前なんか……!お前なんかなぁ……っ!!所詮は……!出来損ないの息子の癖に!!」

バットが振り下ろされる度に歪な音が牢の中に反響する。
燭台の微かな光だけでは、はっきりと中の様子を伺う事は出来ないが、それでもそこで行われている事がとんでもなく理不尽だ、という事だけは依織にも理解出来た。
鉄格子の奥、鎖に繋がれた黒い獣は殴られても蹴られても、言葉一つ発しない。
下を向いたまま、ただ黙ってされるがままになっている。
田口が鉄格子の中獣を虐げる様を、長岡は鉄格子の外タバコをふかしながら黙って見守っていた。

ドン、ドン、バキッ。
音と形容する事すら汚らわしい歪んだ雑音が響き渡る牢の中。そこは、地獄だった。

「おい、なんとか言えよ。バケモンが」

力尽きるように床に横たわり、頭を踏まれても、真壁は言葉一つ発しようとはしない。
それがなお苛立ちを加速させるのか、顔を歪ませると、田口は一際大きくバットを振りかぶった。
頭上に血の付いたバットを掲げ、見下した目で鬼を見る。

「田口」

「わーってる。でもこいつに加減なんかいらねぇだろ。はっ……どうせ……!どうせなぁ……!痛みなんて一瞬なんだ!」

田口はハイになっていた。
狂人一歩手前、いや、ともすればもうあの男はおかしくなっているのかもしれない。

「俺は認めねぇ。認めねぇぞ!!宗介ぇぇぇぇぇぇ!!!!!」

ゴッ!!!

勢いをつけて振り下ろされたバットの先を、依織は直視する事が出来なかった。

一歩、二歩と後ずさり、依織は回らない頭で咄嗟に近くの草むらへと身を潜めた。
その直後、血に濡れたバットを白い布で拭いながら、憑き物が落ちたように晴れやかな顔をした田口と、悪趣味だと言わんばかりの呆れ顔の長岡が蔵から出てきた。
直後訪れた沈黙に、依織は初めて自分が震えている事に気が付いた。
それ程に、今ここで起きた現実を認めたくなかった。
先程の悪夢から目覚めた時の比ではない。
悪夢は覚めるから悪夢なのだ、と誰かが言っていた。

本当に、その通りではないか。

早まる鼓動を抑えるかのように、依織は寝巻きの上から心臓を押さえ付けた。

よろよろと震える足で立ち上がり、依織は無心で蔵の中へと足を再び進めていた。
こんな形で、再会などしたくなかった。

「まかべ」

名前を呼んでも反応はない。
鉄格子の奥、鎖に繋がれた獣は座敷の上に横たわったまま一向に動いてはくれなかった。

「真壁」

座敷の上には血が滲んでいた。
畳は本来の色を失い、真壁の近くから順に赤色に染まっていく。

「真壁……っ!」

依織は必死に鉄格子を揺すり、呼びかけ続けた。
三度目の呼び掛けにも真壁は応じない。

「真壁……!!ねぇ!!真壁……っ!!」

よォ、嬢ちゃん。お前も飽きねぇなァ。
そんな風に憎まれ口を叩いて欲しい。それだけでいい。歓迎してくれなんて贅沢は言わない。
本当に、起き上がって話をしてくれるだけでいい。
いや。何か一言発してくれれば、それだけで満足だ。
ここに来るなというならもう二度と来ない。
約束する。だから、頼むから。

「お願い……だから……っ!!」

ギィ、とそんな音が依織の鼓膜を揺らした。

涙の滲んだ瞳で音のした方へ、ゆっくり視線を動かしていく。見れば、頑なに閉ざされていた筈の鉄格子の扉が微かにではあるが開いていた。
迷いがなかったといえば嘘になる。
だが、それ以上に依織は真壁の側にいてやりたいと思っていた。
咄嗟に扉を開き、真壁の側に駆け寄った。

「真壁……!!真壁っ!!」

力なく瞳を閉ざし横たわる男のすぐ側に腰を下ろし、依織は自身にできる最大限に力で男の体を揺さぶった。
その刹那、真壁の瞼がゆっくりとだが開いていくのを、依織は確かに目にした。

「ぁ……、まか……っ!」

涙を浮かべながらも喜色を前面に押し出した少女の顔は、次の瞬間には恐怖に変わっていた。
目を覚ました真壁は、依織の姿を目にした瞬間、自身の体を揺すっていた少女の腕を人間離れした馬鹿力で掴み上げた。
そのまま腕を掴んだまま、依織の身体を引き寄せ、強く抱き抱えると、またしても人間離れした怪力で絞め殺さんばかりに依織の身体を抱きしめ、決して離そうとしなかった。

突然の事に唖然とする依織を置き去りにし、真壁は無表情のまま依織の首筋に視線を落としていた。
煌々と輝く赤い目は、理性を失った肉食獣のそれだった。

「ま、かべ」

恐怖と苦しさから名を呼んだ少女を無視し、真壁は依織の首筋に、味見と言わんばかりに舌を這わせた。
ぶるり、と依織の身体に震えが走る。
咄嗟に腕の中から抜け出そうともがく少女を鬼は許さず、拘束が緩まる兆しもない。
男の牙が少女の首筋を貫いたのは、その直後の事だった。
突然の事態に依織の頭は完全に置いてきぼりだった。

だが、自分の一部を吸い取られていく奇妙な感覚にも関わらず、不快感はない。
自身の血を飲み干す音が耳のすぐ側で聞こえる度、恥ずかしいような嬉しいような、どこかくすぐったい感覚に全身を支配されていく。

甘美な痛みは依織の全身を蝕んでいき、それに何とか流されまいと依織は真壁の首に腕を回し、縋ることが精一杯だった。

このまま食い殺されるのだろうか。
心地の良い微睡みの中で逝けるのなら、それはそれで、悪くはないのかもしれない。

宗介はきっと泣いてくれる。
あの幼馴染は、悪ぶってはいても根はいい奴なのだ。
國依と父は、よく分からない。
あの二人は怒るかもしれない。

「ぁ」

じゅるっ、と一際強く首筋を吸われた瞬間、喉からか細い声が漏れた。
瞬間、嘘のように真壁の動きがぴたりと止まった。
焦ったように首筋から牙を抜き、瞬きを何度も繰り返しては、赤い瞳で依織を凝視する。

「なん……で……お前が……」

ーーそんなに焦った真壁の顔、初めて見た。

そんな風に笑おうとして、失敗した。

(あれ……)

身体からは力が抜けていき、口もまともに動かない。

「しっかりしろ!!……おい!!」

何度も真壁が依織の身体を揺らすのだが、依織の意識は遠のいていくばかりだ。

「依織!!」

やっと、名前を呼んでくれた。
意識を失う直前に見たのは、血相を変え何度も依織の名を呼ぶ、そんな真壁の姿だった。


≪back | next≫
- 68 -


目次へ


よろしければ、クリックして投票にご協力ください。
 



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -