アイレンX
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「蔵、でございますか?」

翌日の朝食の席、おかわりを要求した宗介の茶碗に白米を入れるのを中断し、頬に腕を当て苦笑いを浮かべた鷹子に、依織は首を静かに縦に振った。

「さぁ。ずっと鍵が掛かっていますし、近寄るなと命じられていますから。私は、中に何があるのか存じ上げません。……國広様ならご存知かもしれませんが」

「そう」

依織は味噌汁の椀をそっと長机の上に置いた。
あの吸血鬼、真壁はこの家の人間なら皆知っていると宣言したが、どうやら鷹子は知らないらしい。
それは単に彼女が血の繋がりのない召使い、だからなのか。そもそも真壁の戯言だったのか。
それとも、依織に知られてはまずい事だからなのか。

昨日と同じように、眼を覚ました依織は当然のように寝室に横たわっていた。
だが、二度も同じような夢を見る筈もなく、現に蔵は存在している。

「蔵がどうしたって?」

飄々とした声に視線を動かせば、宗介が鷹子から山盛りの茶碗を受け取っているところだった。
今朝のお代わりはまだ二回目。これはまだまだ腹に余裕があるだろう。甘い物の時が一番酷いが、そうでなくとも宗介は大飯食らいだ。本当に、よく食べる。
それこそ、見ているこちらが若干気持ち悪くなる程には。
うっ、と依織が軽く口元を抑えたのた同時に、國依が口元を引き攣らせた。

「毎度毎度、よくそんなに食えるな」

弟と同意見だった。

確かに鷹子の作る食事は美味しい。
今朝だって、鮭の塩焼きに、ほうれん草のおひたし、中でも豆腐と揚げの入った鷹子特製の味噌汁は絶品である。
今のご時世こんなにきちんとした和食が朝食として出てくる家は珍しい。
クラスメイトの会話からしても、自分がいかに恵まれているかをしみじみ実感する瞬間でもあり、宗介が食らいつく理由も分からなくはないが、それでも彼の暴食っぷりにはいつもギョッとさせられる。

「そう?弟クンこそ少食なんじゃない?」

「お前が異常なんだ!!」

ドンドン、と國依が長机を叩く。
だが、対峙する宗介は相変わらず飄々とした笑みを浮かべたまま微動だにしない。

「で、蔵がどうしたって?」

二杯目を完食した宗介が箸を置いた。
その頃には、依織の相談する気も失せていた。

「何でもない。気にしないで」

「姉様が気にするなと仰っているんだ。大人しく従えゴミ」

「相変わらず俺の扱い酷っ!」

「当たり前だろ」

「あらあら、今朝も仲がよろしいことで」

ほほほ、と鷹子が呑気な笑みをこぼす。
そんな三人を尻目に、依織はスカートの裾を整えながら立ち上がった。そのまま無言で二人を放置しておこうと赤いランドセルを背負い、襖を開けたところで背後の宗介から声がかかった。

それを無視し、廊下を一人進んでいると、背後から「行ってらっしゃいませ」という鷹子と國依の声と共に、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。
振り返れば片紐だけでランドセルを背負い依織を追いかけてきたのであろう、せわしない様の宗介が立っていた。

「おいおい、俺を置いていくつもりかよ!相変わらず酷い許嫁だなぁ」

「あら、そう思うなら婚約破棄する?」

「いやいや、しねぇから」

「ふーん」

「お、ちょっと嬉しそう。貴重ないおりんの笑顔頂き」

「は?」

何言ってんだコイツ、とドスの効いた声で睨み付けても素知らぬふりだ。
依織にはそんな宗介が鬱陶しくもあり、少しだけ羨ましくもあった。こんな風に器用に生きられたらいいのにな、と。時々、思わない事もない程度には。

ずかずかと廊下を歩き続ける。
そのすぐ後ろを宗介が引っ付いていた。
時々、廊下で数人の若い衆にすれ違いながら、二人は玄関へと辿り着く。

それにしても

「いおりんって何よ、いおりんって」

「かわいいじゃん、いおりん」

「アホくさ」

「うわっ、つっめた!!いおりん冷たい!地味に傷付く!!」

「うるさい」

今日もまた、変わらない一日が過ぎていく。
そうして、依織の日常は変わらない。
昨夜の出来事が嘘のような、いつもの町並み。
ハラハラと舞い落ちる紅葉を目に収めながら、依織と宗介は通学路を二人して歩いていた。
こうして歩いていると、本当に昨日、一昨日の夜の出来事が嘘のように思えてくる。
本当は蔵なんて存在せず、真壁修一なんていう男も存在しないのではないかと、そんな風にすら思えた。

「で?蔵って何なんだ?」

他の学生達に混じり通学路を歩き始めて二、三分程経った頃、宗介の方から蔵の話題を掘り返してきた。

「特にどうということはないの。ただ、あの中に何があるのか、何となく気になっただけ」

勿論嘘だ。
あの中にいるものが何か、依織は知っている。
何故家の中に吸血鬼が囚われているのか、その理由を知りたかった。
だが、それを宗介に聞いたところでどうなる。
信号が赤に変わった。ゆっくりと歩みを止め、呆然と車の群れを見る。
ちらりと横を見れば、相変わらずの飄々とした笑みが目に飛び込んでいきた。

「気にしないで。そんなことより。伯父さんは今日もお仕事?」

「ああ。相変わらず仕事馬鹿」

ははは、と爽やかな笑い声が上がる。
今のご時世、吸血鬼退治だけでやっていけるほど世の中甘くない。
倉橋本家の先祖の先祖、それこそ平安時代にまで遡れば、悪霊退治だの祈祷だのだけで生計を立てていたようだが、今はそうはいかない。
倉橋家の財政、その多くを支えているのは土地を貸す事による賃料である。
だが、それだけでは賄えないことも多いらしく、さらなる資金調達の為、最近では会社の経営まで始めたらしい。
その会社を任されたのが、現当主の弟である、宗介の父だった。
依織も、彼の父親が何をしているのか詳しくは知らない。
だが、なかなかに会社の方は軌道に乗っているらしく、忙しさも相まって近頃は本家になかなか帰ってこなくなっていた。
宗介と三人で食卓を囲むことになって早一年。
それは、宗介が父親と顔を合わせなくなって一年、ということでもある。

「大変ね」

「慣れてるっての。むしろ、あの馬鹿がいない方が鷹子さんの飯食えるし、俺としては役得」

「そういうものなの?」

「そういうもの。まぁ、たまに電話はかけてくるし、そこは俺の親父ってことで、能天気によろしくやってる」

通りゃんせのメロディが鳴り響く中、二人は白と黒の縞の上を渡って行く。
いつだって笑みを絶やさない従兄弟が、依織にはとても眩しく見えた。

その日の晩、またしても蔵を訪れた幼い少女に、鉄格子の奥でいつものようにあぐらをかいていた男は深い溜め息を吐いた。

「俺は、ここにはもう近寄るなって言った筈なんだがな」

「そうね」

「じゃあもう帰ーー」

「私は知りたいの」

言葉に被せるようにして顔を上げた少女に、真壁は押し黙っていた。

「私の家がしている事が正しいのか、間違っているのか。吸血鬼がどういうものなのか。私は、知らなくちゃいけないと思う」

蓮花の言葉の真意を確かめる為にも、依織はこの男の近くにいたいと思った。
だが、本音を言ってしまえば真壁の側にいるのは、酷く心地がいいのだ。

「殊勝な事だ。が、知らん方がいい事の方が、世の中には多いもんだぞ」

ニヤリと口角を上げ笑う真壁の顔が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。
それから、依織は夜になると寝室を抜け出し、一時間程真壁と話をしては寝室に戻る、という生活を始めた。
最初の頃は真壁も早く飽きろ、だの、しつこい女だの依織を追い返す事に躍起になっていたが、5日ほど経った頃には、何も言わなくなっていた。
真壁に対して、何か話す事があるという訳ではない。
最初の2日間、依織はただ黙って真壁を観察していた。
そんな依織に対して、真壁は一つの提案をしてきた。

観察してもいい。その代わり、何でもいいから日常の事を話して聞かせろ。というような旨の提案だった。

それから、学校でこんな事があったのだとか、今日も宗介は相変わらず大飯食らいだの、そんなつまらない話を依織は淡々と語り始めた。

こんな事をして何が楽しいんだと思う依織に反して、意外にも真壁は真摯に依織の話を受け止めていた。
一週間ほど経った頃には、依織は些細な日常の愚痴を真壁に対してぶつけるようになっていた。
そんな時は、気まぐれにアドバイスのようなものを投げかける事もあれば、知るかよ、と心底どうでも良さそうな返事が返ってくる日もある。
だが、真壁はきちんと依織の言葉に耳を傾けてくれていた。
深夜のたった一時間の懐石が、父親の愛に飢えた少女にとってかけがえのないものになるまで、そう時間はかからなかった。

そんな生活を始めてから、一月が過ぎた頃。
依織はいつものように、今日は真壁に何を話して聞かせようか、そんな事を考えながら蔵への歩を進めていた。
だが、蔵の入り口に辿り着いたあたりで、奇妙な違和感を覚えた。
閉ざされている筈の蔵の扉が、微かにだが開いていたのだ。
不規則に高鳴る鼓動を必死に抑えるようにして、依織は拳を胸にそっと当てがいながら、扉の隙間を覗き込む。
だが、蔵の中は暗い。中に誰がいるのか、というところまでは判別できなかった。
一歩、二歩と階段を降りていく。
瞬間、強烈な悪臭が依織の鼻をついた。
未だ嘗て、嗅いだことのない強烈な死を直感させられる芳香。
階下からは、ぴちゃ、ぴちゃ、という不気味な水音と荒い吐息だけが響いていた。

「真壁?」

恐る恐る壁に手をつき、階段を降りながら言葉を掛ける。
言葉はなく、代わりとばかりに吐息が止んだ。
びちゃ、びちゃ。
びちゃ。

壁に取り付けられた燭台の微かな灯が、鉄格子の奥、鬼の姿を白日の元へと晒し出す。
血に濡れた牙を露わした、鎖に繋がれた獣の姿がそこにはあった。

その腕に真っ青な顔をした一人の黒髪の女を抱き、貪り食うように牙を埋め込んでいた男は、依織の存在に気付くとゆっくりと女の首から牙を引き抜いていった。色気を宿した吐息に、依織の背にぞくりと鳥肌が立つ。
向けられた冷酷な赤い瞳に依織がか細い悲鳴を上げる。
喉の奥を震わせ低い笑いを溢した男は、もう用は済んだとばかりに女から手を離し立ち上がり、依織へと近付いてきた。

「これで分かっただろ」

鉄格子に指を掛け、体を乗り出し依織へと冷酷な視線を投げる。
ガタン、と鉄の檻が歪んだ音を立てた。

「吸血鬼ってのは、こういうもんだ」

悪人染みた笑みに、依織は息を呑んだ。
真壁に投げ捨てられた女は、ぐったりと床に倒れ込んだまま動く兆しがない。

「あ、あの人……は……」

「知るかよ」

ぺっと血を床に吐き捨て、真壁は依織を睨み付ける。

「人の心配するぐらいならとっとと帰りやがれ、飯の邪魔だ」

分かっていた筈だ。この男は吸血鬼だ。
最初から分かっていた。その筈だ。
だが、あまりに突然過ぎて何が起こっているのか分からない。分かりたくなかった。
本当は、吸血鬼なんて全て嘘で、真壁は何かの間違いで囚われているのだと、それだけなのだと信じていた。
足元が音を立て、ガラガラと崩れていく。

「分かったならとっとと帰れっつってんだろ!!クソガキが!!!」

思えばたった一月だ。一月。
それだけで、何を、全て分かった気になっていたのか。
目元に浮かんだ涙を必死に拭い、依織は無心で階段を駆け上がった。
そうだ。あの人は吸血鬼だった。
そうだった。
始めから分かっていた筈なのに。

蔵の扉を急いで閉ざした瞬間、依織はズルズルと扉を背にその場に座り込んでいた。
初めて目撃した吸血鬼の食事の瞬間。
その恐ろしさに、そして、明確な拒絶に。
依織は膝を抱え、声を押し殺して泣いた。

吸血鬼は悪だ。そういうものだ。その筈だ。
分からない。分からなかった。
同時に、信じていた価値観が、バラバラと崩壊していく。
何が正しくて何が間違っているのか、この時の依織には分からなくなっていた。

こうして、依織と真壁の束の間の接触は幕を閉じる事になる。
それから、依織はしばらく蔵に足を向けなくなった。
それは単に依織が忙しくなったから、というのもあったが、それ以上に真壁からの明確な拒絶に、思いの外傷付いていたから、という事があった。

もう二度と会うこともないだろう。
年月が流れ、蓮花の言葉も頭から自然と抜け落ちていった。
真壁の事も記憶から抜け落ちていき、依織は倉橋の娘として、宗介の婚約者として、代わり映えのしない毎日を静かに過ごしていた。
相変わらず蔵は存在し、時折真壁の事を思い出さない日がない訳ではなかったが、分別のなかったあの頃とは違う。
気付けば依織と宗介は中学に上がり、國依も小学校六年生になっていた。

中学に上がると同時に、宗介は大人達に付いて「狩り」に同伴するようになった。
本人は「狩り」について何も語ろうとはしなかったが、鷹子や若い衆達の話によれば宗介には吸血鬼ハンターとしての並外れた才能がある、らしい。
彼の父親、倉橋國明には残念ながらハンターしての才能はなかった。だが、その代わりとばかりに人、を使う事に関しては人並外れた才覚を示した。
その結果、宗介の父は一族経営の会社を任され、才能のない一族の恥、が今では大企業の社長である。

それはそれとして、宗介は父親ではなく、彼の祖父の血を色濃く受けついだらしいく、依織の父は祖父の再来だ、とばかりに宗介の活躍ぶりを評価し、彼は若くして一族の中で一定の信頼を勝ち取っていた。

だが、全ての人間がそれを良しとする訳ではない。
古くからの倉橋の門下生の中には彼を妬むものも少なくはなかった。
そんな者達は宗介を陥れようと何かと画策し、嫌がらせを決行してはいたのだが、いかんせん宗介は大人を味方につけるのがうまかった。
彼は依織の、大人達が思っている以上に器用だったのだ。
軽々と嫌がらせの数々をスルーし、逆に仕掛けてきた方を陥れるその姿は、依織には悪魔のようにすら見えた。
しかし、悪魔は依織には相変わらずの飄々とした笑みを浮かべるだけで牙を向けようとはしない。

「また仕返ししたの?」

縁側でぼーっと寝そべっていた宗介の横に腰掛ける。
ちらりと視線を向ければ、気持ちよさそうに細められた眼下の瞳とぶつかった。

「当たり前だろ?やられっぱなしは、俺の主義に反する」

よっこいしょ、と宗介が身体を起こす。
そのまま座っていた依織の肩に手を回し、囁くようにして告げた。

「俺、結構苦労してるんだけどなー」

「そう」

「あ、素っ気ない。もうちょっと未来の旦那様を労ってくれてもいいんじゃねーの」

にやにやと、そんな下卑た笑みを浮かべ、宗介は依織に背後から覆いかぶさった。
肩に置いていた腕を依織の腹部に回し、甘える様は猫のようにつかみ所がない。
多少重いが、別段これといって実害はないので、依織はしばらく放っておいてやる事にした。

「……重い」

「そりゃ、重くしてるから」

「性格悪い」

「知ってるくせに。あ、なんなら矯正してみる?依織なら出来るかも」

「今更性格矯正してやろう、なんて思う程私も暇じゃないの」

「相変わらず冷たいなー、愛しの婚約者殿は」

そのままさりげない様を装ってあらぬところを弄ろうとしてきた宗介の腕を、依織は思いっきり爪で摘んでやった。

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