アイレンW
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男の赤い目に映り込む依織の姿は実に惨めなものだった。
腰を抜かし、両手を地につき、膝を立て、少しでも男と距離を取るため、足を動かそうと試みるのだが、一向に動かない。ただ無様に震え、引きつった顔で男の顔を凝視する。
そんな依織の姿を見て、男は何を思ったのか。
首の後ろに片腕を回し、深く溜息をつくと、その深紅の瞳で呆れがちに依織を見下していた。

「ガキに手ぇ出す趣味はねぇよ」

男が動くたびに重苦しい鎖の音が鳴り響く。
牢の中で壁を背に無気力げに胡座をかいているだけだというのに、男には人をおののかせるなにかがあった。
本人にその気はないのかもしれないが、威圧的な赤い眼差しと、所謂強面と表現されるのであろう髭をたたえた彫りの深い日本人離れした顔は、小学校低学年女子を怯えさせるには十分すぎた。

失禁しそうな勢いで、依織はガチガチと歯を鳴らし、震えていた。
泣きわめく訳でもなく、罵倒するでもなく、依織はただ恐れ、それと同時に魅せられていたのだ。
月の光すら届かない闇の中、ただ赤い目だけが依織の心を捉え、離さなかった。

「おい」

びくり、と依織の肩が揺れる。

「黙ってないでなんとか言え」

無精髭が苛立たし気に動く。

「あ、あな……たは……」

「あぁ?」

はっきり言え、言外にそんなニュアンスを込め眉を顰めた男に、依織は深く息を吸い込んだ。
手を出す趣味はない、という事はいくらこの男が人を殺しそうな雰囲気を纏っていたとしても、顔が犯罪者のそれだったとしても、危害を加える気はないという事だ。
いつの間にか、体の震えは止まっていた。

「貴方は、何……?」

「何って言われてもな」

ぼりぼりと頭を掻きながら男はぼやく。

「嬢ちゃん、ここん家の子だろ?」

こくり、と座り込んだまま首を縦に振ると、男は呆れがちに口を開いた。

「なら分かるだろ。自分の心に聞いてみな」

確かに、思い当たらないモノがない訳ではない。
彼が依織の想像通りの存在だとするのならば、どうしてここに、彼らを狩る存在、である筈のこの家に、狩られる側であるものが、「吸血鬼」がいるのだろうか。

「きゅう……けつ……き」

「ビンゴ」

「なんで……吸血鬼がこんな所に」

「それぐらい自分で考えろ」

投げやりに言い切ったかと思えば、男はよいしょ、と言いながら立ち上がった。
二メートルはあるだろう巨体は鉄格子へと近づき、観察するかのようにじっと眼下の依織を見下ろしていた。
男の服はボロ切れのように薄汚れていたが、それに反して、所々が破れた服の間からのぞき見える男の体は筋肉質であり、傷一つ付いていなかった。

「よし、今日あった事は忘れろ」

真顔で言い放つと、男はおもむろに鉄格子の隙間から右腕を突き出した。
無骨ながらも、程よく筋肉のついた腕だなと、どこか夢のように考える依織を置き去りにして、男は呆然として動けずにいる依織の眼前で手のひらを掲げた。

「じゃあな、嬢ちゃん」

男が言い切ると同時に、急激な眠気が依織を襲った。
傾く体、ゆっくりと薄れていく意識の中、最後に目にしたものは、鉄格子越しの大きな背中だった。


*  *  *


「姉様」

体が揺れていた。ゆらゆらと、誰かに腰のあたりを掴まれ、揺さぶられていた。

「姉様!」

聞き慣れた声が弟のものだと気付いた瞬間、依織は反射的に布団をめくり飛び起きていた。
不自然に上がった自分の息が耳障りな音となって、依織の鼓膜を揺らす。
背をさすってくれる弟の気遣いが、今は純粋に嬉しかった。

「悪い夢でも見ましたか?」

「まぁ……そんなところ」

曖昧に答えると、國依から不服げな声が上がる。
それを適当に流しながら、依織は昨夜出会った筈の男について考えていた。
確かに依織は蔵に行き、あの吸血鬼の男と出会った筈だ。
確認するように首筋を指でなぞってみるも、何もない。
本当に危害は加えられていないようだ。
それとも、あの男自体夢だったのか。

「首がどうかしました?」

「少し寝違えただけよ」

はぁ、と下を向いたまま溜息を吐く。

「姉様、僕に何か隠してませんか」

顔を上げれば、既に着替え終わっている國依の顔が目と鼻の先にあった。

「何も」

そのまま立ち上がろうとする依織を、國依は許さなかった。
依織の手首を抑え、足の上に跨り、顔を強張らせ依織の瞳を真っ直ぐに射抜く。

「本当に?」

「ええ」

一呼吸置いて、依織は再度口を開く。

「貴方に心配をかけるような事は、何も」

「……あれ、もしかしてお邪魔でした?」

縁側側の襖を開け、宗介がズカズカと中に踏み込んできた。國依の眉間に皺が寄る。
國依に組み伏せられている形となっている依織と目が合うやいなや、同情の眼差しを向けたかと思えば、仁王立ちになり、呆れがちに國依を睨みつけた。

「邪魔だと思うならとっとと巣に帰れ、姉様にまとわりつく害虫が」

「ははは。いやー、生憎、俺の家はここなんだ。悪いね、弟クン」

飄々とした宗介の笑みに、ただでさえ眉間にしわを浮かべ、口の端をひくつかせていた國依の機嫌が急降下していく。
依織の上から退いたかと思えば、ずかずかと頭一つ分大きい姉の婚約者に大股で近寄って行き、勇猛果敢にもガンを飛ばす。
眼下の少年の敵意を、持ち前の笑みで飄々と交わすと、宗介は横たわったまま己に対して責めるような視線を向けている依織に視線を投げかけた。

「そう怒るなよ、依織。俺だってこいつとは仲良くしてやりたいと思ってるんだぜ。なのによ、こいつと来たら」

「誰がお前と仲良くするか死ね」

依織は弟と婚約者の言葉の往来をBGMに、気怠げに片腕を畳につき、静かに身体を起こした。
次いで枕元に置いてあったフレームレスの眼鏡を掛ける。

「未来の姉様の旦那に対して、もうちょっと敬意を持とうとか思わないわけ?」

「誰が未来の旦那だって!?あぁ!?僕は認めないぞ!!いいか、お前はなぁぁ!!」

「あなた達」

依織の発した静かな声に、二人は示し合わせたかのようにぴたりと会話を止めた。

「悪いけど、着替えたいから出て行ってもらえないかしら」

*  *  *


その日の晩、依織は國依がしっかりと眠ったのを確認してから、慎重に昨夜と同じように縁側へと続く襖を開けた。
あらかじめ縁側の下に隠しておいた靴を引っ張り出し、そそくさと昨夜の出来事が夢だったのかどうか確かめに、迷うことなく蔵への道を歩んでいく。
砂利を踏む少女の足音が夜の静寂を耳障りに乱していく。
そのままどんどんと敷地の奥へと踏み込んでいけば、昨夜の蔵が目に飛び込んできた。
蔵の存在自体は、どうやら幻でも夢でもなく、紛れもない現実だったらしい。
蔵には幾重にも鎖が巻き付けられており、その異常さを再認識させられる。
そっと鎖をまとめている錠に手をかける。
軽く引っ張ってみるも、錠が壊れる気配も、開く気配も、微塵もなかった。

だがこの蔵が存在する以上、昨夜の出来事はきっと夢ではない筈だ。
何とかして蔵の中に入れはしないか。
何もないのならそれでいい、と言いたいところなのだが、依織はきっともう一度あの男に会いたかったのだ。正直に言ってしまえば、魅せられていた。
あの今生の者とは思えない気配を纏った、壮年の男に。

「お願いだから、ひらいて」

渾身の力を込め、依織はこれで最後とばかりに力一杯鎖を引っ張った。
その瞬間、バキッという無残な音を立て、錠が粉々に砕け散った。
目を見開きその場から動けずにいる依織を置き去りにし、統率者を失った鎖はじゃらりと耳障りな音を立て、依織の足元へと落ちる。
思わず一歩二歩と引き下がりながら、行く末を見守る。
ゆっくりと、だが確実に扉は開いていく。
完全に扉が開ききった時には、依織の足は暗闇の中へと進んでいた。
ごくり、と唾を飲み込み、依織は駆け足で階段を下っていく。
その迷いを断ち切るかのように。

「お前……」

鉄格子の向こう側の男はぽかんと目を見開き、かと思えば鋭い眼光で依織を睨みつけてきた。

「どうやってここに入った」

男は立てた肩膝の上に前腕を置き、少しだけ体を起こし、僅かではあるが明確な敵意を少女に対して向けていた。

「別にどうだっていいじゃない」

下を向いたまま、鉄格子の前に立ち尽くす。
しばしの沈黙ののち、依織はぼそりと声を漏らした。

「……夢じゃなかったのね」

「おいお前、昨日の事誰かに話したか」

静かに依織が首を横に振ると、男は「そうか」とだけ呟いた。

「……みんなは、貴方がここにいるって知ってるの?」

「さぁな。ここん家の奴なら、大抵は知ってんじゃねぇか」

「……そう」

「で?お前何しに来た。俺は確かに、忘れろって言った筈なんだがな」

一層鋭い光を宿した赤い目に、依織の肩が揺れる。
ぎゅっと両手を胸の前で握りしめ、依織は恐る恐る鉄格子へと一歩近付いた。

「……どうして、あの時私を殺さなかったの?」

「だぁかぁらぁ!!」

突然男は立ち上がり、依織の眼前にある鉄格子へ勢いよく片腕を掛けた。
ガタン、と歪な音を立て鉄の檻が揺れる。
格子の間から男の顔がのぞく。
男がその大きな口を開く度、勢い余って唾が微かに周囲に飛び散っていた。

「ガキを食う趣味はねぇし、殺す趣味もねぇっつってんだろ!!俺の話聞いてたか!?お嬢ちゃんよぉ!!」

食いしばられた口元から、鋭い二本の牙が見て取れた。鉄格子に隔てられている限り、この男が直接依織に触れる事は叶わない。危害を加える事は出来ない。
その事実が依織を調子付かせていった。

「じゃあ、どうして私の記憶を消さなかったの」

身を乗り出した依織に、男は言葉を濁らせた。

「消したっつうの」

「え……」

素っ頓狂な声が依織の喉から漏れる。

「俺は確かにお前の記憶を消した。その筈だったんだんだが、どうやらお前は相当の『耐性持ち』らしい」

僅かに体を引き、男は自嘲気味に溜め息を吐く。
よく分からないが、どうやら依織は吸血鬼の精神干渉に対して、かなりの耐性を持ち合わせているらしい。
どこか珍獣を見るような吸血鬼の目つきに、依織は少しばかり居心地の悪さを感じた。

「ここまでの耐性持ちは俺も初めて見た。あ、この話、お前の一族には黙っとけよ。ひどい目に遭う」

「……具体的には?」

「『母胎』として一族の優秀な男に『マワされる』とか」

「『母胎』?『マワされる』?」

「すまん。今のは子供にする話じゃなかった。忘れろ……って効かないんだったか」

急に謝罪の言葉を述べ、頭を抱えウンウン唸りだした男に、依織の頭に疑問符が湧く。
兎にも角にも、この男は依織を心配してくれているらしい。最初に感じた恐ろしいという印象が次第に薄れていく。
吸血鬼のくせに、人間なんかの小娘を気にかけるだなんて、随分変わっている。
口元に腕を当てぶっと吹き出した依織に、男が顔を上げた。

「何がおかしい」

一気に不機嫌を全面に押し出し、身を乗り出した男に、依織の中にあった恐れは完全に消し飛んでいた。

「いいえ。ただ、おじさんはいい人だなぁってーー」

「誰がおじさんだ誰がぁ!!あぁ!?」

ぽかんと間抜けに口を開け、依織は頭上の強面を見上げた。牙を剥き出し唸り声を上げる狼のように、いや、この男は吸血鬼だった。ならば鬼と表現するのが的確なのだろうか。
依織の言葉を食い気味に怒声を上げたこの男を、依織はもう怖いとは思わなかった。

「いいか嬢ちゃん。俺にはなぁ、「真壁修一(まかべしゅういち)」っつう立派な名前が……!!……あ」

しまったという顔をしたが、依織は男の、真壁の言葉を聞き漏らさなかった。
この男は吸血鬼だ。それは依織も理解している。
その筈だ。だが、どこか心では信じきれずにいた。
きっとこの男は悪い人間ではない。
昨日今日出会ったばかりの依織を気にかけてくれるような人なのだ。悪人であるはずがない。
そう、依織が信じていたかった。それだけだった。

「今のは忘れろ。そしてもうここには来るな。お前の為にもそれが、一番いい」

どこか憂いを帯びた眼差しで言い切る真壁に、依織は首を横に振った。

「あのな、嬢ちゃん」

「依織」

鉄格子に指をかけ、身を乗り出し必死に伸びをする少女に、真壁は面食らっていた。

「私の名前」

正直、依織は浮き足立っていた。
真壁修一という男は、今まで依織の周りにいた人間にはない雰囲気を持っていた。
それもそうだろう、そもそも、彼曰く真壁は人間ですらないのだから。
真壁修一は、依織が一族から聞かされていた吸血鬼という生き物のイメージとは乖離しすぎている。
それがおかしくもあり、奇妙でもあり。
純粋に好ましいと思った。

蓮花の言葉が脳裏を過る。
倉橋のやっている事が正しいのか、間違っているのか。
その答えは依織にはまだ分からない。
分からないのなら、実際に確かめてみればいい。

彼が特殊な存在なのか、それとも吸血鬼とは本来こういう存在なのか。依織が、倉橋家が、色眼鏡で見ていただけなのか。

今はただ、この獰猛な獣に少しでも近付いてみたいと、それだけを考えていた。

キラキラと目の奥を子供らしく輝かせる依織とは対照的に、真壁は苦々しい顔をする。
はぁ、と深い溜め息を吐いたかと思えば、昨夜と同じように手のひらを前に差し出した。

「俺なんかと関わったら、不幸になる」

不意に襲ってくる眠気に、依織は必死に抗おうともがく。だが、その抵抗も虚しく、依織は閉じていく瞼に抗う事が出来ない。

「明日になったら、お前が俺を忘れてる事を祈ってるよ」

最後に聞いた真壁の言葉は、どこか切実な色を含んでいた。

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