アイレンV
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依織の抵抗も虚しく、ズルズルと引きずられるままに連れ出され、依織と宗介は現在、家から徒歩10分程の距離にあるファミリーレストランにいた。
わざとらしく机に立てたメニューで顔を覆い隠しながら、何を注文するか考えている様を装って、依織は向かいの席に肘をついて腰掛けている倉橋蓮花を覗き見ていた。
蓮花は大きな窓から外を歩く通行人を眺めながらストローでアイスコーヒーを啜っている。
彼女は依織の視線を気に止めることもなく、時折氷をかき混ぜるカランカランという音が店内BGMと共に依織の鼓膜を揺らしていた。
それにしても、と依織は蓮花に向ける視線を尖らせた。
外には木枯らしが吹き荒れているというのに、タンクトップにスキニージーンズというのは如何なものなのだろうか。
依織の心配を他所に、蓮花は飄々としている。むしろ、見ているこっちの方が寒くなってくる。
一方の宗介は、メニューを眺めていたかと思えば唐突に閉じ、メニュー立てに戻した。
「ショコラマウンテンデラックススペシャルで」
真顔で言い放たれた呪文のようなそれに、依織は呆れる気力も削がれた。
「……私もそれで」
正直パフェはどうでもいい。
はいはい、と蓮花が両肘をつきながら、インターホンを押す。
やってきた店員に問題のパフェを注文し終えると、さて、と言いながら、蓮花は飲み終わったアイスコーヒーのグラスを前腕でおもむろに端に追いやった。
「悪かったわね。子供にその、見苦しいとこ見せちゃって」
ばつが悪そうな顔をして、蓮花は笑って見せた。
先程、國広と接している時の彼女は随分と大人びて見えたが、困ったように笑ってみせる眼前の少女は随分歳若いように思えた。
「盗み聞きしたのは俺らの方ですから。むしろ、奢ってもらって申し訳ないというか」
宗介は苦笑いで頭を掻いた。
デラックスなんて名前のつくパフェを頼んだ人間がよく言う。
依織の心境を察してか、宗介は依織を宥めるように数度背を軽く叩いてきた。
「あー、いいのいいの。むしろ連れて来ちゃったのはこっちの事情っていうか。最後に話し時たい事があったっていうか……」
「最後……?」
「そ。あの家を出る前に、ね」
依織の呟きに、蓮花はあっけらかんとした調子で答えた。
「もうあの家に近付くつもりはないし、金銭的な援助を受けるつもりもない。最近は特待生制度やら特別奨学金やら、色々あって……あ、こう見えても頭いいのよ、私」
「あの、蓮花さんって何歳……なんですか?」
「十八だけど、それが?」
先ほど以上にあっけなく零された答えに、依織は思わず固まった。
「特に依織」
突然の名指しに、依織は思考を中断し、目を見開いた。
「貴女は、依子姉さんの娘だから」
蓮花の視線が不意に和らいだ。
「勿論、婚約者である貴方にも。ね、宗介クン?」
肘をついたまま顎の下で可愛らしく腕を組み、わざとらしく蓮花は微笑んで見せた。
「依織はともかく……よく知ってましたね、俺の事まで」
「そりゃ知ってるに決まってるでしょ。本家に簡単に出入りできる子供の数なんて限られてるし、第一、貴方結構有名なのよ。倉橋の直系の娘の婚約者で?御当主に気に入られてて?その上、後継確定の國依の右腕候補ナンバー1ときて、知らない方がお笑いだわ」
飄々としていた宗介の表情が瞬時に硬くなった。
「ね、あんた達は、自分の家が、義兄さん達がやってる事を、正しいと思う?」
今度は依織が固まる番だった。
そんな事、考えた事もなかった。
当主である父や、育ての親である鷹子、周りに溢れる大人達、その誰もが倉橋という家を賛美し、吸血鬼の存在を卑下し、貶め、ただお前は倉橋の為にあれと、そう依織に聞かせていた。
吸血鬼とは、人の血を啜り殺す、理性を持たない獣だ、と。
それを依織は鵜呑みにし、考える事を放棄し、それが当然だと、ただ大人達の言う事にしたがって生きていた。それは弟である國依とて同じ筈だ。むしろ、彼は考える事を放棄した依織以上に倉橋に心酔しているといっても過言ではなかった。
今この場に 國依がいたとすれば、彼は激怒しただろう。
父を尊敬し、一刻も早く吸血鬼を殺すのだと、倉橋にとってはこれ以上ないほどに完璧な存在である弟にとって、蓮花の言葉は侮辱以外の何物でもなかった筈だ。
だが、依織はどうだろうか。
別に倉橋に心酔している訳ではない。
ただ、周囲がそうであれと依織に従順である事を求め、依織はそれに応えた。
今までもこれからもそれは揺らぐ事なく、依織は檻の中で生きる事を良しとした。
正しいだとか間違っているだとか、そんな事は飼い犬である依織が考えるべき事ではなかった。
「貴女は間違っていると言いたいんですか」
宗介の目は座っていた。
真っ直ぐに蓮花の瞳を射抜き、彼女の真意を図ろうと画策していた。
宗介は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ真剣に蓮花の心の中を覗き込もうとしていた。
「本家と縁を切るくらいには」
蓮花は肩をすくめ笑った。
「逆に聞くけど、宗介クンは正しいと思う?」
「さて、どうでしょう。俺はそんな事、考えた事もありませんから」
目を閉じ不敵に笑う。
数秒後に開かれた眼は、微笑みながら真っ直ぐに横に座る依織を見つめていた。
「依織も、たぶん俺と同じだと思いますよ」
突然話を振られ、依織は咄嗟に頷いていた。
「まぁ、そうよね。私もあんた達くらいの歳の時は、なーんにも考えてなかったし。ま、そのうちわかる日が来るわよ」
一人納得しているらしい蓮花は、うんうんと頷きながら背もたれに深くもたれかかると、おもむろに伸びをした。
「この場に弟クンがいたら大変な事になってたな」
「……そうね」
依織はぼそりと囁かれた宗介の言葉に同意を示した。
國依は置いてきて正解だった。
この少女はそれを見越して二人だけを連れ出したのだろうか。
「本当に、いなくてよかった」
パフェを持った従業員の女性が現れたのは、丁度その時だった。
どん、と眼前に置かれたパフェのサイズに、依織は口角が引きつっていくのを感じた。
対して宗介は余裕だ。むしろ喜色を前面に押し出し、三十センチはあろうそびえ立つ山のようなチョコレートパフェに挑もうとしている。
「あんた、それ……食べるの?」
蓮花も驚いたのか、身を乗り出し宗介を疑念の表情で睨みつけていた。
「俺、甘いの好きなんすよ」
「いや、だからって」
「叔母さん、こいつには何を言っても無駄ですから」
「そ、そっか……」
依織の気のせいでなければ、蓮花は引いていた。
いや、気のせいではない。完全に引いている。
重くなった空気は瞬時にかき消され、三人の間には奇妙な沈黙が流れていた。
ドン引きしている二人を無視し、宗介はハイペースでパフェスプーンを動かし続け、あっという間にその細い体のどこのそんなものが入るんだ、というサイズの化け物級パフェを完食してしまった。
「宗介」
依織は青い顔をしながら口元を押さえた。
「私の分も、食べてもらっていい?」
口元についたチョコレートを拭いもせずに、いい笑顔で「勿論」と威勢良く返ってきたのは言うまでもない。
ファミレスからの帰り道、蓮花は依織と宗介に、依織の母が昔どんな少女だったか、という事を色々話して聞かせた。
昔からお転婆だった蓮花を庇い、誰よりも蓮花の味方でいてくれた優しい女性だったという。
「依子姉さんはね、優しすぎたの」
不意に立ち止まり、蓮花は虚空を見上げた。
そこに依子が立っているかのように空に向かって語りかけていた。
「誰よりも優しくて、大馬鹿で。耐えきれなくなって。だから、潰れちゃった」
独り言のような蓮花の言葉を、宗介と依織は横に並んで歩きながら心に刻み付けていった。
それきり、蓮花はしばらく何も語らなかった。
二人も、彼女と同じく何も口にしなかった。
次の角を曲がれば本家の門が見える、という所になり、急に立ち止まったかと思えば、振り返りようやく蓮花は重たい口を開けた。
「私はここまで。今日はありがとうね、年寄りの思い出話に付き合ってもらっちゃって」
「いえいえ。こちらこそ、パフェありがとうございました」
「宗介は食べ過ぎ」
「確かに」
ぶっと蓮花は腹を抱えて笑いだした。
ひとしきり笑い終えると、蓮花はよいしょ、と言いながらその場にしゃがみ込んだ。
依織と宗介に視線を合わせ、宗介の耳元で何事かを囁いたかと思えば、依織が何を言ったのか尋ねる暇もなく、ぼふっと二人の頭の上に腕を乗せ、髪を乱し始めた。
「嫌な事があったら、遠慮せず私を頼んなさいね」
蓮花はにぃっと口角を上げ、いたずらっ子のように笑った。
太陽のような笑みは、依織と宗介に確かな存在感を刻み付けた。
「依織」
急に声音を下げたかと思えば、蓮花は少女の耳元に口を寄せた。
依織の鼓膜を怒声が揺らしたのは、丁度その時だった。
「姉様に何をしてる……!」
「國依……!」
仁王立ちで夕日を背に数メートル先に佇んでいたのは、鬼の形相の自身の弟だった。
依織の制止の言葉も聞かずに、大股でこちらに向かい、勢い良く蓮花に掴みかかろうとするところを、間一髪で宗介が無理やり羽交い締めにした。
「あら怖い」
危害を加えられようとしていた等の本人は飄々としたものだ。
よっこいしょ、と親父じみた掛け声と共に立ち上がり、蓮花は腰に腕を当て、どこか哀れみすらも込めて喚く國依を眺めていた。
「姉様に触るな!!消えろ異端!!お前は姉様に相応しくない!!目障りなんだよ!!」
「國依あなた!!」
「姉様は黙っててください!!」
「……ほんと、御当主そっくり」
その台詞が依織の脳裏にやけに強く焼きついて離れなかった。
「私はお邪魔みたいだし、もう行くわ」
肩がけのバッグを掛け直し、蓮花は依織達に背を向けた。
「またね」
背を向けたまま片腕をひらひらと降り、倉橋蓮花は依織の前から姿を消した。
依織と宗介が6歳。國依が5歳の晩秋の事だった。
その日の晩、依織はなかなか眠る事が出来なかった。
何度も寝返りを繰り返し、時計が丁度2時を回ったあたりでおもむろに体を起こした。
隣の布団で眠る弟は夕方の剣幕は何処へやら、穏やかな寝顔を無防備に晒していた。
乱れた布団をそっと掛け直してやると、依織の気配に勘付いてか、頬を腕に擦りつけてきた。
緩む頬を自覚しながら、ぽんぽんと國依の頭を数度撫でてやると、弟は頬を緩ませだらしなく笑んだ。
國依は眠っていると可愛い。
起きている時も、勿論可愛い弟である事に変わりはない。
時々、依織は國依を怖いと思う時がある。
今日のように怒りを前面に押し出した弟は、依織の手には到底追えない。
夕方の時だって、宗介がいなければ本当に蓮花に殴りかかっていただろう。
あの後、宥めるのにも相当手を焼いた。
溜息をもらし、依織は寝間着のままそっと縁側へと通じる障子を開いた。
夜風が肌を撫で、依織は二の腕をさすりながら静かに縁側に出た。
そっと寝室へと通じる障子を閉めてしまえば、夜の静かな世界にたった一人ちっぽけな少女は放り出される。
冷たい夜風が直に頬を冷やしていく。
空を見上げれば綺麗な満月が庭の石畳を明るく照らしていた。
縁側に腰掛け、しばらく依織はじっと空を眺めていた。
どれくらいそうしていたのだろうか。
くしゅんと出たくしゃみに、思っていたより体が冷えていたのを自覚し、依織は寝室に戻ろうとそっと立ち上がった。
その時だった。
不意に、視線を感じた。
ぞわっと全身の毛が逆立ち、いままで経験した事のない不快感が依織の全身を駆け巡っていく。
逃げなければいけない。いますぐに障子を開け、部屋に戻ったほうがいい。
それは依織にも分かっている。
分かっていて尚、このままでは到底寝付けそうもない事は明白だった。
強烈な気配に導かれるように、靴を履き、石畳の上を進んでいく。
次第に敷地内の奥まったところへと進んでいく。
絶対に近寄らないほうがいい。面倒な事になる。
依織の理性が警鐘を鳴らしていた。
それとは反対に、依織の足は止まる事なく歩みを続ける。
やがて、依織の足は屋敷の敷地内に隠されるように存在していた1棟の蔵の前で止まった。
こんな所に蔵なんてあったのか、と純粋に驚くのと同時に、見るからにきな臭い蔵だった。
木々により巧妙に隠され、もしかすると結界の類すら張られているのかもしれない。
蔵自体は、所々にヒビが入り、地震でも起きてしまえば簡単に崩れてしまいそうなものだ。
にも関わらず、掛けられた錠は二重にも三重にも蔵の入り口を封鎖している。
眉をしかめながらも、おもむろに錠へと依織が触れた瞬間。
「え……」
ガチャ、という大きな音を立て一斉に鍵が解除された。
数歩後ずさった依織を無視し、扉は一人手に開いていく。
ゆっくりと扉が開いていく程に、強烈な気配が強まっていく。
錆鉄の匂いに混じり、ほんのりと香る血の芳香。
完全に蔵の戸が開いた時、依織の視界に飛び込んできたのは地下へと続く、いかにも、といったうちっぱなしの階段だった。
階段の下は暗く底が見えない。
明かりがなければ到底降りていけるとは思えなかった。
もう帰ったほうがいいと依織が背を向けた瞬間、ぼっと背後から音が聞こえた。
見れば階段の両脇に等間隔に設置されている蝋燭に、一斉に火が灯っていた。
この中にいるなにか、は依織を明らかに誘っている。
その目的が何にしろ。
ここまできて、今更後戻りは出来なかった。
恐る恐る階段を一段降りる。
それと同時に、背後の戸が音を立てて閉まった。
もう後戻りは許さないと、そういう事らしい。
ごくり、と唾を飲み込み、依織は覚悟を決め階段を下へ下へと下っていった。
どれほど地下へときたのだろうか。
ようやく、地に両足がついた。
「……んだよ」
低い男の声だった。
一斉に灯っていた炎が消え、依織は暗闇の中一人取り残された。
腰が抜けそうだった。
怖くて声を出すことすら出来やしない。
固まり、動こうとしない少女を無視し、声は独り言を続ける。
「なかなか美味そうな気配だと思ったのに。……こんなちんまいガキかよ」
暗闇の中だというのに、男には依織の姿が見えているらしい。
「あ……あ、あ……」
「あ?」
やっとのことで出す事に成功したか細い嗚咽に、男はようやく依織が怯えている事を認識したらしい。
「めんどくせぇ」
ぱん、と男が手を叩くと、消えていた燭台の炎が一斉に灯った。
それでも地下はまだ薄暗い。
暗闇の再奥、がっしりとした鉄格子の先で依織が見たのは、心底めんどくさそうに赤い目を輝かせている、この世のものとは到底思えない美貌を持つ壮年の男だった。
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