震える指先
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次の日の朝、ジリジリとけたたましく鳴る目覚ましの音で、由香は目を覚ました。
心地よいベッドに、伯母の趣味なのか、可愛らしいピンクの壁紙の張られた女の子らしい部屋。
昨日まで使っていた、よれた敷き布団とは違う整えられたベッドの感触が、由香には酷く居心地悪く感じた。
(そっか……お母さん、死んじゃったんだっけ……)
母親の死を実感しても、由香はやはり悲しめなかった。
ただ淡々とした事実としてしか受け止められず、まるで他人が死んだ事を聞かされた様にしか思えなかった。
昨日は心労からなのか、与えられた部屋に入るなり倒れる様に眠ってしまったが、本来由香は一人きりで暗所にいることが苦手だった。
一人ぼっちの暗闇は、あの日の事を彷彿とさせる。
いつもは兄がいてくれるおかげで平気なのだが、昨日からは伯母の意向により部屋が変わってしまった為、兄は別の部屋にいる。
兄は由香と別室になることを断固反対していたのだが、妹にべったりすぎるのも問題だと、伯母が無理矢理引き離した。
寝る前も叶夜はかなり心配そうで、由香に対してひたすら一人で大丈夫か、怖くないかと聞き続けていた。
そんな事を考えていると、無償に兄が恋しくなってきた。
叶夜がシスコンなら、自分も大概ブラコンなのではないかと由香は苦笑した。
手早く着替えをすませ部屋から出ると、扉の前に可奈が立っていた。
「由香姉、おはよう。今ノックしようとしてたところだから丁度よかった!お母さんが朝ごはん出来たって。早く行こう!」
由香が無言で小さく頷くと、可奈は由香の腕をひっぱって早く早くと促しながら、由香の部屋がある4階からリビングのある2階まで駆け足で降りていった。
腕を捕まれている為、由香も強制的に走ることとなる。
「可奈ちゃんっ、危ないよ!」
運動があまり得意ではない由香には、こんな些細な運動でさえ過酷だった。
現に、先程つまづいて転びかけた。
「平気平気っ!大丈夫だって!」
だが、可奈は由香が疲れている事に気付かず、そのまま広い家の中をどたどたと由香の腕を引いて走り続ける。
可奈は無邪気さ故に残酷だった。悪意がないから由香も拒むことが出来ない。
(……少しぐらいならきっと大丈夫)
由香はそのままされるがままに走り続けた。
だが次の瞬間、由香は階段を踏み外した。
「由香姉!?」
ぐらりと身体が傾き、宙に浮いた。
由香は階段のかなり上の方から落ちてしまった。
このままだと、ただ事ではすまない。
少なくともかなり身体がかなり痛む筈だ。酷ければ骨がやられるかもしれない。
(でも、ここで死ねればそれはそれでいいのかもしれない)
自分がここでいなくなれば、もう誰も傷付けなくてすむ。大好きな兄も伯母も、由香という錘から解放される。
いつだって、消える事を願っていた。
変われない自分が嫌で、うじうじと後ろめたく考える卑屈な自分を嫌悪して、変わりたくて、人と普通に話したくて、いつか普通に恋をしたくて。
でも、男の人が怖い自分には恋なんて出来なくて。
いつだって堂々巡り。
由香は、死を願いながらゆっくりと目を閉じた。
ドンっという身体が地面に当たる音と、可奈が息を飲む音だけが響き渡った。
だが、由香の身体にはなんの衝撃もなかった。
変わりに感じたのは、日溜まりの様な温もりだけだった。
ゆっくりと由香が目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
「かず……くん……?」
由香を庇うようにして抱き抱えていたのは、昨日由香をことごとく無視していた和真だった。
微かに眉根を寄せながら目を開けた和真は、由香の安否を確認すると、彼女を突き飛ばし、自分一人ですばやく立ち上がった。
まったく痛みを感じさせない凛としたその姿は、さながら歴戦の戦士の様だ。
和真はぱんぱんと、軽く自分の身なりを整えると、しゃがみこんで倒れている由香に視線を合わせた。
冷たい蔑む様な目線に、由香は背筋がゾクゾクするのを感じた。
「昔から思ってたけど、お前馬鹿だよな」
「え……?」
「死のうって、考えたよな」
地を這うような低音で蔑まれ、由香はびくりと身体を震わせた。
もしかして顔に出ていたのだろうか。
顔を青くした由香に、和真は更に嫌悪の色を示した。
「残される方の気持ちも少しは考えろよ。お前が死んだら、お前の兄貴は一人になるんだぞ。叶夜がお前をどれだけ溺愛してるか、お前なら分かってると思ってた」
「兄さん!!」
由香を放置して去ろうとした和真を、可奈は怒りを顕にして呼び止めた。
「その言い方は酷いでしょ。元はと言えば、私が勝手にはしゃいでただけなんだから、由香姉は悪くない!それなのに、そんな言い方!!」
「可奈ちゃん……っ!」
「でもっ!!」
「ほっとけよ。否定しないって事は図星なんだろ?……臆病者」
「兄さん!!」
和真は二人に向かって見下す様な笑みを浮かべると、とっとと立ち去ってしまった。
「ごめんね由香姉…兄さんも、悪気があって言った訳じゃないと思うから…。気にしないで」
申し訳なさそうに謝る可奈に、由香はなにも返せなかった。
可奈は無言で狼狽えている由香の腕を軽く握ると、ぱっと可愛らしい笑顔を浮かべた。
「行こう由香姉!ご飯冷めちゃうよ!!」
「……うん」
由香には、由香を気遣いながら何気無く会話を振る可奈が、とても眩しく思えた。
「おはよう、由香」
リビングのドアを開けて真っ先に由香に声を掛けたのは、叶夜だった。
叶夜は席から立ち上がると、由香の元にやって来て慈愛に満ちた表情で軽く由香の頭を撫でた。
「昨日はひとりだったけど、よく眠れた?」
「うん、大丈夫だったよ」
由香が微かに笑いながらそう言うと、叶夜は心底嬉しそうに微笑んだ。
「そっか、どうやら僕の心配は取り越し苦労の様で安心したよ。さあ、早く席に座って。ちゃんと由香の分は残してあるからね。」
「…ありがとう」
「叶兄は本当に由香姉が大事なのね」
「由香は、大事な妹なんだから大切にして当然だろ?」
冷やかしてきた可奈に対して、叶夜は由香に向ける眼差しと正反対の目付きで対応した。
由香に対しては終始穏やかな叶夜だが、やはり可奈に対してはどこか冷たい態度を取っていた。
昨日由香が感じた兄の違和感は、気のせいではなかったらしい。
可奈はいい子だと、由香は思う。それに純粋で明るい。
決して明るいとは言い難い由香にも親切にしてくれるし、悪いところなんてなにも思い浮かばないのだが、何故叶夜は可奈に冷たく当たるのだろうか。
「由香?……なんでそんなに険しい顔をしてるの?」
考え込んでいた由香は、叶夜がぽんと自分の肩に両手を置いた感覚によって現実に引き戻された。
「え……?あ、少しボーッとしてただけだけだよ。」
「本当に……?」
確かめるように再び聞いてきた兄にドキリとしたが、冷静を装って由香はあははと空笑いを浮かべた。
「うん。私がお兄ちゃんに隠し事をする訳ないよ」
怪訝そうにしていた叶夜だったが、由香の態度に根負けしたのか、呆れた様な苦笑を浮かべて由香へご飯をよそい始めた。
「お兄ちゃん、それぐらい自分でやるから…。」
叶夜は、ここへ来る前、母親が殺害事件の被害者という理由で、何度も警察に話を聞かれていた。
由香にももちろん警察官の男性は話を聞こうとしたのだが、叶夜は由香の対人恐怖症を考慮し、妹は口が聞けないんだと嘘をついてごまかしてくれた。
由香の分まで話を聞かれ、更には伯母の家に引っ越す為の支度、毎日の家事までをもしていた兄はまったく由香の前では疲れを表していないが、相当疲れている筈だ。
そんな兄に、そこまでしてもらうなんて申し訳なさすぎる。
由香が慌てて叶夜に駆け寄ると、叶夜はしゃもじを持っている腕とは反対の手で、ご飯の入った茶碗を由香の手の届かない所まで掲げ上げた。
当然、小柄な由香の腕はお茶碗に届く事はなく、ただぴょんぴょんとジャンプするだけになってしまう。
「お兄ちゃんっ、返して!」
「駄目、由香は座ってて。由香の事は僕が全部してあげるからさ」
必死に由香がお茶碗を奪還しようとしている様子を、叶夜はむしろ楽しんでいる様だった。
そんな二人に呆れたのか、先程からキッチンで味噌汁を入れていた和真は、味噌汁をテーブルに置いてから無言で叶夜の頭を軽くしばいた。
「痛っ。まったく、歳上に向かって君は……」
「それが歳上のする事かよ。…お前がそんなだから、こいつが甘ったれになるんだ。」
ふいっと、と顎で由香を指した後、和真は軽く叶夜を睨んだ。
だが和真は軽く息を吐くと、急に真剣な表情になった。
「お前、今朝の新聞見たか?」
その言葉に、由香の心臓がドクンと脈打つ。
新聞に載るような心当たり等一つしかない。
横にいる兄も、由香と同じことを考えたのか、ごくりと息を飲んでいた。
「お兄ちゃん……」
ぼそっと不安げに呟いた由香の手を、叶夜は大丈夫と言わんばかりに握りしめた。
「和真、新聞貸して」
直後、兄は覚悟を決めた様に忌々しげに和真を睨んだ。
正確には和真を睨んだ訳ではないのかもしれないが、由香にはそう見えた。
こくりと神妙な顔をしながら、和真は新聞を叶夜に手渡した。
新聞の一面を見た瞬間、叶夜は正に蒼白といった様子で固まってしまった。
「お…兄ちゃん…?」
心配になった由香が声を掛けても反応しない。
いつもなら、なにより由香に反応する叶夜が由香に反応しない。
嫌な予感がすると、由香は身を乗り出して叶夜の横からちらりと新聞を除き込んだ。
そこには、目を引く大きなゴシック体でこう書かれていた。
「東京都内で主婦殺害」
「犯人は未だ逃走中」
(やっぱり……お母さんの事……)
写真にははっきりと、以前由香達が暮らしていたおんぼろアパートが写っているから確かだろう。
実の所、由香はあまり兄から詳しく母の事件に関して聞かされていなかった。
そのまま興味本意で紙面を流し読んでいると、由香の知らなかった事件の概要が入ってきた。
部屋は密室、凶器もなければ荒らされた形跡も母が犯人に反抗した形跡もない。
ここまで見れば自殺と見るのが妥当だ。しかし、警察は他殺だとはっきりと断言していた。
疑問を覚えたその時、由香はとある文章にぶち当たった。
(『特出すべきは、その殺害方法だろう』……?)
そのまま読み進めて、由香は絶句した。
被害者の首筋にははっきりとなにかで血を抜かれた様な形跡があり、第一発見者である回覧板を持ってきた主婦は、吸血鬼の様な黒衣の男が、被害者の血を啜り飲むのを見たという。
どくり、由香は言い知れぬ恐怖を覚えた。
だが、怖くても知らなければいけない気がした。
由香はうるさいぐらいに鳴る心臓を押さえながら、必死で続きを読み進めた。
第一発見者が一度瞬きをした瞬間、黒衣の男は消えたという。発見者が、急いで倒れていた被害者に駆け寄ってみると、確かに首筋には牙で噛まれた様な後が残っていたらしい。
だが、発見者が警察を呼ぶ為に急いで自宅に戻り電話を掛け、もう一度被害者宅に戻ると、遺体は何事もなかったかの様に消えていた。
残っていたのは、カーペットに血で書かれた「ムカエニキタヨ」という文字だけ。
警察は、発見者の話を信じようとはしなかったが、他にも黒衣の男を見たという多数の目撃証言があった事から、この事件にはまだ謎がありそうだ。
はたして犯人は狂気殺人鬼か、それとも本物の吸血鬼なのか!?
謎は深まるばかりである。
読み終わった直後、由香は震えが止まらなかった。
(違う……狂気殺人なんかじゃない…。吸血鬼は……いる)
これは、過去の被害者である由香が一番分かっていた。
じゅるじゅると血を啜る音を、赤くどす黒い欲望にまみれた目を、由香は今でも鮮明に覚えている。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
吸血鬼は、あの男だけではなく他にもいた。
その事実は、由香を恐怖に陥れるには充分すぎた。
「ムカエニキタヨ」
この言葉が指す迎えに来る相手はおそらく由香だ。
母はただの前菜。
(だからお兄ちゃんは私にこの事を隠してたんだ…。)
由香に恐怖心を与えないように、由香が幸せでいられるように。
叶夜は、そこまで考えて由香を遠ざけてくれていたのだろう。
由香の中の恐怖心が増加していく。
その時だった。
─もうすぐ会えるね、由香!
ぶわっと全身から冷たい汗が吹き出した。
由香の脳裏に、クスクスと心底楽しそうに笑う少女の声が響き渡る。
(会えるって何…?)
知らない。
こんな風に狂った様に笑う少女を、由香は知らない。
殺される。
吸血鬼に血を抜かれて、無様に殺される!!
そう思った瞬間、震えが止まらなくなった。
強く握りしめ過ぎた腕が、突き立てた爪に抉られてじわりと血が滲む。
「由香姉!?どうしたの!?由香姉!!」
ガタガタと焦点の合わない目で震える由香に気付いた可奈は、必死に由香の肩を掴んで呼び掛けた。
「大丈夫…大丈夫だから…。」
自分自身に必死でそう言い聞かせながらも、由香の震えは収まらない。
流石に今回ばかりは和真も心配になった様で、彼も少し遠めからではあったが、由香に対して呼び掛けていた。
蒼白していた叶夜も、由香の異変に我に返る。
叶夜は必死で由香を安心させようと抱き締めた。
だが、その程度では由香の不安は消えない。
「由香、大丈夫。ここにいれば安心だから!」
「分かってる!でも…でも…!!」
由香には聞こえるのだ。
狂った様に由香の名を呼ぶ少女の笑い声が。
(いや…消えて消えて消えて消えて!!)
─どうして私を嫌うの?ねえ…由香!!約束したじゃない…。───って言ったじゃない!!
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!!
その時だった。
ガチャリとドアを開けて、茜が入ってきた。
それと共に、不思議と由香を呼ぶ奇妙な声も消えた。
途端に、安堵からか由香は全身の力が抜けて、叶夜に寄りかかってしまった。
「由香!?」
「由香姉!?」
「おい、しっかりしろ!!」
未だにガタガタと震える由香に気付いた茜は、血相を変えて由香に駆け寄った。
「由香ちゃん!しっかりして!!由香ちゃん!!」
(伯母…さん…?)
ぼやける視界の中で、由香は叶夜の肩越しに茜の姿を見た様な気がした。
だが、それを最後に由香の意識はぷつんと切れた。
由香が閉じていた瞼を上げると、今の由香の気分とは真逆の薄桃色の天井が目に入ってきた。
由香は、そこでようやくここが自分の部屋だという事に気が付いた。
どうやら、誰かが運んでくれたらしい。
(そうだ……確か声が……)
そこまで思い当たって、由香はバッと一気に布団を捲り上げ飛び起きた。
バクバクと脈打つ胸を必死に押さえ、大丈夫なんだと自分で自分に暗示をかける。
その時、ガチャリと音がして部屋のドアノブがゆっくりと回った。
無意識にびくっと震え上がった由香に、ドアを開けて部屋に入ってきた意外な人物、和真は不快そうに眉を潜めた。
「なんだよ、俺を化け物かなにかだと思ったのか?」
皮肉気な笑みを浮かべる和真に、由香は控えめに首を縦に振った。
由香にしてみれば、兄や伯母はともかく和真が自分を心配してくれるとは考えられない。
むしろ蔑む様な態度をとっている人物が見舞いにくれば逆に心配になる。
そんな由香の内心を察してか、和真はドアの前に立ったままそれ以上は由香に近寄ろうとはしなかった。
「具合、どうだ?」
「……平気」
「そうか」
痛い程の静寂が訪れる。
しばらくして、その沈黙を破ったのは和真の方だった。
「お前……吸血鬼っていると思うか?」
和真の言葉に由香は目を見開いて、和真の顔を凝視した。
だが、和真はそれ以上なにも語ろうとはしなかった。それどころか、急に青ざめた由香を見て肩を震わせて笑い始めた。
「ほんと馬鹿だな!……吸血鬼なんていないに決まってるだろ」
「なっ……!?」
一瞬でも期待した自分が馬鹿だった。
和真はただ怯える由香を見て楽しんでいるだけだ。
ケタケタと笑う和真に、由香は自分に出来る精一杯の冷たい視線を向けた。
誰も吸血鬼なんて子供騙しの怪物がいるなんて信じない。信じてくれない。
「出ていって……」
急に声を発した由香に、和真は微かに驚いた様だった。
「……お前、本当に大丈夫か?」
今度は本気で心配した和真だったが、由香は和真の言葉を聞く耳を持たなかった。
「いいから一人にしてよ!!」
ボロボロと涙を溢しながらヒステリックに叫ぶ由香に、和真はなにも言えなくなった。
ただ、小声でわかったと、素っ気なく発してガチャっと、扉を開けて部屋の外に出ていくしかなかった。
扉を閉めた瞬間、由香の啜り泣く声が聞こえてきた。
それをしっかり耳にした和真は真剣な面持ちで、ぼそりと誰に言うでもなく言葉を溢した。
「もしも、吸血鬼がいるって言ったら、お前はどうしてたんだろうな」
少年の言葉は誰に聞こえるでもなく、長い廊下の果てに消えていった。
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