飢えた鬼
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その日、少年はひとり森の暗がりの中に座り込んでいた。
年の功は6、7程。
殴られた頬を片手で何度もさすりながら、顔を歪める。

「この化け物めっ……!!」

恐怖に頬を引きつらせ、園芸用のスコップで男は実の息子の頬を何度も殴りつけた。
だが、そこにはあざの一つもありはしない。
そこにあるのは、ただ少年が人外のものであるという事実だけだった。
痛かった。苦しかった。
どうしてこんな目に合わなければならないのか分からなかった。
世の中は理不尽だ。
何も悪いことはしていない。
ただ少年は、食事をしていただけに過ぎない。人間は当たり前のように食事をする。
他の動物を殺し、自らの糧とする。
少年のそれは、人間のそれと何ら変わらない。むしろ相手を殺していないだけ良心的な行為ではなかろうか。

暗い森の中、両腕を真っ赤に濡らした少年は不気味に瞳を赤く輝かせる。
夜風に黒髪が揺れ、少年の顔が月明かりの元に顕になる。
真っ赤な瞳、白い肌、人外の美貌、そして、べったりと全身に付着した血液。

前々から鬱陶しいと思っていた。
これは当たり前の行為だ。
そこに介入される謂れなどない。

何度も何度も傷を付けられては治っていく。
それを何十回と繰り返した頃、少年の中に宿ったのはどこまでも黒い怒りと憎しみだった。

「お前なんて……お前なんてな……!!生まれてこなければよかったんだ……!!」

止めを刺すかのように天高く掲げられたスコップを見た瞬間、少年の身体は無意識に動いていた。
咄嗟に立ち上がり、次に目を開けた時には予備動作を付け勢い良く父親の腹部を片腕で貫いていた。
後悔は微塵もなかった。
次いで、今まで見ているだけで止めようともしなかった怯えきった母親の方へとゆらりゆらりと近付いていく。

「や……めて……おねが……」

やめて?今まで一度も守ってくれようとしなかったくせに。傍観者を貫いていた癖に。
湧き出た憎悪に身を任せ、その日少年は鬼になった。

すっきりした筈だ。
なのに、ボロボロと流れ出る涙を止めることが出来なかった。
人を殺める。その行いは確かに少年の中に深い爪痕を残していた。
両手で顔を覆い、肩を震わせ声を上げ笑いながら涙を流す。
その様は人様にはどれほど滑稽に写るのか。

ふと、少年の上に暗い影が落ちた。
次いで上から聞こえた地を這うような声に、少年は声を上げるのをやめた。

「無様だな」

無感動に零された言葉に咄嗟に顔を上げれば、少年と良く似た顔つきの黒いフロックコートを纏った男が立っていた。
冷たい無表情を少年に向け、男はぽつりとそう一言零したきり黙り込んでしまった。

しばしの沈黙が続く。
月光だけが、人間に見放された二匹の憐れな鬼を照らしていた。

「何故泣く」

「関係ない」

「この私が、同胞に救いの手を差し延べようとしているんだ。素直になったらどうだ、小僧」

しゃがみこみ、少年に視線を合わせて男は不遜な態度でじーっと真っ直ぐに少年を睨み付ける。
相変わらずの無表情からは殺気すら感じられ、少年は思わず竦み上がっていた。

「……あんたは、誰?」

恐る恐る少年が喉を震わせると、男は呆れたように口を開ける。

「言っただろう。お前の同胞。仲間だ」

「仲……間……?」

「……吸血鬼、と言った方が早いか?」

「吸血鬼……」

「そうだ。人間の血を啜ることでしか生きていけない、哀れな化け物」

少年は驚きに目を見開いた。
世の中には自分以外にもそんなものが存在したのか。

「で?どうして泣いていた?」

話してみろと言いながら男は少年の頭を不器用にぐしゃぐしゃと撫でる。

「……人を、殺したんだ」

どうして初対面の相手にそんな事を打ち明けられたのか。それは、単にこの男の顔が自分に似ていたからか、なんなのか。
ただ藁にもすがりたかっただけなのかもしれない。

「そうか」

少年の言葉に男はぶっきらぼうに一言零すだけだった。
誰を殺したんだとか、なんでだとか、それ以上の事は何も聞いて来なかった。

「一緒に来るか?」

「……は?」

しばし考え込んだ後唐突に告げられた言葉に、少年はたまらず馬鹿げた声を漏らしていた。
ぽかんと口を開けている少年を尻目に、再び男は眉をしかめながら口を開く。

「一緒に来るかと聞いている。三秒以内に答えろ」

「ちょ」

「三、二、一」

「分かった!行く!あんたと一緒に行く!!」

「よし」

咄嗟の事で、何も考える余裕がなかった。
本当にこれでよかったのか。そもそも、この男は本当に何者なんだ。
あまりにも強引な手腕に色んなことが頭から吹っ飛んだ。
有無を言わせぬ態度にただ従う事しか出来ない。
男は立ち上がり、呆然とする少年に背を向け歩き出そうとして、不意に振り返った。

「そう言えば、まだ名前を聞いていなかったな」

(そう言えばじゃないだろう、そう言えばじゃ)

本当にこの男、何も考えていないのだろうか。あまりにも適当な態度に、最初に感じていた威圧感は何だったんだと溜息を吐けば、男は苛立ったように眉を寄せるが、少年はそれをあえて無視した。

「……赤城月人(あかぎつきと)」

「月人か。いい名前だな」

その言葉と共に脳裏に浮かんだ血まみれの二人分の顔に、血の気が引いていく。ぶるりと走った背の震えを無視して、少年は気丈に男の長身を見上げた。

「そ、そういうあんたは」

「私はーー」

月明かりに照らされ初めて見た男の微笑は、どこまでも深く、喰われてしまいそうだった。

* * *


薄暗い何もない闇の中、青桐叶夜は由香に背を向けその場に一人立ち尽くしていた。
誰もいないのが不安で、周囲の果てのない闇が恐ろしくて、由香は声を上げ、数歩先にいる叶夜に向かい足を踏み出した。

「お兄ちゃん」

そうして、兄の腕に触れた時。
ゆっくりと叶夜が由香の方を振り向いた。
叶夜は赤い目で真っ直ぐに由香を射抜いた。
どこまでも感情を読ませない裸眼に、由香は思わず一歩、また一歩と後ずさった。

嘘つき。

「っ……!」

声を出さずに口だけをゆっくり動かし叶夜が告げたのと、現実で由香が小さく叫びを上げ飛び起きたのはほぼ同時だった。
痛む頭に腕を当てると、由香は不自然に息の上がった身体を抱き、なんとか落ち着こうと数度深呼吸を繰り返した。
深紅の天蓋に不自然なまでにふかふかのマットレスに陽の光の届かない薄暗い部屋。
ここが港家ではないと理解するのにそう時間は掛からなかった。

そこではっとした。

(殺すなんて……そんなのだめだよ……)

幾ら酷い事をされたとしても、周りになんと言われようと、由香は叶夜を憎みきれてはいなかった。
今日の行いは確かに許されるものではない。
だが、兄の今までの由香に対しての愛情全て、嘘偽りと忘れる事は到底出来そうもなかった。

「行かないと」

深く考えられる冷静さ等とうに失われていた。
どう考えても既に何時間も経過しているだとか、どちらかが生きている場合もう片方はどうなっているんだろうとか、そんなことを考える余裕なんてなかった。
涙に霞む瞳を必死に擦り、由香は立ち上がった。一体どれくらいの間眠っていたのか。陽の光の届かない屋敷の中では時間の感覚が曖昧になる。
きょろきょろと軽くあたりを見回し、由香は扉に手を掛けた。
頭はガンガンと痛み、周囲の風景が歪んで見える。それでも止めなければ。誰かがこれ以上傷付く所なんて見たくない。

「何処へ、行く気ですか」

背後から掛けられた冷淡な声にびくりと肩が震えた。
背に刃を向けられたような感覚に、由香は息を飲み背後を振り返る事が出来なかった。

キャロラインは先程まで由香が眠っていたベッドの横の壁にもたれ掛かり、腕を組んで臆病な少女に片方の目で責めるように視線を送っていた。
一体どこからこの部屋に入ったんだ、なんていう由香の瑣末な疑問は彼女の言葉に全て掻き消えた。

どこまでもキャロラインは静かだった。
殺気すらも感じさせず、ただただ責めるように由香を射抜き続ける。

「……戻る気ですか?」

その問いに、由香は咄嗟に声を上げられなかった。喉の奥に声がつっかえていた。
無様に微かに息を吐き出す口に、キャロラインは一瞬の沈黙を置き、口を開いた。

「戻ったところで、貴女に何が出来るんですか?」

「それは……」

「青桐叶夜の花嫁にでもなるつもりですか?」

静かな声に恐る恐る彼女に向き合えば、そこには由香の想像とは違うものがあった。
キャロラインはいつもの無表情で、真っ直ぐに由香を見据えている。
だが、その目には一点のくもりがあった。

「ちが……」

「私に告げた決意は、所詮その場凌ぎの嘘偽りだった訳ですか。なかなか傑作ですね」

「違い……ます。ただ私は……!」

「誰も犠牲にしたくない。誰も失いたくない。みんなに笑っていて欲しい。幸せになって欲しい。……本気でそんな事が出来るとでも?馬鹿馬鹿しい」

由香の意識下の願いをキャロラインはばっさりと切り捨てた。
わざとらしく口角を吊り上げ、少女の心を挫こうと罵詈雑言を発し続ける。

カツカツと無機質な靴音を立て、キャロラインは一歩前に踏み出した。
咄嗟に由香は一歩下がっていた。だが、背はすぐに先程由香が開けようとしていた扉にぶつかる。
トンと軽く音を立てた戸に、キャロラインは眉を歪めた。
そうして、ドンと怒りに身を任せ由香の頭のすぐ横にキャロラインの拳がぶつけられた。

「どうしてそこまで愚かなんですか!貴女は!!」

声を荒げ、キャロラインは顔を歪ませる。

「……私が貴女に言った言葉を覚えていますか?」

貴女は誰の花嫁にもなるべきではない。
忘れる訳が無い。未だにその言葉の真意は分からない。
由香はゆっくりと首を縦に振った。

「そうですか。なら……」

キャロラインの瞳が輝きを増す。

「貴女は、事が済むまで大人しくしていればいい。ロザリア様が全部片付けてくれるそうですよ?良かったですね」

事が済むまで、ロザリア様が全部片付けてくれる、その単語に嫌な汗が全身から吹き出す。

「ロザ……リアちゃんがどうしてそこで……」

言いかけて気付いてしまった。
ドクンドクンと激しく鼓動が脈打つ。
ロザリアが出たという事は、きっと叶夜は生きている。だが、和真は。和真はどうなった。
それに、ロザリアが片付けるとキャロラインは言わなかったか。

ロザリアがその手で叶夜を殺めようとしているとでも言いたいのか。
そんな事ありえない。
今朝、ロザリアはいつも通りに微笑んで、喜色を押し出して由香に抱き着いてきた。
由香由香と可愛らしく微笑んで子犬のように由香に擦り寄ってくる愛らしい少女の筈だ。
そうだ今だって。

そこではたと気付く。
どうしてロザリアが現れない。真っ先に現れるだろう彼女がいない?
普段なら真っ先に気付くだろう事に今更気が付く。
ドッドッドッと嫌な汗が溢れる。くらくらと視界が揺れている。

(何で……こんな事に……)

おかしい。おかしい。
確かに酷いことはされた。
だがそれでどうして殺すだの物騒な話になる。

「どうしても理解出来ないと言うのなら、直接その目で見て確かめてみればいい」

呆然とする由香に、キャロラインは不気味に笑うだけだ。

「尤も、その結果どうなろうと私の知った事ではありませんが」

次に目を開けた時には、キャロラインはもうそこにはいなかった。文字通り、霧のように消えてしまっていた。

「止めなきゃ……」

ふらつく頭を必死に押さえつけ、由香は扉を開けなだれ込むように廊下に飛び出した。
そのまま頭を片手で押さえたままふらつく足取りで廊下、階段と進んでいく。

「ど……して……」

階段を一段一段踏み締め、ゆっくりと降りていく。急がなければならないのに、既に手遅れになっているかもしれないのに、足が一向に動かない。全身の震えが止まらない。
ぐっと歯を食いしばり、涙を流しながら手すりにもたれかかり無理矢理落ち着こうと数度深呼吸を繰り返す。

「どうし……て……!」

誰かが死ななければならない。
どうしてそんな話になっている。
ただ幸せを願った。
兄から離れたいと願ったのは、そんなにも罪な事だったのか。

ここふた月の色んな思い出がフラッシュバックし、濁流のように由香を襲う。
頭の痛みは増していくばかりだ。

「私は由香が好きだ」
「それでいい、お前は間違ってない」
「貴女に何が分かる!」
「由香……幸せになって」

「絶対に、許さないよ」

「っ……!!」

ここに来る寸前叶夜に告げられた言葉、赤い瞳、残酷な微笑みに、由香はその場に崩れ落ちていた。

「私……私は……」

一体、何を忘れている。

「由香」

背後からの強い抱擁と共に耳を食むようにして注ぎ込まれた甘い声に、由香に戦慄が走った。

「由香は、もう充分頑張ったよ」

呆然とする由香の肩に顔を埋め、キースは抱擁を強める。震える由香を落ち着かせようとする。伝わる鼓動はどこまでも穏やかだった。
それがやけに恐ろしく感じた。

「何も恐れなくていい。由香は私が守るから」

穏やかながらもその瞳の奥に確かに宿る物騒な色に、由香は気付かずにいた。

「私、追いかけないと……」

「由香」

穏やかな静止を無視し、由香は子供のように喚き続けた。

「止めないと……!止めなきゃいけないんです!!だって!だって!そうじゃなきゃお兄ーー!!」

続きを言おうとして、言えなかった。

「私が、それを許すとでも?」

気付けば身体は持ち上げられ、キースの顔が目と鼻の先にある。
どうして今まで気付かなかったのか。
以前、叶夜とキースが似ていると由香は評したことがある。
その理由が今やっと分かった。

「……君は私を選んだ。そうだろう?」

目だ。
愛情という単語では片付けられないドロドロとしたものを宿した赤い瞳。
目を細め優美に笑みながら、その瞳の奥には確かに劣悪な欲望が燃えたぎっている。

「……降ろしてください」

由香の言葉を無視して階段を上りきり、キースは自室へと歩き出す。

「キースさん!」

キースは不気味に微笑み、由香をベッドに横たえさせると由香の手首を押さえ付けた。

「君の兄の心情は理解しているつもりだ。だからこそ、君を青桐叶夜の元に行かせる訳には行かない」

横たわる由香を見下ろしながら、キースは淡々と口にする。

「吸血鬼っていう生き物は、由香が思っている以上に……飢えているんだよ」

片手で由香の手首を押さえつけたまま、もう片方の腕でワイシャツの首元を緩め始めたキースに、本格的に由香の中に危機感が芽生え始める。
まずい。これは非常にまずい。
だが、由香の焦りを知ってか知らずか、キースは性急に事を進めようとする。
キースが赤い目を輝かせながらぞっとする程の無表情で言い切るのと、由香がキースに無理矢理唇を塞がれるのはほぼ同時だった。

「ん……っ!?」

唇を舌でなぞり、無理矢理に口の中に押し入っていく。
空いた片方の手で胸を揉みしだきながら、官能を引き出すように由香の歯列を舌でなぞっていく。
時折少女の喉の奥から漏れ出るか細い嬌声すらも飲み込み、由香の息が絶え絶えになった頃、ようやくキースは口付けを中断した。

「由香が覚悟できるまで、何年でも待つつもりだったけれど、状況が変わった」

はぁと吐息を漏らし、喉元を誘惑的に上下させるキースに、堪らず目を逸らせば、許さないとばかりにちぅと軽く顕になった肩に口付けが落ちる。

「待ってくださ……!」

「……君は、あまりにも忘れている事が多過ぎる」

「え……?」

下を向いたまま意味深にぼそりと零された言葉に問い返すも、これ以上何も言うまいとばかりに再開される口付けの雨に、由香はなんとか逃れようと身をよじる。
早く叶夜を追わなければ、そう思うのに心とは反対に身体は言う事を聞かない。
ろくな抵抗になっていないことは目に見えて明らかだった。

「キー……スさ……ん……ぁ……!?」

顔を背け、抗議の言葉を上げる。
それが男を煽るだけの行為だとしても、何もせずにはいられなかった。
こんなのは嫌だった。
生暖かい舌の感触は首筋を上に向かい、やがて耳にまで達する。
生々しい舐めあげられる感触と水音が直に脳天に響き、由香は堪らず声を上げていた。

「ひ……ぁ!?……やぁ……!め……て!くだ……さ……ふぅ……っ!……い!」

いやいやと何度も頭を降るが責め苦は終わる兆しがない。

「キースさん!!」

幾度名を呼んだのか分からない。何度目かの呼び掛けに、ようやくキースは腕を止めた。

「ねえ、由香。……どうしても青桐叶夜を追いたいというのなら……今、この場で私の花嫁になって?」

そうして、微笑みながらどこまでも残酷な事を言ってのけた。
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