夜道に潜む獣
ーーーーーーーーーーーーーーー
(……たく、あのハゲ)

よれたスーツに、寝不足による隠しきれない目の下のくま、ストレスから額には皺を数本浮かべた男は、上司に対してチッと舌打ちをしながら、帰路を急いでいた。
都心の会社から電車とバスを乗り継ぎ、この日暮町にようやく辿り着いた時にはとうに十二時を越していた。

家に帰ってもどうせ、誰もいやしない。
四十代も半ばに差し掛かり、両親も最早結婚しろとうるさく言わなくなった。
上司はただの飲んだくれのろくでなし。
生きていたって何も楽しい事なんてありゃしないと、眉間の皺をほぐしながら、苛立ちを込めて一歩また一歩と足早に誰もいない夜道を進む。
電灯の微かな灯りだけが、不気味にあたりを灯している。
バチバチと電球に羽虫が当たる音が時折耳障りに男の鼓膜を揺らしていた。

ふと、遠くを見れば向こうの電灯の下に人が立っている。
疲れた目を凝らすと、それは一人の男だった。グレーのカーディガンにやや緑がかった短髪がやけに印象的だった。
下を向いた男に蛍光灯の光が当たり、暗い影が伸びる。男は年若いように見えた。
こんな夜中にひとり何をしているのだろうか。
老婆心から声をかけようと、彼は男の方へと歩を進める。

「……おい、兄ちゃん」

答えはない。
ただ下を向き、その場に棒立ちになっている。

「こんな時間になにしてんだ。っておい、聞いてんのか!?」

そうして、後一歩で男の肩に腕が届くというところで、ゆらりと男は顔を上げた。
男が赤い目をその目に映すのと、青年の片腕が男の心の臓を貫くのはほぼ同時だった。

叫びを上げる暇もなかった。
地面におびただしい量の血が飛び散り、一面が赤に染まる。
小さく声を上げ、男は青年の腕が引き抜かれるのと同時にその場に倒れ込んだ。
青年は、べしゃっという音を立て、血だまりの中へと無言で倒れ込んだ男を見据えると、自身もその場にしゃがみこんだ。

そうして、男の首筋に鋭い牙を埋め込み、血を啜りだす。

足りない。
まだ、足りない。

青年は血を飲み続けた。それは、男の体が最早、人としての形を保てなくなり、ただの塵となって消え去るまで続いた。
全身にベッタリと着いた返り血を拭いもせず、男は静かに男の身体があった場所の血痕を眺めていた。

そこに罪悪感というものは存在しなかった。
青年にとって、これはただの捕食行為に過ぎなかった。

足りない。
足りない。
もっと血を。
赤い目が貪欲に輝きを増す。
こんなものでは足りない。
腕に残る男の血を舐め取りながら、思い馳せるのはたった一人。
飢える、乾く、不味い、満たされない。
満たされないが故に求め続ける。
それでも目当てのものは手に入らない。
ただ飢えていた。無差別に人を殺し、血を飲まずにはいられない程には、男は血に飢えていた。

ああ、欲しい。
あれが欲しい。
あれは、あれは、こんなものではない。
もっと芳醇で甘美で。
背筋に走る甘美な震えに口に弧を描き、己の妹の名を呼ぶと、男はおもむろに口元の血を舐めとった。

嫌だやめてと羞恥と痛みに顔を歪めながら必死に抵抗し、乱れた衣服の間からは何色にも染められていない、純真無垢な白い肌が覗く。
記憶の中の涙混じりの声に何度も何度も悶え、男としての欲を刺激された。
清らかで、穢れたもの等何も知らない聖女そのものの体が、己の欲望に満ちた酷く濁った穢らわしい色に染め上げられるのを想像するだけで、沸き上がってくる熱を止める事が出来ない。

ああ、欲しい。
欲しい。
早く欲しい。
早く早く早く早く早く早く早く。

声を上げながら肩を不気味に揺らし、にぃと口角を更に釣り上げる。
次なる獲物を求め、青年はゆらり、ゆらりと夜の街へと歩を進める。

そうしてまた一匹、餌を殺した。


≪back | next≫
- 59 -


目次へ


よろしければ、クリックして投票にご協力ください。
 



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -