終わりの始まり
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今現在、由香は遥かに高い場所から先程まで自分達がいた水族館を眺めていた。
現在の時刻は夕方の6時。
薄いエンジ色の空が広がり、街が薄い朱に染まる頃。
あの道路を真っ直ぐ行けば日暮町なのだろうな、とどこかぼんやりとした頭で考えながら、由香はちらりと逸らしていた視線を前方に戻した。

眼前には窓枠に肘を乗せ、どこか気だるそうに窓の外に広がる夕焼けを眩しそうに眺める横顔がある。
周りに人の目がない、という事で、現在今日一日ずっと掛けられていた黒縁のメガネは、今はキースの上着の内ポケットに仕舞われている。

キースに渡されたチケットは、水族館に併設されている観覧車の乗車券だった。
最初は由香も恥ずかしいと渋ったのだが、どうも押しには弱く、キースの有無を言わせぬ笑顔に押し切られてしまった。

そうして現在。
由香とキースはゴンドラという密室の中向かい合って腰掛けていた。
お互いに何を話すでもなく、ただただ観覧車の金属部が軋む音だけが静かに響き渡る。

「今日は楽しかった?」

観覧車が動き始めて三分程経った頃、おもむろにキースが口を開いた。

「は、はい……。あの、今日は誘って頂きありがとうございました」

実際に楽しかった。嘘はついていない。
初めて見るものばかりで、テレビで見るだけだった生き物を生で見られた、というのは何とも高揚するものがあった。

横にいるキースの存在に、見学どころの騒ぎではない事もしばしばあったが、それを差し引きしても、充分な収穫といえるだろう。

キースには感謝している。
わざわざ下調べまでして、由香の為に計画を練ってくれたのだ。
その思いを踏み躙ることはしたくない。

「いいんだよ。これは……そうだね、私の自己満足みたいなものだから」

夕日に照らされる横顔が淋し気に笑う。

「由香はよく、自分の事を子供みたいだと評するけれど、実際は、私の方が子供だよ」

「そんな事ないですよ。キースさんは大人です」

そう庇うように評すれば、どこか自嘲気味に笑う。
ふと、赤い目と真正面から視線がかち合う。

「……由香は、吸血鬼の花嫁という言葉を知っている?」

至極真面目に放たれた言葉に、ああ、やっぱりな、とどこか冷静に考える自分がいた。
その話は避けては通れないものと分かっていた。キースから言われるまでは何も考えないでいようと思っていたが、それももう終わりだ。

由香は選ばなければならない。
何を選び、何を切り捨てるのか。
胸に深々と杭を打ち込まれた気がした。

この話をするために、おそらくキースは由香を観覧車に誘ったのであろう。
じっくりと、話し合う機会が必要と、キースはそう判断したらしい。

「……何となくは」

「あのハンターの少年から聞いた?」

「ハンターだって知って……」

「銀の弾丸なんて、そう簡単に手に入るものじゃないからね。それで、どこまで説明してもらったの?」

「その……吸血鬼にその……思い思われ……その……えっと」

言えない。純潔を捧げるなんて単語この人の前で言える訳が無い。
真っ赤になり黙りこくっていると、静かに肩を叩かれた。

「だいたいは分かったよ。だから、それ以上は言わなくていい」

「ご、ごめんなさい」

「謝る事はないよ。当然の反応だ。……なかなか、その……際どい話になってしまうのは避けられないから。……吸血鬼の花嫁は、相手の吸血鬼からしか吸血を受け付けなくなる……と言うのも聞いた?」

「は、はい……」

由香が頷いたのを確認し、キースは複雑な表情で頷く。

「由香」

「はい」

真剣な声に下げていた顔を上げると、赤く輝く真っ直ぐな眼差しと視線が合う。

「私は由香が好きだ」

一切の躊躇いを感じさせない、清々しいほどに真っ直ぐな告白だった。
跳ねる鼓動を必死に抑え、生唾を呑む。

「出来る事なら、これからも一緒に出掛けたり、普通の恋人のように過ごしたいと思っている。……そうして、付き合う事になれば、何年先になるかは分からないけれど、いつかは由香を抱く日が来るだろうし、正直に言ってしまうとそれを望んでいる」

はっきりと、キースは清々しいまでに言い切った。
下世話な話ではあるが、それが、キースなりの由香に対する誠意なのだろう。

「わ、私にとってキースさんは、出会ってからまだ二ヶ月も経っていない人です」

拙い言葉を必死に紡ぎ出し、由香は膝の上で握り締めている腕に力を込めた。

「キースさんは、昔の事をちゃんと覚えてくれているのに、私は過去に何があったか全く分からなくて……」

こんがらがった頭に鞭打ち、なんとか考えをまとめ上げる。
色々な事がごちゃごちゃになっていた。
ロザリアの事、キャロラインの事、和真の事、そしてなにより兄の事。
何が正しくて何がいけないことなのか分からなくなる。
変わろうとしても、結局周りを振り回すことしか出来なくて、迷惑を掛けてばかりで何をすれば最善なのか、冷静に考えられない。

「軽い気持ちで、じゅ、純潔を捧げる事なんて出来なくて、さ、先の事なんて全然分からなくて……わ、私は……私は……っ!」

「由香」

みっともなく涙を流し、顔をくしゃくしゃにしながら半ば叫ぶように声を発していると、穏やかな声が耳を打つ。
泣きながら顔を上げれば、優しい困り顔にぶつかる。
いつも困らせてばかりだ。振り回してばかりだ。
それでも呆れずにいてくれる。
ただ黙って横にあろうとしてくれる。

「今の、由香の気持ちが聞きたい」

「……好きです。私はキースさんがーー」

その先は声にならなかった。
何事かと目を大きく見開けば、目と鼻の先にキースの顔がある。
右頬に柔らかく添えられた腕、閉じられた瞼。
今まで、何度も手のひらや額に口付けを落とされてきた。その度に顔を真っ赤にしては全速力でキースから逃げてきた。
何度も何度も、法要や接触を求められてきたが、それでも唇に口付けをされた事は一度もなかった。
一度未遂に終わった事はあるが、それきりだ。
それきり本当に、頑なに唇にだけは触れてこようとしなかった。

それが、このタイミングで。

触れるだけの軽いもの。
子供騙しの軽いものの筈なのに、かつてない程に頬は赤く染まり、心臓は破裂寸前だ。

「……その気持ちが聞けただけで、私は嬉しいよ」

何事もなかったかのように向かい合った状態で座り、幸福そうに笑う。

「……キースさんは、ずるいと思います」

顔を見るのすら恥ずかしくて、顔を背け唇を抑えながら赤い顔で下を向く。

「そうだね」

悪戯っ子のように笑う顔が、心底憎たらしく感じる。
赤くなりながら睨みつけても説得力は皆無だが。

「そう怒らなくても、ほら」

おもむろに買物袋をあさり、先程由香に渡そうとしていたあのジンベエザメの人形を取り出して見せる。

「これでも見て機嫌を」

「こ、子供扱いしないでください!」

反射的にキースの顔を見てツッコミを入れてしまう。
音を立てて合った視線に羞恥心は一気に限界突破する。ボン、という音を立て蒸気の沸き上がる頭に、キースは腹を抱え心底愉快だといった具合に笑う。

「キースさん!」

「あまりに可愛いからつい」

咎めても悪びれる気は全くない。
そうこうするうちに、観覧車も一周し、下に着いた。

何となくむしゃくしゃしたので、腹いせに荷物持ちは任せてしまえと最低限の荷物だけを片手にゴンドラを降りる。
と、背後から再びメガネを掛けたキースが、荷物持ちなどなんのその、幸せオーラを醸し出しにやけ顔で軽々と荷物を持ち、ゴンドラを降りてくる。

それが妙に恥ずかしくて、

「やっぱり荷物持ちます……」

と咄嗟に言ってみるのだが、キースは聞き耳を持たない。

「か弱い由香にそんな事はさせられない」

と言い張り、結局日暮町に着くまで嬉々としてキースは荷物持ちをやってのけてみせた。

山道を歩く事数十分。
ようやく辿りついたルフラン邸に、やっと帰ってきたんだという実感が湧く。
時刻は夜の七時。
夜の山の中は暗いが、夏場という事もあり、まだほんの少し空は明るく、これなら一人でも港家まで辿り着けそうだ。

「あの、なんだかすみません……その、荷物持ちをさせてしまって」

「気にする事はないよ。私が好きでやっているのだから。一人で家まで運べる?……なんなら、家まで持っていくけれど」

嬉しい申し出だが、それは流石に申し訳ない。
それに。

脳裏に笑顔で見送ってくれた兄の姿が浮かぶ。
兄に今回の事を知られるのはまずいのだ。

「あの、キースさん」

自分の買った物の中から、キースへのお礼にと買ったジンベエザメのストラップを手渡す。

「今日はその、ありがとうございました」

結局貰う事になってしまったジンベエザメの人形に比べれば小さく値段も安価だが、キースの琴線には触れたようで、

「……こちらこそ、ありがとう」

キースは目を細め、温和に微笑んだ。

出来る事なら、ロザリアとキャロラインにも手渡しで土産を渡したいのだが、生憎そろそろ山を出なければ足元が危ない。
仕方なしにキースに二人分の土産の袋を手渡し、後は任せることにした。

「それじゃあ、気をつけて」

「はい」

「また、気が向いたら遊びにおいで」

「……ありがとうございます」

そう言って礼をし、山を降りようとすると、ふいに腕を掴まれた。

「キースさん……?」

振り返った所にいたキースは、先程までの惚けた雰囲気はどこへやら、至って真面目な顔で由香を捉えていた。

「由香、もしもの時は私の名前を呼んで欲しい」

「キースさん……?」

「……おまじないみたいなものだよ。引き止めてすまないね。……今日は楽しかったよ。……気をつけて」

「……はい、私も今日はとても楽しかったです」

笑顔で手を振り、急ぎ足で山を降りる。
すぐに見える港家に安堵するも、どこか普段とは様子がおかしい事に気付く。

いつもなら、茜が晩御飯の支度をしており、美味しそうな匂いが漏れ出ている筈なのだ。
なのに、何故か今の港家には灯りがついていない。

嫌な予感が脳裏を掠める。
それを、払拭するように駆け足で港家の玄関先に向かい急いで扉に手を掛ける。

(開いて……る……?)

中からは一切の光が漏れ出ていない。
開いた扉の隙間から見えるのは一面の闇だけだ。どくんどくんと激しく鼓動は脈打っている。とにかくリビングに行ってみようと、暗い家の中を荷物片手に二階へ上がる。

「伯母さん……?お兄ちゃん……?」

恐る恐る声を発しながら、忍び足で階段を上がる。自分のたてる微かな音にすら怯える真っ暗闇の中、突然に響き渡ったのは電話の音だった。

「ひっ……!?」

思わず荷物を廊下に落とし、二階の廊下に設置されている電話機を凝視する。
プルルルル、と何度も何度も由香を責め立てるように鳴り続ける音に、気味の悪い感覚が背を伝い、鳥肌が立つ。

もしかしたら、茜からの電話だろうか。
だとしたら、これは由香に対しての電話だ。
ならば出なければならない。
でも、もし違ったら?

ドクンドクンという鼓動を必死に抑え、倒れそうになるのをなんとか我慢し、由香は一歩二歩と、暗闇の中光る白い電話に近付き手を伸ばした。

「は、はい。み、港です」

「おい由香か!?」

震える声に答えたのは、由香と同じく上擦り、焦ったような和真の声だった。

「今すぐその場を離れろ!!」

妙に切羽詰った様子の和真に、嫌に高鳴り続ける鼓動が最高潮に達する。

「何……を……」

「あーもういい!!詳しい話は後でしてやるからいいからそこから離れろ!!」

その時唐突に、背後に熱を感じた。
抱きしめる力は弱く、いとも容易く解いてしまえそうだ。それなのに、抗おうという気が起きなかった。
抗わなければいけない。このままではいけない。そう思いはするが、体は言う事を聞かない。
あまりの事に声を上げることも出来ず、恐怖で動けなかった。
するりと、いつの間にか自然な動作で手のひらから受話器をかすめ取られていた。

「聞いてんのか!?おい!!由香!!」

「もしもし、由香の事なら心配いらないから、ゆっくりしてくればいいよ。……じゃあね」

一方的に宣言し、無情にも叶夜は受話器を置いた。

「おかえり、由香」

何も言葉を発せなかった。
叶夜はただ、穏やかだった。
背後から柔らかく由香の肩に手を回す。
少し動くだけできっと振りほどける。
だか、動けない。ただ棒のように立ち尽くす事しか出来なかった。

「今日は楽しかった?」

どうすればいい。
どうしたらいい。
暗い家の中二人きり。
どういう訳か茜も可奈もいない。和真と、頼みの綱の嘉隆もいない。

「流石に無視は傷つくかな……」

あははは、と声を上げて笑って見せる。
だが、目は笑っていない。
空寒い笑顔に体に震えが走る。
何か言わなければ。でも何を言えばいい。

「前に言ったよね。……許すのは最後だからって」

「お……兄ちゃ……」

「絶対に、許さない」

笑顔で言われた言葉にぞっとする。
言い切り、叶夜は軽々と由香を持ち上げた。
そのまま無言で由香を三階に運び、吹っ切れたような顔をして由香を自室のベッドに乱雑に放り投げる。

「ねぇ由香、そんなにキース・ルフランが好き?」

「なんで……」

その名前を兄が知っている筈がない。
出会った事もなければ、由香から話した事もない。
なのにどうしてその名を知っているのか。
由香の動揺を知って、叶夜は心底愉快だといった具合に顔を歪める。

「僕が何も知らないと思っていた?……全部、知ってるよ。由香が自分からあの吸血鬼に血を捧げたことも、今日、本当はキース・ルフランとデートしてた事も」

あの時キースに付けられた噛み跡があった場所に、口付けを落としながら、叶夜は嗤う。
嘲るように、見下すように、穢らわしいものを見るかのように。

守りたかった。
兄には何も知られたくなかった。
光の中で生きて欲しかった。

「悪い子」

耳元で喉の奥を震わせ囁く。

「駄目じゃないか、他の男に媚を売って」

由香のワンピースのボタンを外しながら、いつもの良く知る兄の顔で笑って見せる。

「ここに、傷を付けていいのは僕だけだって、何度も教えてきた筈なのに」

消毒するように、執拗に首筋に舌を這わせる。
明らかに兄が妹にする行為の範疇を超えている。こんな事望んでいない。
抵抗を試みようとするのだが、不思議な事に全く体が言う事を聞かない。
ふと、叶夜と目が合った。
そうして、絶句した。
違う。有り得ない。
勘違いだと言ってくれ。
そう思うのに


「だって由香は、僕の花嫁なんだから」


叶夜の目は、眼鏡越しに確かに赤く輝いていた。
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