子供扱い
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バスを降り、真っ先に感じたのは肌を撫でる心地よい海風だった。
バス通りから一歩視線を逸らせば、一面に広がる果てを感じさせない海。
潮の香りがあたりを包み込み、注ぐ日差しに気分は爽快だ。
「わぁ……」
初めて見る生の海に思わず感嘆の声を漏らすと、背後から喉を震わす低い声が聞こえてくる。
はた、とはしゃぎ過ぎたと恐る恐る振り返れば、心底幸せそうな笑い顔とぶつかる。
頬を赤らめ体を固くし、居た堪れなくなって前を向く。
「す、すみません……」
「どうして謝るの?」
「一人だけはしゃいで、こ、子供みたい……じゃないですか」
海風にたなびく髪を抑えながら、愚痴のような言葉を風の音にかき消されてしまいそうな声量で呟く。
きっと聞こえてはいないだろうと高を括っていたのだが、いつのまにか由香の横に立っていたその人は、穏やかに笑いながらおもむろに由香の頭の上にそっと片手を乗せた。
慰めているつもりなのか、それとも単に気まぐれを起こしての行動なのかは定かではないが、一人だけ妙にキースを意識してしまっているのが恥ずかしくて、由香は咄嗟に腕を振り払っていた。
そんな少女の所作に気分を悪くするでもなく、むしろ上機嫌なキースは、おもむろに片手を差し出した。
休日の水族館付近に、人がまばらな訳もなく、なんだかバカップルみたいじゃないかと、しばし躊躇っていたのだが、キースが引き下がる訳でもなく、由香は顔を真っ赤にしながらキースの腕に自身のそれを重ねた。
「少し待っていてもらってもいい?」
水族館までの道すがら。
徐々に人も増えていき、由香が周囲からの目線にびくびくと怯え始めた頃。
観光客やカップル向けなのか、通りには様々な店が門を構えている。
その中の一つを指さし、キースはタイミングを見計らったかのように、そんな事を口に出した。
「は、はい。だ、大丈夫です……」
「ありがとう」
微笑み、名残惜しそうに結ばれていた腕を解き、店の中に入ること五分強。
予想外に早いキースの行動に、早かったですねと声を掛けようとして、ふとキースの長身を見上げ、はた、と視線が一点で止まった。驚きに目を見開いてしまう。
「……やっぱり似合わない?」
残念そうに視線を下げため息を吐いたキースを必死でフォローしようと、由香はがむしゃらに口を動かした。
「いえいえ!に、似合ってますよ!?で、でもその……どうして眼鏡……なんですか?」
店から出てきたキースが掛けていたのは、どこからどう見ても眼鏡だった。
服に合わせて選んだのか、掛けられている黒縁の眼鏡はよく見れば度が入っていないように見える。
「対策を考える……と、言っただろう?」
「あ……」
そういえば、ここに来る前に人目を集めることを気にしていた時、そんな事を言っていた気がする。
「あの、でもどうして眼鏡を……」
「歩きながらでも構わない?」
「だ、大丈夫です……けど……」
「今に分かるよ」
強引に繋がれた腕と上機嫌そうな横顔に、混乱する思考をなんとかまとめ上げ、キースに手を引かれるまま歩く。
するとどうだろう。
確かに人目は集める。
それは、吸血鬼云々を抜きにしても素のキースが標準よりも遙かに上のルックスをしているから仕方のないことだ。
多少は人目を引いてしまう。だが、ここに来る前の、妖怪じみた異常な注目は浴びなくなっていた。
どういうことかとキースを伺い見れば
「本当はサングラスの方が効果があるんだけどね。デート中にサングラスはいただけないと思ってね」
と、悪戯っ子のように笑う目と視線が合う。
「あの、でも、これってどういう……」
「私が……というより、吸血鬼が人目をやたらに引き寄せてしまう理由は、この目なんだよ。勿論容姿のせいもあるだろうけれど、それにしては人目を引き付けすぎると思わなかった?」
「そ、それは確かに……そう ……かもしれませんけど」
「私たちは基本的に最低週に一度は血を吸わなければならない。吸血鬼としての能力を使ったり……例えば、人外の速度で傷を治したりだとか、マインドコントロールをしたりだとか、そういう『人間としてあり得ないこと』をすればするほど、血を飲まなければならない量と頻度は増す。だからこの容姿は餌となるものを効率的に引き寄せるように出来ている。」
人の流れに流されるまま、歩き続けるさなか。
キースは淡々と事実だけを語り続ける。
「人目を異常に引いてしまうのは、大体はこの目のせいでね。しかも私は特にひどいみたいでね、もう慣れてしまったけれど、裸眼だと普通に歩いているだけでもあんな状態になってしまう」
「だから、眼鏡なんですか ?」
「そう。直接目を晒していなければ、かなり効果は落ちる。プラスチックのレンズ一枚隔てるだけでも、案外変わるものなんだよ」
「へぇ……そうなんですか」
素直に感嘆してしまう。
「そんなことよりほら、見えたよ」
指さされた方向を必死に背伸びをしながら見れば、バスに乗っているときに見えた様々な生き物がペイントされた大きな建物が目に映る。見れば、近くに観覧車もある。
さらには土産物屋と小さなショッピングモールが一緒になっており、かなり大型のレジャー施設のようだ。
「楽しみ?」
「はい!……あ」
威勢よく笑顔で返事をしてしまったのが恥ずかしくて口元を片手で覆いキースから顔を背ければ、背後から喉元を震わす音が聞こえてくる。
この人の横にいると、自分がひどく子供っぽく思えて自己嫌悪に浸りたくなる。
だが、キースは気にした素振りも見せず、ひどく上機嫌に入場チケットを買いに券売機に歩を進める。
そうして、由香が止めるよりも早くお札を投入し、二人分のチケットを買ってしまった。
「キースさん!それは流石に申し訳な――!!」
「それぐらいの経済力はある。……ああ、心配しなくても、真っ当な手段で稼いだお金だから大丈夫だよ」
真っ当な手段、以外でどうやって稼ぐのか。
そっちの方を聞いてみたくなったが、恐ろしい答えしか返ってこないような気がして由香は口を噤んだ。
「……すみません。ご、ご飯は奢ります」
あまり物欲はある方ではないし、茜から叶夜の目を盗んで支給されていた小遣いはそこそこ余裕がある。
むしろこっちが奢るくらいの意気込みで来たというのに、まさかこんな状態になるとは。
「大人をなめない」
「……絶対……こ、子供扱いしてますよね」
「子供ならデートに誘ったりはしないよ。私は、由香を真っ当なレディとして扱っているつもりだよ?」
(凄く上手い具合にかわされてる気がする……)
イケメンスマイル恐るべし。
その笑顔の裏になにかどす黒い有無を言わせぬものを見た気がして、反論するとろくなことにならないな、と由香はそっと口に蓋をした。
「楽しんできてくださいねー!」
もぎりの女性にチケットを切られ、笑顔で見送られながら、二人はようやく水族館のゲートをくぐった。
まず最初に目に入ったのは巨大なトンネル状のアクアゲートだった。
頭上を飛ぶように泳いでいく初めて見る本物のエイに、由香のテンションは早くも最高潮に達していた。
「キースさん本物ですよ!本物!」
子供のように外聞など気にも留めず一心不乱に水槽にへばりつき、無心に泳ぐ魚達を見詰める。
「そうだね」
失笑交じりに頷くキースの言葉も上の空。
「まだまだ先は長いよ」
由香よりは幾分冷静に、むしろ、魚より楽しんでいる由香を見て楽しんでいるらしいキースは、はしゃぐ由香をどこか窘めるように穏やかに言葉を零す。
「そ、そうですね……!」
申し訳なさそうに、照れながら水槽から手を放しキースを見上げる目は興奮しているのか、珍しく息も荒くなりきらきら輝いている。
「す、すみません私だけはしゃいじゃってその……」
「クロガネウシバナトビエイ」
「えっ……」
唐突にキースの口から飛び出した謎の生き物の名称に、何度か目を瞬かせていると、つい、とキースの指が水槽の横に張られているパネルを指さした。
そこには由香が先程から夢中になって眺めている生き物の写真と共に「クロガネウシバナトビエイ」と確かに書かれており、その下に長々と解説文が続いていた。
「あのでも、今キースさん……」
確かに、キースはまっすぐに水槽の中の生き物を見詰めながら呟いた。
つまるところ
「あっちの魚はヒフキアイゴ。夜になると体の色が黄色から、茶と黄のまだらに変化する。それと、そこにいる赤いのはサクラダイ。オスとメスで色が違うから、あれはたぶんオスかな」
「凄いですキースさん!」
「ただの図鑑からの受け売りだ」
「でも凄いです!キースさん大好きです!」
ロザリアがこの場にいたとすれば、「かっこつけてんじゃないわよ、この若造」と鼻で笑われそうだと思いながら、キースは純粋に喜ぶ由香を堪能していた。
正直な事を言えば、吸血鬼は基本的に一度見れば忘れない。パラパラと本をめくっているだけで知識は吸収できるため、由香を喜ばせようと予備知識の一つや二つ入れておくか、という軽い好奇心だったのだが、ここまで喜ばれると、キースの方が逆にびっくりしてしまう。
それにしても、この場で「大好きです」等と言われても正直あまり喜べないなと苦笑を漏らし、キースは落ち着かず目を輝かせる由香をなだめながら次へと歩を進めた。
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