縮まる距離
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それからの日々は、恐ろしいほどに平穏に過ぎて行った。文字通り恐ろしいほどに。
叶夜の可奈に対する扱いは依然として冷たいまま。甘い雰囲気など微塵も感じさせないそれに、和真は何度も可奈を諭そうとしていたが、彼女は聞く耳を持たなかった。
学校への叶夜の迎が終わることもなく、叶夜はただいつもと変わらず由香の側にあろうとした。
それとなく拒もうとすれば、逆に縮まる距離にどうする事も出来ず、由香はただ黙っている事しか出来なかった。
唯一変わった事といえば、由香の高校で叶夜の存在がいつの間にか無視出来ない程には濃くなっていた事だろうか。
千尋曰く、青桐叶夜ファンクラブなるものがあるらしく、かなり影ではもてているらしい。
キースがいた時とよく似た現象。キースの存在を上塗りしていくかのような所業が、どこか薄気味悪く写った。
そうして、訪れた日曜日。
約束の日であり、記念すべき由香の初めてのデートの日でもある。
特に待ち合わせ時間は指定されなかったので、由香の好きな時においで、という意味なのだろうが、早いに越したことはない。
それにしても、やっぱり学校のある日と同じように、6時起きは早すぎただろうかと、由香は自室のクローゼットと睨み合いを始めた。
しかし、いざ服を決めようと選び始めて三十分たっても、なかなか決まらない。
これならいいのではないか、と思って手に取った気に入りの、袖口と裾にレースのあしらわれた水色のワンピースも、いざ着てみれば子供っぽすぎるように思えて、キースと横に並んで歩くには不相応じゃないだろうかと、鏡の中の自分に溜め息を吐く。
唯一幸いだったのは、首筋の傷が塞がった事くらいだろう。
恐る恐る絆創膏を剥がせば、元通り綺麗になった肌が目に入る。
二人分の噛み跡等見当たらず、至って正常なそれに、何処か安堵するのと同時に、予想外に早い傷の治りに驚いた。
やはり、吸血鬼の噛み跡というのは何処か特殊なもののようだ。
「由香姉ー!どうー?進歩の方はっ!」
「ひっ!?」
突然開かれた扉に素っ頓狂な声を上げ、声の聞こえた方へ振り返る。真っ赤になり震えながら口を開くも、返ってきたのは苦笑いだった。
「……か、可奈ちゃん!ど、どどど、どうしたの!?こんな早くに!?」
「こんな早くにって……もう七時なんだけど」
「服ごときで何をそんなに悩んでんだよ。別に今着てるその服でいいだろ」
可奈の背後からひょっこり顔を覗かせた長身は、由香の姿を目に写すと鼻で笑ってみせた。
「何その投げやりなアドバイス。いい、兄さん。デートっていうのはね、女の子にとってすっごく大事な日なの。分かる?……ああ、兄さんには分からないか。デリカシーないもんね」
可奈は、呆れたようにわざとらしく腕を上げ、やれやれと頭を左右に振ってみせた。
あからさまに馬鹿にしているそれに、和真の額に青筋が浮かんだ。
「お前な……」
「じゃあ今の由香姉を褒めてみてよ」
「はぁ!?なんで俺が」
「いいから褒・め・て」
褒めて、の部分をやたらと強調し、可奈はあきれ顔の和真に詰め寄った。
あまりの気迫に根負けしたのか、和真は渋々といった具合に由香に視線を向けた。
「まぁその……悪くはないんじゃないか」
「兄さん?」
可奈のドスの効いた声に、和真の眉間の皺が増す。そうして、躊躇いがちに口を開く。
「ま」
「ま?」
「馬子にも衣装」
「兄さぁぁぁぁん?」
眉間に皺を作り、可奈は力いっぱい和真の両頬を引っ張った。
「ひっへぇ!!ほい!ほれはめろ!ギブギブギブ!」
口を遠慮なく伸ばされている為、呂律が回っておらずなかなかに間抜けな絵面だ。
暫くはそのままだったが、流石に我慢が限界に達っしたのか、和真は力一杯可奈の手を振り払った。
「全くもう。兄さん、本当に褒め方が下手くそなんだから。もうちょっとデリカシーとか、女心を理解したらぁ?」
口元に手を当て、邪悪に微笑んで見せる様はさながら、薬鍋をかき混ぜる魔女の顔。
ピキピキっと、和真の額に浮かぶ青筋の本数が音を立てて増えた気がした。
「可奈ちゃんもうそのくらいに」
「あらあら、何の騒ぎ?」
止めようとしたところに、ひょっこり開け放たれたままだった扉から顔を出したのは、意味深な笑みを湛えた茜だった。
「由香ちゃんそんなにお洒落しちゃって!……もしかして、デートぉ?もう!水臭いじゃない!私にも言ってくれればよかったのに……」
「伯母さん……」
茹で蛸のように顔を赤くしながら反論するも、茜は飄々としている。
それどころか、ニヤニヤと実に楽しそうだ。
「デート、楽しんでね!」
「伯母さん!」
うふふ、と意味深な笑みを最後に、場を荒らすだけ荒らして茜は去っていった。
あの人には全て筒抜けなのかと、頭を抱え、再度気を取直して鏡に向き合う。
「ほ、本当にこれでいいと思う?」
恐る恐る、背後にいる可奈に問いかけると、満面の笑みが返ってくる。
「ばっちり!もう完璧よ!大丈夫!由香姉輝いてる!」
「そう……かな?」
「そうよそうよ!さあさあ!早く朝ご飯食べよーう!」
朝からハイテンションな可奈に背を押され、リビングに向かう。
しかし、和真は微妙な表情で背後から意味深に由香を睨み付けており、似合っていないのだろうかと、非常に不安にさせられた。
食卓には既に朝食が用意されており、美味しそうな匂いが漂っていた。
「おはよう」
「お、おはよう」
朝食の用意をしながら振り返った叶夜は、由香を目に収めると温和な笑みを湛えた。
「随分お洒落してるね」
「そ、そう……かな?」
「遊びに行くだけにしては、少し、華美過ぎない?」
「妹のお洒落に口出ししてやるなよ。んな事より、飯食うぞ」
口を挟んだ和真は我が物顔で椅子に腰掛けると、我先にと用意されていたトーストに齧り付いた。
それに習い、由香と可奈と叶夜の3人も椅子に腰掛ける。
茜は既に自分の分の朝食は済ませたのか、ソファーに腰掛け朝刊を読んでいた。
服を汚さないように細心の注意を払い、手早くトーストを片付ける。
食事を終えた頃には時計は8時を指していた。
鞄片手に玄関先に向かうも、やはり早すぎるのではないのかという疑問が首をもたげる。
しかし、後ろではやし立てる可奈は嬉しそうだ。
「いよいよ行くのね!由香姉!」
「は、早すぎたりしないかな……?」
「もうっ!早いぐらいがいいんだってば!こういうのは!」
何度も可奈に問い掛けるが、返ってくるのは浮かれきった満面の笑みだけ。
苦笑いで頷き、ドアノブに手を掛ける。
今までで一番、玄関の扉を重く感じた。
「楽しんで来い」
「……ありがとう」
腕を組みながら仏頂面で掛けられた励ましの声に、ノブを掴みながら振り返り、笑顔で礼の言葉を述べる。
「由香」
呼び止める聞きなれた声に、視線を上げると階段の上から叶夜が顔を覗かせていた。
「行ってらっしゃい」
「い、行ってきます」
満面の笑みの見送りに、心が痛む。
だが、もう決めたのだ。
迷いを断ち切るように、もう由香は振り返りはしなかった。だから、背後の叶夜が由香が視線を逸らした瞬間に浮かべた、空寒い無表情には気付きもしなかった。
山の中を噛み締めるように歩いていく。
歩く事二十分弱。
見覚えのある大きな屋敷に、由香は息を呑んだ。
扉に近寄り、躊躇いがちに扉を叩く。
押し開けられた扉から顔を覗かせたのは、あの日以来となる赤毛の女だった。
「どうぞ」
彼女は特に言う事はないと言わんばかりに、由香を一瞥し、素っ気ない言葉を掛けるだけだった。
怯えながら、案内されるままに暗い廊下をキャロラインに従い歩く。その途中、反対側から歩いてくるロザリアと視線がかち合った。
彼女は由香を視界に捉えると、真っ直ぐに駆け寄ってきた。
顔に浮かぶのは子供のような純粋な笑み。
躊躇いなく由香に抱き着いてくる腕は、いつもの、由香の良く知るロザリアだった。
「今日の由香、とってもかわいい!」
可愛いのはロザリアの方だと言いたくなった。
子猫のようにじゃれつくロザリアは、本当に愛くるしい。
「ありがとう、ロザリアちゃん」
色んな感謝の言葉を込めて、由香はロザリアを抱きしめ返した。
瞬間、ロザリアが肩を強ばらせるのが伝わってきた。
だが、それも一瞬の事で。
ロザリアは由香から体を離すと、由香の両手をぎゅっと握り締め花のような笑みを咲かせた。
「由香、今日は楽しんできてね!」
「うん……ありがとう」
「どう致しまして」
微笑み返せば、心底幸せそうな笑い顔が返ってくる。ロザリアは名残惜しげに由香の手を離すと、由香が歩いてきた方向へ走り去って行った。
ふと、キャロラインに目を向けると彼女は何かもの言いたげな顔をしていた。
声をかけようかと迷って、先に口を開いたのはキャロラインの方だった。
「貴女に一つ忠告して差し上げます」
彼女の真意が分からない。
何しろ一度殺されかかった相手だ。
助言だ、等と言われても安々とは信じられない。
だが、そんな由香の思いなど無視して、キャロラインは無表情で口を開ける。
「青桐由香、貴女は誰の花嫁にもなるべきではない」
それは、キースの花嫁にはなるな、という意味と受け取ってもいいのだろうか。
真意が読めずキャロラインの赤い目を戸惑いがちに見詰めていると、
「……私も存外毒されている」
キャロラインは自虐のように皮肉げに口の端を上げた。そして彼女は、もう由香をその目に捉えようとはしなかった。
もやもやする心を抱えたまま、気付けばキースの部屋の前までやってきていた。
「では、私はこれで」
「あの……!」
去ろうとするキャロラインを、気付けば呼び止めていた。
「まだ何か?」
向けられた冷たい視線にもめげず、由香は口を開けた。
「さっきの話、その……どういう意味なんですか」
「さぁ?私にも分かりません」
それだけを言い残し、キャロラインは霧のように姿を消していた。
何が正しい事で何が間違っているのか、もう正直由香には何一つ分からない。
ただ、今出来ることは、目の前のこの扉を叩く事だけだ。
「キースさん」
ノックをすれば、中からこちらに向かってくる足音が聞こえる。
扉を開けたその人は、由香を視界に収めると喜色を全面に押し出した。
キースは由香の姿に目を見張っていたが、それは由香も同じだった。
いつもは何処の絵本の世界から抜け出してきたんだ、というような王子様のような服を纏っているのに、今日は普段着。
と、言えば聞こえはいいが、仕上がったものはテレビや雑誌に出ているモデルと比べても遜色ない、美丈夫だった。
黒のカーディガンに、白のワイシャツ。
下はすらっとしたカーディガンよりもほんの少し濃い黒色のズボン。
スーツの時も思った事だが、キースは本当に足が長い。細身でシンプルな服が非常に似合う。
赤くなる頬を隠せず、なんとキースに言おうかと迷う。先に動きを見せたのはキースの方だった。
無言で由香を強く抱きしめ、キースは恍惚に息を吐いた。
直に伝わってくる胸の鼓動に、伝わる熱に、由香は緊張から全く動けなかった。
「本当に、似合っているよ」
囁かれたそんな他愛のない一言に、これ以上染まりようがないと思っていた頬が、更に赤く赤くなっていく。
お礼の言葉を言わなければと思うのに、固まってしまって何も言えない。
こんな自分でも喜んでくれる事がたまらなく嬉しくて、でもやっぱり恥ずかしくて。
最初からこうでは、今日一日本当に持つのだろうか。主に心臓的な意味で、非常に、非常に、危険だ。
「本当に、可愛い」
「き、キースさん!」
耳元で囁かれた声に抗うようになんとか抗議の声を上げると、キースは心底愉快げに喉を鳴らす。
聞こえてくる耳心地の良い低い笑い声に、かつてないほど頬が熱くなる。
「あ、あの」
「うん」
「キ、キースさんも……に、似合ってます……」
「ありがとう。正直、似合うかどうか半信半疑だったけれど、何とかなるものだね」
由香から身体を離し、カーディガンの前裾を掴みおもむろに伸ばしてみせるその立ち姿は、半信半疑等という次元ではない。
「だ、大丈夫です……!す、す、凄く格好いいです!」
「由香にそう言ってもらえるなら、着た甲斐があるというものだよ」
柔らかな優雅な微笑に、無言で首を上下に降る。それ以外に何も反応が出来なかった。
今、自分はこの人に釣り合っているだろうか。横を歩いてもいいのだろうか。
それは許されてもいいのだろうか。
そんな心配が脳裏を掠める。
由香の複雑な心境を知ってか知らずか、キースは徐ろに由香へ手を差し伸べてみせた。
見れば、何時も着けられている手袋がなかった。
「あの」
「嗚呼、これ?」
躊躇いがちに口を開くと、キースはあっけらかんと笑って見せる。
「初めての由香とのデートに、手袋なんて無粋なものは必要ないと思ってね」
なんでもないことのように笑って見せるが、由香としては大問題だ。
いつもは手袋越し。伝わってくる熱も感触も、手袋越しだからまだ耐えられた。
それが今日は、今日に限って素肌。
(……た、耐えられるかな)
主に今も張り裂けんばかりに煩く鳴り響く心臓が。
(それに今、確かにデートって……!)
何となくデートなんだろう、と思っていた認識がキースの口から出された事により一気に現実味を帯びる。
(デート……き、き、キースさんと、デート……)
本当にこれは夢か何かではないだろうか。
乙女チックな考えが頭の中を埋め尽くし、一人悶々と考え込んでしまう。
本当に今更なのだが、恥ずかしい。物凄く恥ずかしい。
一人悶々と悩んでいると、手のひらに柔らかな熱が伝わってくる。
見ればいつの間にか強く繋がれた腕がそこにある。
すぐ近く、ほんの少し見上げた所にある微笑みがどこまでも眩しくて、気恥ずかしくて、堪らなかった。
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