変わり始める日常
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由香の母親、青桐奏(カナデ)は儚い女性だった。
姉である茜と似た雰囲気を持ちながらも、元気な彼女とは違って暗く陰鬱な雰囲気を纏う女性。

由香の記憶には、父親というものが存在しない。
兄の叶夜は、少しだけ覚えているらしいのだが、父親は、由香が生まれてすぐ、事故で死んでしまったらしい。

由香にとって、母親とは檻だった。
与えられる、行きすぎた愛情は由香を締め付ける鎖でしかなかった。

学校には行けたものの、外出は禁止されており、到底友達等出来る常態ではなかった。

叶夜は、そんな妹に同情し母親を憎んだ。

兄の叶夜に対しては、本当に実の子供に対する反応なのだろうか、と疑いたくなる程にドライだったのに対し、由香に関しては異常な程に固執していた。

「由香……私の可愛い娘……。あの人と私の……大切な子。……貴女は私を置いていかないわよね?……ねぇ……由香……っ!」

叶夜には、妹にすがるように抱きつく母親の姿は、異質に思えた。

だから、兄は由香を母親から開放しようと、度々家から由香を連れ出した。
一時的な休息。
兄と過ごす時間だけが、由香にとってたった一つの自由だった。

由香を家から連れ出す度に、叶夜はヒステリーを起こした母親に殴られ、口の端から血を流していたが、それでも、由香に一時の幸せを与え続けていた。

そんな生活が続いたある日、突然由香達の生活に変化が訪れる。

由香が学校から帰ると、兄がリビングの椅子に黙って座っていた。

無表情な兄は心なしか、疲れている様にも見えた。

「お兄ちゃん?どうしたの……?」

いつもなら、この時間に兄は大学に行っていていない筈。

由香が、びくびくと震えながら兄に問いかけると、叶夜はゆっくりと由香を見据えて静かに口を開いた。

「……母さんが、死んだ」

突然の事に、由香は目を見開くだけでなにも言えなかった。

呆然と立ち尽くす妹を見ながら、叶夜はうっすら自嘲気味な笑みを浮かた。

「他殺らしいよ。でも……母親が殺されたって状況なのに僕は悲しくもなんともない。むしろ清々してる。……薄情だよな。」

そう言った兄に、由香はなにも言えなかった。

当然の反応だろう。

母は兄を見向きもしなかったし、また、兄も母を愛していなかった。

母と兄の間には、絶対に埋められない溝があった。
自分のせいで作ってしまった、深い溝。

「ごめん……なさい……」


自分のせいで苦労した兄に、由香はただ詫びるしかなかった。

そんな由香に、叶夜は気にするなと、柔らかい笑みを返した。

「由香は謝らなくていい。……全部、悪いのは母さんだ」

にっこりと笑顔を浮かべる兄に、由香はますます申し訳なくなった。

確かに母は悪かったのかもしれない。

昔は由香も叶夜と同じく母が嫌いであり、憎んでいた。
自由に外に行くことは出来ず、小さい頃は兄以外と遊んだ記憶がない程に、母は由香を外に出したがらなかった。

由香が外に行くとき、母は決まってなにかを警戒し脅えていた。

昔は母がただ鬱陶しいだけだったが、あの事件が起きてから由香の意見は百八十度変わった。
由香は、あの事件から外の世界を恐れる様になった。
母親は、由香が外に出ない為の言い訳に丁度良かった。
母親が過保護だからと全部の責任を母に押し付けて、由香はこの七年間、現実から逃げていた。

(変わらなきゃ……変わらなきゃ駄目)

もうあの男は死んだ。だから安全な筈だ。
いつまでも誰かの後ろにいてはいけない。

もう一種の強迫観念に近かった。

「あのね、お兄ちゃん。私っ……!」

由香が口を開いたその時、ピーンポーンとチャイムの音が静寂を切り裂いた。

「はい、何方ですか……」

おんぼろなこの小さなアパートには、インターホンなるものが付いていない為、兄が直接玄関の戸を開ける。

「あら、叶ちゃん!……久しぶり、元気にしてた?」

「なっ!?」

兄がチェーンをかけたまま玄関のドアを開けると、この空気にはいささか不相応すぎる能天気な女性の声が響き渡った。

だがそれよりも、由香には女性の「叶ちゃん」という呼称が気になった。

ショックからか、遠目にも兄が固まっているのが分かる。

(き……叶ちゃん……)

そう能天気に兄を呼称をする人物を、由香は一人しか知らない。

昔、まだ由香が幼かった頃の楽しい思い出が由香の脳裏を過った。

「…茜…伯母さん……?」

朧気な記憶を頼りに、かつて由香がなついていた女性の名前を呼ぶと、外にいる女性は嬉しそうに声を弾ませた。

「そこにいるのは由香ちゃん?こんな再会になっちゃったけど……久しぶり。
ほら、叶ちゃん。ぼさっとしてないでドアを開けてちょうだい。
……由香ちゃんに会えないでしょう?」

「茜さん、僕はもう二十歳です。流石に叶ちゃんは勘弁してほしいと言うか……せめて叶夜くんにしてくれませんか」


「あら、そうだった。……ごめんなさいね、叶夜君。」

不満を述べた叶夜に、茜はすまなさそうにウィンクをしながら両手を合わせて謝った。

普通なら今年47になる女性にそんな子供っぽい仕種は似合わないのだが、不思議と茜にはそういう仕種がよく似合う。
穏やかな外見に反する楽天家で破天荒な性格も、茜の魅力を高める要素になる。

由香の母親と、似た外見をした正反対の人。
綺麗な人なのに、可愛いという形容の方が似合う不思議な女性。

久しぶりに会った茜は、最後にあった姿と寸分違わぬ外見で、叶夜と由香の名を呼んだ。

それは、由香にとって嬉しくもあったが、同時になにも変わっていないのだと、落胆させることにもなった。

そんな由香を、いつのまにか部屋に入ってきていた茜はきつく抱き締めた。

「お…ば…さん…?」

突然の苦しい程の抱擁に由香は目を見開いた。

「会いたかったわ。由香ちゃん…。辛かったわよね…?苦しかったよね…。ごめんね…。ごめんなさい…っ。」

泣きながら由香に謝罪する茜に、由香はなにも言えなかった。

(茜伯母さん、それは……何についての謝罪なの……?)

7年前のあの事件の事?
奏の殺害を防げなかった事?
それとも、みすぼらしく痩せこけ、実の親が死んでも悲しまない程に感情が薄れるまで、由香を放っておいた事に対してだろうか?


伯母の心理は由香にはわかりかねるが、叶夜には察しがついたのだろう。

叶夜は伯母の肩を叩きながら、僕も同罪ですから。と苦々しげに吐き捨てた。

「それより伯母さん、何しに来たんですか?」

「……そうね。じゃあ……本題に入りましょうか。」

叶夜の言葉に、伯母はゆっくりと由香の戒めを解き、涙を拭いながら口を開いた。

「……あのね、叶夜君、由香ちゃん。貴方達……私と一緒に暮らす気はある…?」

「え…?」

(伯母さんと……暮らす……?)

それは、由香に子供の頃の夏休みの事を思い出させた。

毎日夜中まで従兄の和真と可奈、叶夜と由香の4人で楽しく話した懐かしい記憶。
それと同時に、最後に伯母の家を訪れた時のあの事件を思い出して、由香は軽く身震いした。

「……由香、平気?」

由香の震えを感じ取った叶夜は、由香に気遣いの言葉を投げ掛けた。

「……平気。」

(ここで立ち止まったら、私は一生今のままな気がする。)

もう、いもしない何かを恐れては駄目だ。あれは過去の出来事なのだから大丈夫と、由香は心の中で自分を叱咤した。


由香は、跡が付く程きつく両手を握りしめ、はっきりと伯母の目を見詰めた。

「私は……兄さえよければ伯母さんと一緒に……暮らしたいです。」

「由香が無理する必要はない!伯母さんに頼らなくても、僕が頑張ればいいだけだ。」

思い詰めた様な由香に、叶夜は止めておけと、遠回しに告げた。

叶夜は昔から、由香に甘い。
しかしいつまでもそんな兄の優しさに甘んじて、守られているだけではいけないのだ。

(そんなのは……嫌)

「お兄ちゃんは、私の為に今までも散々苦労したじゃない。……もう、私のせいでお兄ちゃんの自由を奪いたくないから。」

(強くなりたい。…一人でも生きていける様に)

にこっと、不器用な笑顔を浮かべてそう告げた由香に、叶夜はなにも言い返せなかった。

たった一人の大切な妹、今となってはたった一人の家族。
そんなかけがえのない存在を守る事を、誰が迷惑だと思うのか。

それに、嫌なら殴られてまでも守ろうとは思わない。
頼って欲しいと思う兄の思いとは裏腹に、由香はいつでも一人で抱え込む。

兄はそんな妹がいつも心配だった。

「由香、僕は……」

「叶夜君。貴女もいい加減に妹離れしなさい」

由香を引き留めようとした叶夜を、茜は少し責めるように宥めた。

ここまでべったりだと、由香が一人立ちしようとしても、出来なくなってしまう。

「由香ちゃんが大事なのは分かるけど、ここは年上である伯母さんにまかせときなさい!」

(それが、私が出来る唯一の償いだもの)

茜の心の声が、その償うべき相手に届くことはないとしても。

茜は、妹によく似た姪っ子の頭を静かに撫でながら、自嘲気味な笑顔を浮かべた。


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