結ばれぬ糸
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「どうだった!?」

叶夜の部屋を出た瞬間、由香はタイミングの重なった対照的な男女の声に責め立てられた。
一方は心底焦り気味で心配気、もう一方の女の声は不安と歓喜がないまぜにされたかのような声だった。

「だ、大丈夫……!ちゃんと許可してもらったし、少し話をしただけだから」

焦りがちに口を開くと、二人はそれぞれに心底安心したように溜息を着いた後、可奈の方は由香の腕をぐっと両手で握り締めてきた。

もう一方、和真はそれを呆れたように黙って見守っていた。

「良かったね!由香姉!」

勿論、可奈に喜んでもらえるのは嬉しいのだが、この前掴みかかられそうになった時とは対照的な様子に、由香は困惑を隠せなかった。

可奈の方も由香のあからさまな動揺に気付いてか、はっとしたように一瞬顔をこわばらせると、眉根を下げた。

「その……この前は……ごめんね」

俯き、心底悔いる様な可奈に、責め立てる気など微塵も湧くわけもなく、由香は素直に可奈と前までのように仲良く接する事が出来るのかと思うと嬉しかった。

「……ううん。気にしてないよ」

「本当!?ほんっとうに気にしてない!?」

「……うん」

微笑み頷けば、お日様のように可奈の顔が輝く。それを見て確信する。やはり、可奈には笑顔の方が似合うなと。

由香が安堵していると、可奈は顔を赤く染め上げ、少し躊躇った後、覚悟を決めたのか真っ直ぐに由香の目を見据え、両手を握る腕に力を込め、口を開いた。

「その、由香姉。叶兄私の事何か言ってなかった?」

「可奈ちゃんの事?」

記憶の糸を辿っていくも、特にそんな話をされた記憶はない。

「特に、言ってなかったと思うけど……」

「そ、そうなんだ……」

可奈はあからさまにがっかりした様子だった。
顔には誤魔化すように笑みを浮かべ、あははと声をあげながら何度か頭を掻きむしってみせるも、落胆の色は隠せない。

「あのね、由香姉。私実は……」

「さっきから人の部屋の前で何の話?」

可奈の言葉を遮るように扉を開けて出てきたのは叶夜その人だった。
不機嫌な様子を隠しもせず、眼鏡を片手で押し上げながら溜め息をつく。
そんな他愛のない仕草も、絵になるからこの人は困ると、由香は見惚れ頬を赤く染める可奈に困り顔で視線を向けた。

「いつまでそこにいる気なのか知らないけど、世間話なら下でしなさい」

叶夜は一同、主に可奈に対し鋭い視線を向けた。
可奈の肩が異常に震えたのを、由香は見逃さなかった。
何故こうも可奈を嫌うような素振りを見せるのか、由香にはそれが分からなかった。

「悪かったな」

和真は眉根を寄せ睨み返すように叶夜に視線を送ると、一人ずかずかと階段を降りていってしまった。

「叶兄私……っ」

それでもまだこの場に留まり続けようとする可奈を、叶夜は無言で一瞥するだけだった。
何も言葉を発せず、ただ空気だけで威圧する。
それが自分に対して向けられているものではないと分かっていても、肌に感じるには彼の気迫は鋭すぎた。

可奈は歯を食いしばると、泣きそうになりながら階段を降りていってしまった。

「可奈ちゃん……!」

「由香」

それを追い掛けようとして、肩をやんわりと掴まれた。

「お……兄ちゃんは、……どうして、可奈ちゃんに冷たいの……?」

振り返る事が恐ろしくて、下を向いたまま口を開く。
いつもいつも、気にはしていたのだ。
だが、今回程ではない些末なものがほとんどだった。だから、由香もそれ程重く考えていなかった。
確かに部屋の前で騒いでしまったのは悪かったと思う。
だがそれならば、由香だって和真だって同罪の筈だ。可奈だけを責めるのはおかしいし、こうして今、由香だけを引き留めているのもおかしい。

「別に冷たくしている気はないけど、そう見える?」

返ってくる声は柔らかい。
触れる腕は優しく、肩に触れるだけだったのが高度を増し、今は由香の顔の輪郭をなぞっている。

「見え……る……」

震える声を紬だし、ぐっと強く両手を握り締める。

「わ、私……もう皆のところに……」

「ああ、引き留めてごめんね」

最後に名残惜しげに軽く唇に触れ、叶夜は由香から手を離した。
あまりの温度差に震えが走る。
兄の愛の重さなら知っている。
もしも、もしもだ。
日曜日、本当は異性と妹が会うのだと知ったなら、その時は。
絶対に許さない、と言われた言葉がこだまする。
考えかけた恐ろしい思いを必死に頭を降って否定した。
叶夜の由香への愛は家族愛だ。それ以上であってはならない。そんな事は許されない。

だが、そう考えるにはこの扱いの差はあまりにも。

背に走った震えに無視を決め込み、由香は逃げるように階段をかけ降り、港兄妹の元へ向かった。

「はぁ!?」

リビングの扉を開けて真っ先に聞いたのは和真の素っ頓狂な叫び声だった。

「いつからだ!?」

和真は入室してきた由香の存在に全く気付かず、可奈の肩を無理矢理掴むと、切羽詰った様子で何度も可奈の肩を揺すった。

「い、何時からって言うか……!その……兄さん達が買い物してる間に叶兄の方からその……こ、告白してくれたっていうか……!も、もういいでしょ!?これ以上聞いたら兄さんの事セクハラで訴えるから!」

和真の手を振り払い、可奈は顔を真っ赤にしながら扉の近くにいた由香を盾にし、彼女の兄を睨み付けた。

突然の事態に、頭がついていかなかったが、二人の掛け合いを見ているとなんとなくが読めてきた。
生まれてこの方20年、少なくとも由香の知る限りでは一度も彼女を作った事のなかったあの叶夜が、このタイミングで彼女を作った。
しかも、相手が可奈ときている。

先程までの心配は杞憂だったのだろうかと、由香は先程触れてきた兄の腕の感触を思い返し頬を赤く染める事となった。

少し、叶夜の気持ちが分かったかもしれないと、由香は一人考えるように目を伏せた。
新たな出会いは嬉しいものだが、大事な身内が離れていってしまうようで、不安な気持ちにさせられる。

だが、相手は可奈だ。
歳は些か離れている気もするが、今時歳の差婚等よくある事。
可奈ならば、付き合いも長いし、兄の事を幸せにしてくれるだろう。

「あの、可奈ちゃん」

「なんでしょう!?」

「その……お兄ちゃんの事、大事にしてあげてね」

背後の可奈を振り返りながら告げた瞬間、可奈の表情は溢れんばかりの喜色に満たされた。

「勿論!勿論大事にします!ありがとう由香姉!ありがとうーっ!」

勢い良く由香に抱き着き、可奈は何度も何度も由香の背に頬ずりを繰り返した。

そんな幸せそうな妹を、彼女の兄は腕を組み壁にもたれ、どこか複雑そうに見守っていた。

夕食の席、食卓は何とも言えない空気で満たされていた。
可奈ははしゃぎ、しきりに叶夜に話しかけるのだが、答える叶夜の声は素っ気ない。
一言二言冷たい言葉を投げると、黙々と箸を進める。
茜は特に気にした素振りを見せなかったが、昼の可奈の言葉を聞いていた和真と由香には、どうしても不自然に写った。

互いに視線を交わし、それから叶夜と可奈の様子を観察する、という所業を、食事中二人はずっと繰り広げていた。

「お兄ちゃん、その、今いい?」

寝る前に、兄の部屋の戸をノックする。
扉を開けた叶夜は相変わらずの穏やかな笑みを湛えていた。

「どうしたの?とりあえず中に」

「い、いいの……!す、すぐ済む話だから……」

「そう?……で、可愛い可愛い僕の妹は、お兄ちゃんに一体なんの御用かな?」

叶夜は悪戯に笑みくしゃりと由香の頭を撫で回した。

「お兄ちゃん!!」

「冗談冗談」

思わず真っ赤になり腕を振り払うと、心底おかしそうに声を上げて笑う。
何時もと何ら変わりない兄に安堵し、躊躇いはなくなった。

「……あのね、お兄ちゃん」

「うん」

「可奈ちゃんと、付き合う事になったって本当?」

叶夜の纏う空気があからさまに変わったのはその時だった。
あまりの視線の鋭さに目を背け、肩を震わせてしまう。
どうして可奈の事を口走った瞬間こうも責められなければならないのか分からない。
むしろ、怒りたいのは由香の方だ。
付き合う事になったのなら、教えてくれればいいものを、それをひた隠しにする意味がわからない。
由香だっておめでとう、と叶夜と可奈を祝ってやりたいのに、どうしてこうも冷たくあしらわれるのか。

「……そういえば、そんな話もあったね」

微笑み言われた言葉に思考が固まる。
付き合う事になったのだと、可奈はあんなにも嬉しそうに語っていたのに。
それを、どうしてこの人は、他愛もない事のように軽々しく扱ってみせるのか。

「その、どうして……教えてくれなかったの?」

「どうして、由香にそんな事を教える必要があるの?」

平然と言ってのける叶夜に目眩がする。

「話はそれだけ?……そんなくだらない話をしてる暇があるなら早く寝なさい」

「お兄……!」

無情にも扉は閉ざされ、声はもう届かない。
叶夜が何を考えているのか分からない。
呆然とする頭のまま、自室のベッドにダイブする。
これでは可奈が報われない。報われ無さすぎる。あんなにも優しい子にどうしてそこまで冷たく当たるのか分からない。

ふと、机の上に置いておいた和真から渡された袋が目に映る。
なんとなく開けるタイミングを逃してしまって、未だ封をされたままのそれを、立ち上がり手に取る。

(これ……)

中身は、由香にとって非常に見覚えのあるものだった。
子供の頃、由香が吸血鬼に襲われるよりもずっと昔の夏の話。
叶夜と可奈と茜の3人とはぐれ泣きじゃくる由香の為に、当時の和真の小遣いをはたいて、射的で落としてきてくれたうさぎの人形。
それとよく似た、小さなストラップだった。

どうも、彼の中では由香のイメージはうさぎで定着しているらしい。
当時着ていた茜のお下がりの着物の柄がうさぎだった、というのもあるのかもしれないが。

意識的なのか、無意識なのか。
それは分からないが、何も変わっていないものに安堵する。
何処に付けようかと迷った末、いつも目に付くであろう、筆箱のファスナーに付ける事にする。
窓から差し込む月光に照らされ、小さなうさぎはちょこんと可愛らしく机の上に鎮座している。

時は流れ移ろい変わっていくものばかりだが、変わらないものもあるのだろうかと、由香はそっと目を閉じた。



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