砕け散った鎖
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叶夜は帰り道ずっと無言だった。
由香の腕を握る腕は無遠慮で、ぎりぎりと手首が痛かった。
それを口に出して言う勇気もなく、由香はされるがままに赤くなっているであろう手首に歯を食いしばりながら、一刻も早く開放される事を切に願っていた。
「……冷静になってきちんと考えなさい」
家に着くやいなや、刺々しい口調で言い放ち、叶夜は由香を彼女の部屋に無理矢理押し込んだ。
床に崩れるように倒れた由香は、激しく音を立てて扉が閉まる間際、離された手首を抑えながら兄を見やった。
扉の隙間から微かに見えた叶夜の目は、今まで見たどんなものよりも無慈悲で残酷に見えた。
そこに普段の優しい兄の片鱗等伺えず、まるで別人になってしまったようで由香は息を呑み震え上がった。
叶夜の足音が遠ざかっても、由香はしばらくその場から動けなかった。
みっともなくカーペットに座り込み、呆然と扉を眺める。
しばらくしてから、震える体を包み込みように抱き締め、由香はきつく目を閉じた。
震えの止まらない唇をぎっと噛み、大丈夫だと自分を無理矢理安堵させる。
噛み締めた唇から微かに血が滲んでいたが、そんな事も気にならなかった。
結局迷惑を掛ける事しか出来ない自分が憎かった。
兄を楽にしてあげたい、周りに迷惑を掛けたくない。
変わりたいのだと、そう思ってした事が全て悪い方向に向かっている気がする。
確かに色々変化はあった。だか、それは由香の周囲の状況を悪化させるだけだった。
キャロラインに疎まれ、ロザリアには涙を流させた。
キースに怪我をさせ、挙句の果てに誰よりも心配させたくなかった叶夜を怒らせる結果になった。
(……無理だよ、依織ちゃん)
後悔するなら行動しろと言われたが、それでまた迷惑を掛けるのなら、何もしない事が懸命に思えた。
また叶夜を苛立たせるよりは、叶夜に従って今まで通り、兄に寄り掛かって生きた方が楽なのかもしれない。
(変わる事が、……本当にいい事なのかな)
零れ落ちる涙を必死に拭いもせず、由香は声を押し殺した。
その直後、下の階で何やら言い争っている声が聞こえた。
片方は叶夜だった。叶夜の方は穏やかに世間話をしているような声だが、相手の方は思い切り怒鳴り散らしている。
恐らくは和真だ。叶夜よりもほんの少しだけ低い声で、怯むことなく噛み付いている。
「お前は…………か!!」
「別に……でも……ない。……い……」
所々しか聞き取れなかったが、口論しているのは明らかだった。
(……二人に何も言わないで帰ってきちゃった)
不可抗力だったとはいえ、悪い事をした。
瞳を閉じた闇の中、港兄妹の姿を思い浮かべ詫びる。
しばらくすると、落ち着いたのか下からの声は聞こえなくなった。
変わりに、階段を乱暴に登る音が由香の心の中を乱した。
(だ、誰か来たっ……!)
みっともなく涙を流したせいで顔はぐちゃぐちゃだ。とてもじゃないが誰かに見せられるような状態ではない。
咄嗟に体を起こし、制服の袖で涙を拭うが、非情にも涙を拭き終わるより、トントンとノックの音が響き渡る方が先だった。
「入ってもいいか」
声の主は和真だった。
いつもの乱雑さは何処へやら、和真の声は夜の水面のように静かだった。
びくりと肩が跳ねる。目を見開き扉を無言で見詰める。
何か答えなければいけないと思うのに、何も口にする事が出来ない。
声とは到底形容できない掠れた雑音が情けなく喉から出るだけだ。
「変わりたいんじゃなかったのか」
扉の外から聞こえた、何もかも見透かしたような静かな和真の声に、ドクンと心臓が脈打った。
「いつまでも兄貴の人形でいたいのかよ」
違う。
言いなりになっている訳じゃない。
束縛されている訳じゃない。
自らの意思でここにいる。
人形なんかじゃない。
違う違う。
「ち……がう……!」
頭を抑え、見えない相手に向って叫ぶ。
違う違う違う違う違う。
「違わねーよ!お前は結局叶夜に怯えてるだけだ。兄貴っつっても所詮は他人だろ!お前を思い通りにする権限なんてねーんだよ馬鹿!!」
和真の罵声に幼い頃の記憶がフラッシュバックしてくる。
優しかった兄に心が痛む。
怯えているんじゃないと思っていた。
だが、本当は心のどこかで叶夜に対してひけ目を感じていたのだろうか。
「叶夜叶夜うるせぇよ!!お前はお前だろ。いい加減に目覚ませ!」
和真の言葉が耳に痛かった。
由香の行動理由の大半は叶夜だった。
叶夜も由香の為に行動していた。
ここに来てしばらくして、本当は勘づいていたのかもしれない。
そんな関係はおかしいと。当たり前のように感受していた甘い愛情は、裏を返せば由香の心を溶かす麻薬だったのだと。
今まで、こんな自分を本当の意味で愛してくれる人は叶夜しかいないと思っていた。
外の世界は怖くて仕方なかった。
それが、港家の人々と触れ合い、ルフラン家の住人と出会って、友達も出来た。
確かにいい事ばかりではないが、世界は思っていたよりも優しく暖かいものだと知る事が出来た。
最初は叶夜の為に変わろうと思っていた。
それを考えなくなったのはいつだったか。
「お前が今本当にしたい事はなんなんだよ」
(私が……本当にしたい事……?)
会いたい。キースに会いたい。
無性にそう思った。理由なんて分からない。
ただそうしたかった。それだけだ。
ふと、机の上の銀の十字架を見る。
これを持って行く事はきっと、キースとロザリアに対する裏切りになる。 愚かな事だと思うが、これを持っていくべきではないと思った。
由香は息を呑みこむと、震える足に力を込め、必死に立ち上がった。
「ごめんね。……ありがとう」
ゆっくりとドアノブに手を掛け、扉の外であからさまに驚いている和真に向って心の底から微笑む。
これで叶夜を怒らせる事になったとしても、由香にだって譲れないものはある。
今だって叶夜の事は大事だ。
だからこそ、前のような状態に戻る訳にはいかなかった。
兄の為にもだが、今度は何より自分の為に行動しようと変われた。
和真にそんな気はなかったのかもしれないが、決意を抱けたのは和真のおかげだ。
「……和真?」
しかし、肝心の和真には反応がない。
否、反応はあったのだ。
驚いた直後、何かを堪える様に片手で両眼を覆い、由香に背を向けている。そこから全く反応がないだけで。
「和真」
再度呼び掛けると、ようやく和真が振り返った。
その顔が心なしか普段より柔らかい気がするのは気のせいだろうか。
「なんでもねーよ。それより、会いたいんだろ?あのいけ好かない吸血鬼に」
「えっ……あ……うん」
和真には何もかもお見通しのようだ。
素直に返事をすると、先程まで何となく空気が柔らかかった和真が、一転普段より幾分か不機嫌になった。
「じゃあ行けよ、早く行かないとこっちも誤魔化しが効かなくなる」
「誤魔化し?」
「下で可奈が叶夜を引き留めてる。ま、そう長くは持たねぇから」
「……色々ごめんね」
「謝るなよ。別に、謝って欲しくてやってんじゃねぇんだし」
溜息をつき、和真は由香の背中を押した。
「とっとと行って来い」
今日の和真はやけに優しい。
呆れているように見えるが、口には隠しきれていない笑みが浮かんでいる。
昔の和真に戻ったようだ。
というか、もしかすると、本当に普段はわざと悪ぶっているだけなのか。
普段からこうして欲しいと思うが、それは我が儘だろう。
「……ありがとう。和くん」
最後に笑顔で昔の愛称を呼び、由香は叶夜にばれないように忍び足でそっと階段を降りていった。
「お前な……」
取り残された和真は、本人も自覚しないうちに穏やかな微笑みを湛えていた。
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