静かな怒り
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「黙って聞いてたが、調子乗ってんじゃねーぞ」

「いっ……つ!!」

それまで黙って話を聞いていた嘉隆が、不意に立ち上がり和真の頭に一発拳をお見舞いした。
遠慮の全く感じられない一撃は、横に座っている由香が見てもかなり痛そうだったのだが、和真は反抗的な態度で頭上の嘉隆を睨み返した。

「いっちょ前に反抗か。半人前の癖に偉そうに言ってんじゃねーぞ、この馬鹿息子。由香ちゃん怖がらせても仕方ないだろ」

嘉隆は呆れ顔だった。
はぁと溜息をつき、隣に縮こまって座っている由香に申し訳なさそうに視線を向け、深々と頭を下げた。

「ごめんね、由香ちゃん」

「……い……いえ」

和真の事は正直好かない。
生意気な事ばかり言ってくる上に、言葉の端々に棘を感じる。
そもそも、彼の行動が支離滅裂過ぎて理解出来ない。
だが、それで嘉隆が謝る必要は全くない。

「……お詫びと言っちゃなんだが。はい、由香ちゃんにプレゼント」

嘉隆はゴソゴソとズボンのポケットの中から光り輝く白銀の物体を取り出した。
嘉隆の手の平にすっぽりと収まるそれは、上部にチェーンが付いており、どうやら十字のペンダントらしかった。
二本のラインが重なる部分には呑み込まれそうな程深い青色の石が埋め込まれている。

「護身用の小型ナイフだ。まぁ、気休めにはなる」

と、嘉隆は不敵に笑うと慎重にチェーンの部分をひっぱった。
すると、十字架の下の一番長い部分が外れ、小さな玩具のようなナイフが姿を表した。

ほい、と手の平の上にナイフと抜けた小さな鞘を載せられる。
見た目の小ささの割に意外にもそれらはずっしりとしていた。

「純銀製だから取り扱いには要注意。脆い上に……錆びやすいからな、こまめに磨いた方がいい」

「じゅ、純銀……!?」

思わず声を荒らげてしまう。
貴金属の値段等全く知らないが、結構値の張るものなのではないだろうか。

「そう気圧される必要はないぞ。銀の価格なんて、1g大体5、60円くらいのもんだ」

嘉隆は顔を青ざめた由香に、声を上げて笑った。それならば、安心して受け取ってもいい代物なのだろうか。

「……吸血鬼を傷付けるには純銀の武器じゃないと意味がない」

それまで不貞腐れ黙っていた和真が唐突に口を切った。

「吸血鬼の治癒能力は常軌を逸する。擦り傷程度なら、一秒もあれば治る。だが、銀で出来た武器で攻撃すれば、吸血鬼の人外の治癒能力は無効になる。そんなちっこい刃物でも、顔でも引っ掻いてやれば多少は効果がある」

淡々とした、けれども詳しい解説。
静かな、けれども確固とした、据わった目の奥に見える殺意に息を呑む。
ああ、この人は本当にそっち側の世界の人間なんだと、ここに来て初めて実感させられた気がした。
和真は決して由香に顔を見せようとも視線を合わせようともしてこなかった。

「人の心を惑わす魔眼、餌を呼び寄せる為の魅力的な容姿、よっぽどの事がない限りは死なない不老不死の性質。
それだけのものを持ち得て、奴らの心は空虚だ。
定期的に血を飲まなければ生きてはいけない、憐れな魔獣。
それが、吸血鬼っていう呪われた生き物の正体」

そんな事を言われても、実感は沸かない。
掌の中のペンダントを握り締め、歯を噛み締める。
二人はどちらかを選べと言う。
ロザリアかキースか。
だが、選んだ先に待つのはどちらかの破滅だという。ならば、どちらを選んだところで後悔するだけではないか。

「……どうしても、選ばないといけないんですか」

「まだ時間はある。幸い由香ちゃんに惚れてる奴等は気が長い方らしいから。ま、無理強いはしてこないだろうよ」

ポンポンと軽く嘉隆に頭を撫でられる。
由香が顔を真っ青にして無言で頷くのを確認すると、嘉隆は、話は終わりだと言わんばかりに、一人部屋の奥で本を読み始めた。
和真も父親のこの対応に慣れているのか、由香に一声「行くぞ」と声を掛けると、そそくさと部屋を後にした。
由香も彼の後に続き部屋を退出する。

「気を、確かにな」

扉を閉める直前、そんな嘉隆の声が聞こえた。

彼の言葉に背中を押される。
由香は嘉隆から貰ったペンダントをそっとポケットにしまうと、前を行く和真の後に続いた。
と、唐突に和真はその場で立ち止まった。

「兄さん、父さんの事は誤魔化せても私の目は誤魔化せないんだからね」

「げっ……」

「可奈ちゃん……」

「で、何があったのか説明してもらおうかしら」

ゴゴゴゴゴという効果音がどこからか聞こえた気がする。
腕組みをしこちらを見る可奈はあくまで笑顔だったが、その眉間にはくっきりと皺が刻まれており、彼女の内なる怒りを顕にしている。

「……お前は部屋に戻れ」

ぼそりと、どうしようか迷う由香に可奈を睨んだまま和真が小声で呟いた。
斜め後ろから見る彼の横顔から、どうにも不穏な物を察知し、躊躇いを覚える。

「……で、でも……」

「いいから行けよ。お前がいると話がこじれる」

今度はしっかりと由香の目を射抜き、逸らしはしなかった。
確かに口下手な由香がここにいれば、更に話はややこしい方向に進みそうだ。
ここは、大人しく和真に任せるのが賢明というもの。
近頃の彼の事はやはり好きにはなれないが、今この瞬間の和真は少しだけ昔の雰囲気に似ている気がして。
由香は素直にこくりと頷いた。

「わ、分かっ……た……」

和真の横を抜けて可奈の側を通り過ぎる。
彼女は不満げな様子ではあったが、由香を追求しようとはせず、素直に行かせてくれた。

どうやら、彼女が怒っているのは和真に対してだけらしかった。

(……ありがとう、可奈ちゃん)

心の中で謝礼を述べ、廊下の角を曲がり階段の前で一息吐く。
どうなるかは不安ではあったが、きっと和真なら何とか上手く誤魔化してくれるだろう。

(とりあえず、この包帯どうにかしないと……)

手当てしてくれたキースには悪いが、悪目立ちしすぎる。
噛まれた場所を右手で抑え、深く溜息を吐く。
リビングに確か絆創膏があった。
当分はそれで切り抜けるしかない。

間違っても、兄に見られるような事があってはならない。

(……お兄ちゃんには、心配掛けたくない)

過去の事もある分、叶夜は由香の些細な怪我にも過敏に反応する。
こんな包帯をしていたのでは、大怪我をしたと誤解されても仕方ない。
ましてや、包帯の下、くっきりと付いてしまった牙の後等見せられない。

階段を上がり二階のリビングに向かう。
幸い、そこには茜はおらず、叶夜も確かバイトだとか言っていた筈なので、誰にもバレずに手当てする事が出来そうだ。
ほっと胸を撫で下ろし、手鏡と絆創膏片手にソファに腰掛ける。

「……どうしたの、それ」

背後から聞こえた聞きなれた、普段なら安堵する声に大きく肩が跳ねる。
今、その人の声が聞こえるのは非常にまずい。まず過ぎる。
心臓が激しく動き、冷や汗が背中を伝う。

「もう一度聞く。……それ、どうしたの」

恐怖で後ろを振り向く事も出来ず、固まって声も出ない。
フローリングの軋む音だけが背後から近付いてくる。
叶夜の声からは一切の感情が読み取れない。

「……話、聞いてる?」

ポン、と両手を肩に載せられた。
手付きは優しい。声色もあくまで穏やか。
瞬間びくりと、驚きに体が大きく跳ねる。
有無を言わせぬ一声に無言で首を降る。

「由香、この間言ったよね。無理しないし、お兄ちゃんに心配掛けません……って」

背後にいる叶夜があからさまに怒りを顕にしたのを感じる。
眼鏡の奥の双眸は不穏な色を湛えているに違いない。

「……こ……れは……」

「うん」

詰まる由香の言葉を、叶夜は静かに待っていてくれる。
だが、隠してもいない憤怒の情が、ぐさぐさと心に突き刺さる。

「……これは…………ちょっと引っ掻いただけで……」

「手当もしてあげるから、いいから外して」

「ほ、保険の……先生にしてもらった……から」

「……そっか」

頑なに言い張る由香に、愛想を尽かしたのか、叶夜は由香の肩から手を離した。
背後から怒りの気配が引いていくのを感じる。
このことは不問にしてくれるのだろうか。
が、それは勘違いだったようで、叶夜は由香の横に腰掛けてきた。

「……な……っ……」

「血の、匂いがする」

スッと細められた目に悪寒がした。
堪らず逃げ腰になるが、叶夜はそれを許しはしなかった。

「今回は、言い訳を聞く気は更々ないよ」

叶夜の手が由香の首に伸ばされる。
もう誤魔化せない。一環の終わりだ。
せめてもの抵抗とばかりに、噛まれた首の右側を庇うように叶夜とは反対側に向ける。

あとは叶夜が虫刺されだと勘違いしてくれる事を祈るしかなかった。
ぐっと目を瞑り、叶夜の突き刺すような目線から逃れる。
が、首の傷が叶夜に晒される事はなく、変わりに聞こえたのはぶっきらぼうな言葉だった。

「何妹ビビらせてんだよ、お前」

首の包帯を外そうとした叶夜の腕を握り締め、港和真は青桐叶夜と対峙していた。

「怖がらせる気は全くないよ。ただ、少しだけ怒ってるだけで」

ね、と同意を求めるかのようににっこりと微笑まれる。
そこに先程までの恐ろしかった叶夜は微塵も存在せず、ただ優しいだけのいつもの兄だった。
だから由香は、素直にこくりと頷いた。
さっきまでの叶夜は怖かった。背筋が凍る程に。だが、今の叶夜は穏やかだ。
本心では怒っていようが、表面上では温和だ。

「今にも泣きそうな顔してんのにか。つーか、お前バイトは」

「急遽休む事にした」

「タイミングのいい事だな」

「君は、タイミングが悪かったよ」

叶夜は笑顔だったが、目は一切笑っていなかった。
確かに目の奥には、先程まで由香に対峙している時と同じ危うさが潜んでいる。

叶夜は、和真の手を振り払うと、眼鏡のフレームを上げた後、由香に手を伸ばした。
そのまま由香の頬に触れた男性にしては細い、しかし節くれだった指が、スッと少女の輪郭をなぞる。

「和真に免じて、今回は不問にしてあげるよ」

言うと、彼はソファから立ち上がった。
和真があからさまに身構えた。

温和で、それでいて、やはり叶夜の纏う空気は重いままだった。
笑顔なのが尚恐ろしかった。
頷く事しか出来ず、恐る恐るといった様子で叶夜を見上げる。

「これで、許すのは最後だから」

最後に不穏な事を言い残し、叶夜はリビングから退室した。

ほっと気が緩むのが分かった。
和真もそれは同じだったようで、彼は盛大に溜息を吐くとソファの背もたれ部分に腰掛けてきた。

「部屋に戻ってろって言ったろ」

「だ、だって……」

流石に包帯は如何なものかと思うのだ。
その旨をそのまま和真に言うと、彼は呆れた様に溜息を吐いた後、由香に手を差し出してきた。

「貸せよ」

「え……?」

「いいからそれ貸せ。その位置だと貼りにくいだろ」

まさか和真がそんな事を言うとは思っていなかった。
目を見張ると、和真の瞳が微かに揺れた。
してくれるのならばありがたいので任せたいが、本当に予想外だった。

戸惑いながら和真に絆創膏を手渡す。
そこからは一瞬だった。
手慣れた様子で包帯を外し、軽く傷の状態を見てから絆創膏を貼られた。
そういえば、昔は生傷の絶えないやんちゃ坊主だったなと、ふいに思い出す。
そこから、昔の事も色々と思い出して、由香はくすりと笑いを零した。

「二、三日もすれば塞がる。……何笑ってんだよ」

「……庇ってくれてありがとう、って思っただけ」

和真は言葉に詰まっていた。
一瞬あどけない表情をした後、今度は険しい顔になり無言になってしまった。
傍から見ていた由香からしてみれば奇妙奇天烈この上ない。

「和真?」

「何でもない。とにかくバレないように隠し通せよ」

捨て台詞のように言い残し、和真はずかずかと部屋に引き上げていった。
と、和真と入れ違いに可奈が部屋に駆け込んできた。

「由香姉!兄さん見なかった!?」

「え?……た、たぶん部屋に戻ったけど……」

「ありがと!」

由香の答えを聞いた瞬間、可奈は三階への階段へ向かいドスドスとわざとらしく音を経てて上がっていった。
それから、リビングにいる由香にも聞こえる程の大声で、階上から可奈の怒声が聞こえてきた。

あの様子から察するに、和真は適当に可奈を誤魔化したのだろう。
そこまでして、由香の所に来てくれたのか。

その考えを頭を降って否定する。

違う。あれは単に可奈への説明が面倒だっただけだ、そういう事にしておこう。

とりあえず、下手な事はしないのが身のためだろう。
特に、叶夜をこれ以上刺激するのは本格的にまずい。
あそこまで怒った叶夜を見たのは、初めてだった。
普段怒らない人が怒ると怖いというのは本当らしい。

由香は首に貼られた絆創膏を手で押さえると、和真に助けてもらった恩もあるし、とりあえず、上で起こっているであろう論争を仲裁しようと、三階へ歩を進めた。

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