狩る者
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森の中は静かだ。
真昼でも獣達の微かな音がするだけで、静かなのに、日が暮れるに連れて更に静寂に満ちていく。
由香は、子供の頃好んで港家の裏にある森の中を一人で探検しており、その不気味なまでの静けさが由香には何故か好ましかった。
かつては木々の間から差し込んでくる光が心地よくて目を閉じ、鳥達の鳴き声に癒されたものだった。
それが、今はどうだろうか。
港家の裏にある山と、学校の裏山は実はつながっているのを由香は知っていた。
かつては好きだった同じ山の中を歩いている筈なのに、昔とは状況が180度違う。
好ましかった静寂が突き刺さるように痛かった。
ザクザクという、道であって道でない場所にある草を二人が踏む締めていく音だけが木霊する。
「かずくん」
沈黙に耐えきれず、過去の愛称そのままに手を繋いだまま決してこちらを見ようとはしない男の背中に呼び掛ける。
「かずーー」
「お前は馬鹿だ」
何度目かの呼び掛けで、和真はようやく立ち止まり由香を振り返った。
顔だけをこちらへ向け、体は前を向いたままだったが、それでも呼び掛けには一応応じてくれた。
忌々しげに舌打ちをしながら、和真はギッと面倒臭そうに由香を睨んだ。
(どうして……睨まれなきゃいけないの)
そこまで怒られるような事をした記憶はない。
これは、由香が悩んで出した結論が招いた結果だ。後悔はしていないし、傷付いてもいない。
傷付いたとするならば、それは和真の振る舞いについてだ。とことん突き放しておながら、変なところでちょっかいを出さないで欲しい。
そもそも、なんであんなところにいたのかも何もかも意味不明だ。
繋がれる腕が由香を離すまいと必死に繋ぎとめているのも、由香を苛立たせる要因の一つだった。
「……馬鹿だって思うなら、放っておけばいいじゃない」
キッと眉根を寄せ和真を睨みつけながら、和真の手を必死に振りほどいた。
気に食わないなら近付かないで欲しい。
変に優しくされるのが一番気に食わない。
それに、由香はキースとロザリアに乱暴されたとは一切考えていない。
由香なりに考え抜いた結果があれだった。
腹立たしげに再度舌打ちをしつつ、それでも近付こうとする彼を拒絶し、一歩引き下がる。
「かずくーー和真には関係ない。これは私の問題だから……放っておいて」
「お前……っ!!」
叫び、無理矢理和真は由香の右手を取った。
必死の形相に、言葉を失う。
何か言おうとしてなのか、和真は口を微かに開けては閉じるという作業を繰り返していた。
だが、結局は何も言わず終いで、和真は最後に由香を絶対零度の眼差しで睨むと、何事もなかったかのように歩みを再開した。
もう口を効く気にもなれず、由香も何も言わなかった。
気まずい沈黙のまま、二人は港家の玄関先に帰ってきた。
そこには既に先客がおり、二人分の鞄を持った可奈が腹立たしげに港家をバックに仁王立ちで待ち構えていた。
「兄さん!ちょっとどういう事なのか説明してもらってもいいかしら!?」
可奈は和真を見つけるや否や、荷物を玄関先に置き去りにし、ズカズカと和真の元に大股で近寄ってきた。
どうやら保健室に置いてきてしまった由香の荷物を彼女が持ってきてくれたらしかった。
腕を腰に当て、和真に顔を寄せ、鬼の形相で睨み付ける姿は普段の可愛らしい彼女からは想像出来ない。
「落ち着けって。話は後でちゃんとしてやるから」
「は!?後で話すですって!?冗談じゃないわよ!!兄さん、由香姉のその首の怪我どうしたのか、きちんと事細かに説明して貰おうじゃない」
ジーっとジト目でこちらを睨んでくる可奈に、由香は咄嗟に頭を左右に振った。
「違うの可奈ちゃん。和真は関係なくて、これはただの虫刺されで」
「虫刺されで包帯巻いて帰ってくる馬鹿がどこにいるのよ!この馬鹿!!言い訳ならもうちょっとましなのにして!」
罵倒のパターンがなんとなく似ているあたり、やっぱり兄妹なのだなと、妙なところで感心してしまった。
人間、混乱していると変な事を考えてしまうらしい。
「後で、兄さんにはじっくり話を聞かせてもらうから覚悟してーー」
「……おいおい、何の騒ぎだ一体」
と、外の騒ぎを聞きつけてか、玄関の扉から頭をぽりぽりと掻きながら嘉隆が顔を覗かせた。
「兄妹喧嘩に由香ちゃんを巻き込むのは感心できないぞ」
「だって父さん!!」
「可奈ちゃんはちょっと黙ってなさい。和真、それと由香ちゃん。ちょっと面借りるぞ」
ちょいちょいと、伯父は手招きで二人を呼び寄せた。
恐る恐る彼の後に続く。
可奈は少々呆れ顔だったが、なんだかんだで父親には逆らえないのか、無理に追いかけて来ようとはしなかった。その分後の追求が恐ろしくはあったが。
嘉隆に案内されたのは一階の奥にある彼の書斎だった。
和真は昨夜も来たからなのか、慣れた様子で堂々と室内に足を踏み入れていたが、由香がここに足を踏み入れるのは初めてだったので、恐縮せざるを得なかった。
「……お、お邪魔します」
小声で呟き和真の後に続く。
一瞬、呆れた様子の和真の瞳とぶつかったが、気にしない事にした。
「そこ、座って。あぁ、扉はちゃんと締めとけよ。聞かれると色々まずい」
嘉隆に言われるまま、隙間なく扉を閉じ、指定された椅子に腰掛ける。
書斎の中は、書斎というよりは、簡易な応接室のようだった。
部屋の中央に二人がけのソファー二脚と、ローテーブルがひとつ。
それと、部屋の端の方に大きめの仕事用の机がある。
本棚はあるものの、壁一面本棚等という世間一般の書斎のイメージとは異なり、ごく一部の壁だけが本棚になっているだけで、ある本も仕事関係のものだけという簡素っぷりだった。
拍子抜けはしたが、この方が嘉隆らしいのかもしれなかった。
彼はあまり華美なものは好まない。
必要最低限のものだけあればいい。物の収集など以ての外。何にも執着せず、定住もせず、こだわらない。
それでも、異質なまでに彼の部屋は生活感を感じさせなかった。
「じゃ、本題に入るぞ」
嘉隆は、由香と和真の座るソファーの反対側にあるソファーの丁度中央に腰を下ろした。
普段のふざけた鬱陶しい空気は何処へやら、彼は至って真剣だった。
不覚にも、四十をとっくに過ぎた男の目にしては、やたらと殺気じみた物騒なものを感じられ、由香は思わずびくりと小さく肩を震わせた。
「吸血鬼に噛まれたんだろ?それ」
「え……?」
どくんと、心臓が爆発するかと思った。
事も無げに、食卓で、そこにある醤油取って、というくらいの軽さで、嘉隆はとんでもないことを言ってのけた。
そもそも、何故嘉隆がそれを知っているのだろうか。
あからさまに混乱を隠せていない由香に、嘉隆は苦笑いだった。
「和真、お前説明は」
「してねぇよ」
「……だよな」
そっぽを向いて由香の事を見ようともしない和真に、嘉隆ははぁと大きな溜息を吐いた。
ぽりぽりと片手で髪を掻きむしった後、嘉隆は申し訳なさそうに由香を見た。
「俺の仕事は商社マンなんかじゃない。流通貿易の仕事も一応はしてるが、それはあくまで隠れ蓑であって、本業は……その……物凄く言いにくい上に血なまぐさいんだが……」
「大雑把に言うと狩人。……『ヴァンパイアハンター』って言えば、馬鹿なお前にも分かるだろ」
「なんで、肝心な所を言っちゃうのかな!お前は!!」
「言うのが遅ぇよ!その調子だと日が暮れるわ糞親父!!」
息子の言い草にトホホと、嘉隆は大袈裟に落ち込んでみせた。
子供っぽいのか大人なのか、今一つ判断しにくい人だ。
吸血鬼ハンター。
フィクションの中ではよく出てくるが、現実にいるとは思ってもみなかった。
確かにいたらいいのにと思った事はあったが、フィクションと現実を混同するほど混乱してはいなかった。
それが、実際にいるなどと、今更言われて信じろと言われても複雑な気分だ。
それと気になることがもう一つ。
「茜伯母さんと可奈ちゃんは……」
「知らない。あの二人には教えてないし、今後共教える必要もない。だからこうしてきちんと締め切った上で話をしてる」
嘉隆の言い草にほっと胸を撫で下ろした。
あの二人は光の中で優しくくるまれ、微笑んで生きるのが似合っている。
吸血鬼などという血生臭いものとは一生無関係であるべきだ。
「そんなことより問題なのはお前の方だ」
「私……?」
和真に言われ、はっとする。
確かに由香の周りには吸血鬼が確実に二人はいる。だが、二人に嫌な事をされたかというとそうじゃない。
進んで血を捧げた訳ではないが、気分を害した訳でもない。
あれは不可抗力だった。
それに、あんなに一途な人達を由香は拒絶出来無かった。
前言撤回。吸血鬼ハンターがいればいいと思ったのは間違いだ。
由香が吸血鬼は恐ろしいものだと思い込んでいた時ならば心底安堵したことだろう。だが、今は違う。
吸血鬼ハンターが吸血鬼を見境なく殲滅するためにいるのならば、黙認する事は出来ない。
確かに吸血鬼は悪いものだが、あの二人は悪いものじゃない。矛盾しているがそうとしか言えなかった。
「あの……二人は悪い人じゃない……。だから……殺すなんて間違ってます」
「大丈夫、俺達は無闇に吸血鬼を殺したりはしないよ。狩るのは人間に危害を加える個体だけ。……で、二人。そこが問題なんだ、由香ちゃん」
「え……?」
「『吸血鬼の花嫁』……って単語を由香ちゃんは知ってる?」
「い……いえ……」
「さしあたって、今からひっじょー……にデリケートな質問をするんだが……いいか?」
「……はい」
頭に浮かんだ疑問符をかき消し、嘉隆が口を開くのを待つ。それにしてもデリケートな質問とは何なのだろうか。
だが、待てど暮らせど一向に嘉隆は口を開かない。やがて、堪忍袋の緒が切れた和真が半ばキレ気味で先に口を開いた。
「お前は穢れなき乙女か」
「え……?」
問われた意味がよく分からず首を傾げる。
穢れなき乙女かと言われても、穢れなき乙女とはそもそもどういう意味なのか。
(吸血された事はあるから、穢れなき乙女かと言われると……)
そもそも穢れとは何を指して穢れなのだろうか。
「あぁもう濁した俺が馬鹿だった!!いいか、変な意味に捉えるなよ。単刀直入に言う。お前は処女か?」
「……え?」
思わず和真の目を見て聞き返してしまう。
沈黙。その後
見る見るうちに和真の顔が朱に染まっていくのが分かる。
あまりに突然の事で、何を言ってこの人は勝手に赤くなっているんだろうとぼんやりと思っていたが、はた、と言われた内容に気付いた瞬間、由香は咄嗟に肩を抱いて和真に背を向けていた。
「お前はもう少し言い方を考えろ!!」
「鈍いこいつが悪いんだから俺が知るかよ!!だいたいお前が躊躇うからこういう結果になってるんだろうが!!」
「……とりあえず、その反応だったら答えを聞くまでもない……な」
「だな」
(恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!!)
というか、何でこの人達はそんなデリカシーのない事をいきなり聞いてきたのだろうか。
確かにほとんど兄と母としか接してこなかったので、そもそも彼氏どころか女友達すらろくにいなかった由香がそういう関係になる事はまずないが、何故それを今更聞かれなければならないのだろうか。
「すまない由香ちゃん。きちんと話すからそれで許して」
こほんと咳払いして、嘉隆は話始めた。
「吸血鬼は通常人間を餌としてしか認識しない。
だがその一方で、吸血鬼は一人の人間を一生偏愛するとも言われている。
その愛された人間というのを、吸血鬼の花嫁と呼ぶ。
花嫁となったものには胸に、自分を花嫁とした吸血鬼……長いので花婿と呼ぶ事にする……の固有の刻印が刻まれ、他の吸血鬼は一切花嫁を吸血出来なくなる。
それ以外にも色々あるが、そこは長くなるので今回は省く。
……刻印は花嫁を縛るが、それ以上に花嫁を作った吸血鬼を花嫁に縛る事になる。
花婿は人間である花嫁に狂気的なまでに一途に尽くし続ける。花嫁の命が尽きるその時まで、ひたすらに」
「その、吸血鬼の花嫁になる条件ってーのが……心の底から愛し愛され、その身の純潔を捧げる事。
自分で言ってて馬鹿馬鹿しいと思うが、事実だから仕方ない」
情報量が多すぎて話が上手く読めない。
素直にその事を伝えると、嘉隆は仕方なさそうに頷いてくれたが、和真は容赦してくれなかった。
「話はまだ終わってない。大事なのはここからだ」
まだあるのかと身構える。
「今、お前は二人の吸血鬼の花嫁候補の状態だ。これが、どれだけの大事か分かるか?」
和真の剣幕は必死のものだった。
先程の話から、花嫁になると、花婿からの吸血しか受け付けなくなると言った。
それはつまり、キースを選べばロザリアは二度と由香の血を吸えなくなるし、ロザリアを選べば二度とキースが由香の血を吸えなくなる、という事になる。
というか、女子はカウントにいれてもいいのだろうか。
「お前は選ばないといけない。どちらを選ぶか、それとも、両方を見捨てるのか」
見捨てると言う単語に過剰反応してしまう。
「見捨てるなら、それもいい。その時は二人とも殺すだけの話だ。その為のハンターだ」
「なに……を……」
「吸血鬼は独占欲が強い上に嫉妬心も異常だ。そんな奴等なんだ。お前に選ばれなかった方が、大人しくお前を生かしておくと思うのかよ。
奪われるぐらいなら、一緒に無理心中しようとか考える連中だぞ、あいつらは」
ドキリとした。
だが、ロザリアとキースに限ってそんな事はないだろう。
否、本当にそうだろうか。
由香は見た筈だ。
キースを差し置いて成り行き上仕方なしとはいえ、先に由香の血を吸ったロザリアに対してのキースの暴挙を。
その後のピリピリとした彼の空気を。
「言っておくが、花嫁にならずに二人と仲良くやっていこう……なんて馬鹿な事は考えんな。吸血鬼にとって好きな相手を吸血するっていうのは何より重い。……よく考えろ」
兄妹だから、なんて甘い考えはきっと通じない。
でも、選ぶなんて出来ない。
どちらかを選んで、どちらかを悲しませるなんて出来ない。
今の由香にはいささか重過ぎる話のような気がした。
そもそも、二人は本当にそこまで愛してくれているのだろうか。愛されている理由さえ分からない由香には何も言えはしなかった。
「それと、先にこれだけは言っておく。いいか、お前は誰かを必ず不幸にする」
和真の何時にも増して真面目な顔が、ぐさりと心に深い傷を残した。
「何も選べなかったその時は、俺がこの手で奴等を殺す」
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