赦しと怒りと
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首元を執拗に舐めるように見るキースに、動悸が治まらない。
今日のキースは純粋に、生き物として恐怖を感じる。それが更に、貧血でガンガンと痛む由香の頭に響いていた。
「少し痛むよ」
先程までの冷たい空気は何処へやら、手際よく首筋の噛み後を保健室にあった脱脂綿とオキシドールで消毒していくキースを見ても、恐怖感は薄れなかった。
「ぃ……っ!」
「我慢して」
消毒液が傷口にしみた。
普段穏やかなキースは、珍しく不機嫌な様子を隠そうともしない。
わざと多めに消毒液を含ませているあたり、相当根に持っている。
思わず肩を震わせ小さく悲鳴を上げると、キースは不機嫌そうに赤い目を細め、由香を静かに窘めた。
消毒が終わったのか、キースは包帯で由香の首をぐるぐると覆い始めた。
噛まれたと言っても、牙の後が蚊に食われたかのように2つ付いているだけだ。
これくらいなら絆創膏の方が怪しまれないのではないか。
そう、無言でキースに訴えかけたが、彼は聞く耳を持たなかった。
「……終わったよ」
「あ、ありがとう……ございました」
「君が礼を言う必要はない」
それきり、キースは黙り込んでしまった。
由香から何か話す事も出来ず、保健室は重い沈黙に満たされた。
それは、きっと一瞬の事だった。
だが、キースが行動を起こすまでの時間が、由香には永遠のように長く感じられた。
「顔色が悪い」
ぽつりと、キースは由香の顔を真っ直ぐ見詰めて言葉を零した。
心配気に額に手を当てられると、頬が少しばかり上気するのが分かった。
「気持ち悪いと思った?」
「え……?」
「私達は吸血鬼だ。今回の事で身に染みて分かっただろう」
私達、というからには、当然キースも吸血鬼なのだろう。
確かに、ロザリアに血を吸われた時、気持ち悪いと思った。
だが、それはロザリアに対してではなく、七年前の事件のフラッシュバックのせいだ。
あの時の吸血鬼は笑っていた。
由香が怯えるのを見て、愉悦を感じていた。
それに何度吐き気を覚えたか分からない。
だが、ロザリアは泣いていた。
嗚咽を零してみっともなく。
彼女は由香を吸血した事を後悔していた。
逃げ出した少女の後ろ姿があそこまで悲痛なものでなければ、由香はロザリアを責められた。
だが、あんな顔をされては、責めるものも責められない。
黙り込んでいると、キースがいつの間にか由香に対して膝を折っていた。
「私は、君を守れなかった。これはあの子を律せなかった私の責任だ」
「キースさんが謝る必要は……」
「謝らないと気が済まない」
キースは今までになく真剣だった。
ベッドに腰掛ける由香を下から見上げる彼は、由香に、ひ弱な一人の人間に赦しを乞うていた。
それがどれ程甘美な事なのか、この人は分かってやっているのだろうか。
怖いものは怖い。
吸血鬼は怖いものだ。
由香は今までそう思い込んできた。
簡単に今までの考えを否定できるほど、由香は柔軟でもポジティブでもない。
「由香」
「わ、たし……良く分からないんです。頭の中がごちゃごちゃで……。で、でも……二人の事はし、信じたい……と思ってます」
二人が由香に向けていてくれた好意は確かに本物だった。
ならば、この人達を今は信じていたかった。
由香には何がなんだかさっぱり分からない。
それでも、二人を信じたいと思うのは本心だった。
「私達は、まだ君に隠していることがある。それでも、君は私を信じてくれる?」
「……キースさん」
「今はまだ話せないけれど、時期が来たら、その時はきちんと説明する。だから今は、何も聞かないで」
縋り付くようにそっと柔らかく抱きしめてくる人を、由香は拒めなかった。
目の前で暴行を振るう様をまざまざと見せ付けられて、それでも、拒む事は出来なかった。
ロザリアに対して思った事だが、この人達は子供だ。由香よりも何倍も我儘な、加減を知らないだけの子供。
囁かれる言葉や仕草はどこまでも甘い筈なのに、どうしてこうも胸が締め付けられるのか。
「すまない。少し、取り乱してしまった」
一瞬の沈黙の後、由香から体を離し、キースは誤魔化すように笑った。
ただ、その笑顔は何処までも悲しかった。
「……ロザリアちゃんを、追い掛け……ます」
キースでもこれだけ取り乱しているのだ。
当事者である本人が、きっと一番傷付いている。
そう思い、朦朧とした意識のまま、腰掛けていたベッドから立ち上がる。
途端、体がぐらりと斜めに傾いた。
「由香!」
焦ったキースの声がすぐ側で聞こえた。
ガンガンと、ひび割れるように頭が痛い。
貧血なのに急に動いたせいだろう。
転げそうになったところを、既手のところでキースに抱き留められた。
「お願いだから、無理はしないで欲しい」
今日のキースは由香に対して懇願してばかりだ。いつもはあんなにも唯我独尊なのに。
それがとても滑稽で愚かに思えた。
たかがこんな小娘にそこまでしてもらわなくてもいいのに。
「由香」
それでも前に進もうとする由香に対して、呆れたような窘めるような、複雑な感情を込めて名を呼ばれた。
やがて、止めても無駄と判断したのか、キースは押し黙ると、軽々と由香の体を抱き上げた。
「キ……っ!?」
「そこまであの子を追い掛けたいと言うのなら、私も付き合う。私にも、非がない訳じゃないから」
だから、どうしてこういう体制になっているのか。
せめて、俵抱きにしてくれれば諦めも付くというのに、どうしてお姫様抱っこなのか。
残念ながら歩く体力はない、そこは認めざるを得ない。だから百歩譲ってこの体制は仕方ないとしても、もう少し抱き方というものがあるだろう。
それを訴えようと顔を真っ赤にしながらキースの顔を見上げるが、彼は笑顔で首を傾げるだけだった。
どうも確信犯っぽい部分があるような気がするが、由香はもう深い事は考えないでおこうと思った。
「……あの子の行き先は分かっているから」
呟いたキースに連れて来られたのは、学校の裏山だった。
山の中腹辺りに位置する、少しだけ森の中で開けているそこは、丁度校内を一望できるようになっており、ロザリアは一人そこにある大きな木の根本で膝を抱えて蹲っていた。
下ろしてくださいと、ジェスチャーでキースに訴えかけ、ロザリアの元に徒歩で向かう。
近くまでいくと、ロザリアが小さく肩を震わせているのが分かった。
そして思ったのだ。
やっぱり、この子の事を責めることは出来ないな、と。
「……ロザリアちゃん」
「っ……!……なん……で……」
近付いて蹲る少女に目線を合わせる為にしゃがみ込んだ。
小動物のように震えながら由香を怯えて見詰めるロザリアは、なんとも哀れに思えた。
口をぱくぱくと開閉しながら、何か言おうとしているロザリアを窘めるように、何も言わなくていいと伝えるように。
由香は、微笑みながらロザリアの頭をぽんぽんと撫でた。
その瞬間、堪えていたものが抑えられなくなったのか、ロザリアは声を上げ、わんわんと盛大に泣き出した。
あやすように、黙って抱き締めると、ロザリアは由香の服を強く掴み、縋るように涙を零し続けた。
「由香、わ、私っ……!」
「うん」
「わ……わたし……」
「うん」
「由香をね、傷付けたかった訳じゃないの」
鼻声で涙混じりに答える彼女は、何処までもひ弱で、吸血鬼なんてものとは無縁で、純粋な一人の女の子だった。
「お願いだから、き、嫌いに……ならないで!」
「嫌いになったりしないよ」
微笑み応えれば、安堵したのか、涙混じりにロザリアは笑った。
笑う彼女は今まで見た中で一番儚くそれでいて、美しかった。
「帰ろう、ロザリアちゃん。皆待ってるよ」
「……うん」
手を差し伸べると、ロザリアは一瞬戸惑った後、素直に自分の手を重ねてきた。
その直後だった、すぐ近くで銃声が聞こえたのは。
「え……?」
振り返った由香が最初に目にしたのは血だった。
白いワイシャツにはワインレッドの血が生々しく滲んでおり、銃弾が紛れもなくキースの肩を撃ち抜いたという事実をまざまざと見せ付けられた。
ロザリアも予想打にしなかったのか、大きく目を見開き、心底動揺してキースの撃ち抜かれた右肩を見詰めていた。
キースは由香とロザリアを庇うようにして立ち塞がっており、その後ろ姿から漂ってくる心配の気持ちがただただ痛くて、目を逸らしたかった。
(私のせいだ)
自分のせいで、キースに深手を負わせてしまった。
怪我を負わせてしまった。
ドクンドクンと心臓が音を立てて、拍動する。
「キースさ……!」
「動くな」
咄嗟に駆け寄ろうとした由香を止めたのは、予想外の人物だった。
「な……ん……で……」
和真がここにいるのか。
どうして、銃口をこちらに向けて殺意を隠そうのもしないのか。
立ち上る硝煙は、間違いなく和真の持つ銃のものだ。
どうして、なんで。
恐怖と動揺に震え、何も言えない由香に変わって、キースが傷口を抑えながら皮肉げに口元を歪めた。
「結構なお出迎えじゃないか」
「そいつをこっちに渡せ」
挑発されて尚、和真は淡々としていた。
冷静に、しかし確実な殺気を放ち、キースを睨み付ける様は純粋に恐ろしかった。
「銀の弾丸まで用意してくるあたり……嗚呼、そういう事か」
キースは一人納得しているようだったが、由香には意味が分からない。
どうして和真が銃なんてものを持っているのか。
そもそも、どうしてここまで殺気を放ってこちらを見ているのか。
「か……かず……くん……。ど……して」
「いいからお前は早くこっちに来い!!」
初めて和真が声を荒げた。
必死の形相での訴えに、何も言えなくなる。
このままこのキースを置いて和真のところにはいけない。
きっと、この場でキースは殺されてしまう。
それだけでなく、ロザリアもきっと。
そんな事は許せない。
吸血鬼だろうと、この人達は人間と変わらない感情を持っている。
それを、何の危害も加えていない人達を、殺すなんて間違ってる。
「由香、行って」
震え、動けない由香に、キースがぼそりと耳打ちした。
「今は行って。大丈夫、私は強いから」
笑顔で云われれば、もう何も言えない。
由香は立ち上がると、渋々和真の元へ向かった。
足取りは重く、気持ちも暗い。
和真に手を伸ばせば届くという距離まで来ると、彼は無理矢理由香を手繰り寄せた。
「帰るぞ」
和真の手には遠慮がなかった。
無理矢理腕を握られ、締め付けられる。
引きずられるようにして歩くのは、全く気が進まなかった。
去り際、和真はキースにあからさまな殺気を向けると、有無を言わさず、由香を引きずって家へ向かって歩き出した。
ちらりと由香は、ばれないように背後を盗み見た。
キースの穏やかな笑顔が、ただただ痛々しかった。
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