嵐の予兆
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「由香、どうかしたの?なんだか顔色が悪いけれど」

キャロラインに先導され、食堂に戻ってくると、心配した様子でキースが駆け寄ってきた。
由香の頬に伸ばされた腕があまりに自然な動作だったので、由香は無条件に彼の接触を受け入れていた。
親指でそっと目元を拭われる。
涙は出ていない筈だが、自分は泣いているのだという錯覚に陥ってきた。

顔色が悪いというのなら、それはそうだろう。
キャロラインから。
人からあれほどまでの直接的な怒りの感情を、由香は向けられた事はなかった。
蔑みや苛立ちの感情には慣れているつもりだった。
だが、あれ程までに憎しみの情を向けられた事等、未だ嘗て由香には経験のない事だった。

激しくなった鼓動は未だ収まらず、自らの心臓がドクドクと音を立て、張り裂けんばかりに活発に動いているのは、由香にも認知出来ていた。
それに比べ、キャロラインは至って冷静だった。
横目に彼女を覗き見ると、ほんの一瞬だけ目が合った気がしたが、すぐにふいと逸らされてしまった。
彼女が貼り付けたような仮面の下で何を考えているのかは由香には到底想像もつかないことだ。

だから由香は現実から目を背けるように目を閉じ何度か小さく深呼吸を繰り返すと、キースと目を合わせないようにして、そっとその身を引いた。

「なんでもない……です……。……心配しないでください」

「何でもないと言うのなら、どうして私から目を逸らすの?」

食われてしまいそうな気がするからです。

到底そんな事を言える訳もなく、由香は恐る恐るキースを見上げた。

「本当に大丈夫?なんなら一晩泊まってゆっくりしていってもいいんだよ」

「いえ……伯母に心配を掛けると悪いので……帰ります。それに……」

「それに……?」

「流石に泊まりは……ご迷惑を」

「迷惑じゃないよ。妹も喜ぶ筈だ。なにしろ、ローザはかなり君に懐いているようだから。しかし……無理強いするとそれはそれで、彼女の怒りを買ってしまうしね。私としても、君にそこまで無粋な事はしたくない。それにね」

「なんでしょうか……」

「君が身持ちの固い子で、私は安心した」

ぽんぽんと、それこそ子供にするような軽い頭の叩き方に、顔に一気に血が集まってくるのを感じた。
気が付けばキャロラインはいつの間にか姿を消しており、キースと二人きりになっていた。

開いていた距離は一瞬でゼロになっている。
髪を梳かれ、緊張で身を固くしていると、キースはさも可笑しなものを見たといった形相でケタケタと笑い出した。

「君は私との約束を守ってくれたのだから、私も君に敬意を表さなくては」

そこからは一瞬の事だった。
キースは由香から身を離すと、その場に跪き、由香の掌を手に取ると、忠誠を誓うかのように口づけてきた。

「っ……!?」

「本当に、君は見ていて飽きないよ」

そんな事を言われても何も嬉しくない。
早くその手を離して欲しい。
そんな事をされるほど、由香は出来た人間ではない。

「ねぇ、私の気持ちは伝わった?」

「……分かり……ません」

楽しそうに笑うこの男の真意等、由香には計り知れない。
由香は咄嗟に手を引っ込めると、うつむきながら数歩後ずさりキースから距離を取った。

それでも愛し気に目を細めるキースに、謎はますます深まっていくばかりだ。

「か……帰ります」

「途中まで送ろうか?」

「け、結構です……!」

言い切って、由香はキースの横を全力疾走で走り抜け、屋敷の玄関扉を力いっぱい開け、逃げるように外へ駆け出した。
息を切らしながら必死で来た道を戻って港家を目指す。

港家の窓から漏れる明かりが見えた瞬間、途方のない安堵感が由香を満たしていった。
安堵したのもつかの間、玄関扉の前に立った時、妙な違和感を覚えた。

気のせいかもしれないのだが、家の中がいつもより明るい気がするのだ。
明るいというか、賑やかと言うか、そんな気配がする。
不思議に思うが、それは気味の悪いものではなく、むしろ心地よく思えるものだった。

由香は、きっと気のせいだろうと思いながら、玄関のチャイムを鳴らした。
インターホンを押してすぐ、扉が内側から押し開かれ、中から仏頂面の和真が姿を現した。
てっきり茜か叶夜が出てくると思っていただけに、不意を突かれた。
由香は目を見開いて、和真の顔を思わず凝視してしまった。

「……早く上がれよ」

「あ……ありがと……う」

たじろぎながら礼を言うと、和真は意外そうに目を見開いたが、すぐに元の不機嫌そうな顔に戻ると、ぐっと親指で自身の背後にある階段の上のリビングを指指した。

「親父が会いたがってる」

「お……親父って……嘉隆(よしたか)伯父さん……?」

「そうに決まってんだろ。馬鹿かお前は」

馬鹿にするような言葉と笑みに少し傷ついた。
しかし、それ以上に伯父の帰還に驚愕した。
いつもより賑やかな気がするとは思っていたが、まさか伯父が帰ってきているとは。
伯父と最後に会ったのは確か八年前だった筈だ。
最後に由香がここを訪れた時には、彼は海外に単身赴任していた。

商社で働いている伯父は、その職業柄海外の転勤が非常に多い。
由香も詳しい事は知らないが、常に世界を飛び回っているらしく、大変な職らしい。
ただ、嘉隆は、職の内容についてはあまり語ろうとはしないものの、自らの職に誇りを持っているらしく、決まって仕事で海外に行く時は笑顔を浮かべていた。

伯父に関する記憶は由香の中ではかなり薄らいでいたが、それでも彼がいい人だったのは、なんとなく記憶に残っている。
それに、電話の一件もあり、彼が由香と叶夜に対して比較的好意的なのはあきらかだ。

「……伯父さん、帰ってきてたんだ」

「俺もさっき知った。……とにかく、早く行けよ」

「う……うん……」

和真に促されるまま、二階に上がり、そっとリビングの戸を開ける。
真っ先に由香を出迎えたのは、叶夜だった。
叶夜は由香の頭をさり気なく撫でた。

「おかえり、由香」

「た……ただいま、お兄ちゃん」

返答もたじたじになってしまう。
伯父が帰ってきているというのに、これは如何なものだろうかと、声を上げようとすると、叶夜の背後に見慣れない男が目に入った。
彼は由香を見るやいなや目を大きく見開いた。
驚いた男は、とても和真に似ていて、その男が嘉隆であることは明白だった。
和真との相違点は、髪は染められておらず黒のまま、それと、由香に向ける感情が悪意ではないという部分だろうか。
今年で47になる男は、息子と同じ端正な顔立ちと貫禄で、由香から見ても魅力的に写った。
おじ様が好きな人的には堪らないのではないか、と思う。

「由香ちゃん!大きくなったなー、見違えた。こうして見ると奏ちゃんとそっくりだ。凄く綺麗になった!」

嘉隆は驚きから1点、喜色を全面に打ち出すと、叶夜を押し退け由香に抱き着いてきた。
奏ちゃん、という独特な母への呼び方は、彼特有のものだ。
なんでも嘉隆と茜と奏の3人は幼馴染みだったらしく、昔からこの呼び方は変わっていないのだそうだ。
茜曰く、嘉隆は奏に対して好意的だったらしが、母は彼の事が苦手だったらしく、顔を合わせる度に突っかかっていたらしい。

「……伯父さん」

あからさまに顔をしかめ、敵意を全面に押し出す兄に、嘉隆は豪快に笑い、由香を片腕で抱きしめたまま、馴れ馴れしく叶夜の肩に手を回した。

「全く、少しは久しぶりの再会の喜びを味あわせてくれよ。連れない兄ちゃんだ。なー、由香ちゃん」

「えっ!?……あ……はい……」

「伯父さん、由香が困っているのであまり絡まないで欲しいのですが」

兄は笑顔だった。
しかし、その裏にはあからさまに伯父に対する敵意のようなものが見えており、この二人はあまり相性がよろしくないのだろうなと、由香は直感で察した。

嘉隆は、わざとらしく溜息をつくと、渋々といった様子で由香を解放した。
ふらついた由香を、すかさず叶夜は抱き留めた。

「お前を見てると、どうもお前の父さんを思い出すというか……。経験談からの忠告だが……そろそろ、妹離れする事をおすすめしとく」

「……ご忠告どうも」

由香は叶夜の腕の中で、何時にも増して、彼がピリピリしているのを感じ取っていた。
普段叶夜がここまであからさまに他人に対して敵意を剥き出しにする事は少ないように思える。
この二人の予想外の相性の悪さに、由香は一抹の不安を覚えた。

「嘉隆さーん、あんまり二人をからかわないでよー」

キッチンの奥から、茜の間延びした声が聞こえた。
嘉隆が帰ってきたのが嬉しいのか、隠しきれず、声音が浮き足立っていた。
長年帰ってこなかった夫が久しぶりに帰ってきたのだ。
当然の事だろう。

「全く、老体の楽しみを奪うなんて……酷い」

「あんたそんなに老けてねぇだろ」

由香と叶夜の背後から、唐突に和真が現れた。
彼は嘉隆の頭を、いい加減にしろ、といった具合に割と遠慮なく叩いた。
由香から見てもなかなかに痛そうな音がしたのだが、嘉隆は全く応えた様子はなく、むしろ懲りずに息子とスキンシップをとろうと全力で抱きつきに掛かった。

「和真!でかくなったな!」

「そりゃ八年近く会わなきゃでかくなるだろーよ」

しかし、和真は軽々と嘉隆をかわし、嘉隆はそのまま壁にぶち当たって自滅した。

「時々電話してやっただろ、手紙も出したし。なんだ?拗ねてるのか?え?お父さんがいなくて寂しかったのか??うん?」

「鬱陶しいわ!!あっち行ってろ糞放浪親父!! 」

「放浪って……仕事だっつーの。あー、早くこんな可愛くない息子じゃなくて可奈に会いたいなぁ。綺麗になってるんだろうなぁ、可奈」

残念ながら可奈は出掛けているようで、今この家にはいない。

「思いを馳せるな気持ち悪い」

「あらあら、仲良しなんだから」

キッチンから顔を出した茜が、ふふふ、と嬉しそうに呟いた。

「……これ、仲良しなんですか」

叶夜の言葉に由香も心の中で同意した。
青桐家では見ない光景だった。
母は由香に対してあからさまに愛情を示してくれたが、こういった形ではなかった。
あの人の愛はもっと重く静かで、それでいて歪んでいた。
これが、世間一般の仲良しな親子の図、なのだろうか。

「うんうん、仲良き事は美しきかな」

「……お兄ちゃん、うちのお父さんもこんな感じだった?」

由香には父の記憶は全くない。
だから、父親とは比較できないので、頭上を見上げ兄に確認してみた。

「うちの父親とは大分タイプが違うかな。まぁ……色々あるってことだよ。愛の形には」

兄がそういうのならそうなのだろう。
由香は苦笑いの叶夜に、無言でこくりと頷いた。

「たっだいまー」

そんな時、高々とした可奈の声がリビングの入口から聞こえてきた。

「可奈ちゃーん!おかえりー!」

「え!?お父さん!?」

可奈は押し倒さんばかりの勢いで抱きつこうとした父親を咄嗟に避けると、口を大きく開けて、彼の顔を指さし、あからさまに驚いていた。

「なんでいるの!?仕事は!?」

「長期で休みとっちゃった」

語尾に星でもついていそうな、なんとも言えないムカつく笑みを浮かべた伯父は、かわされたのも全く懲りずに、もう一度可奈に抱き着こうと挑戦した。
しかし、可奈は二度目は兄と同じく慣れた様子で父親を交わすと、そそくさとキッチンにいる茜の元へ逃げるように行ってしまった。

「全くどいつもこいつも年寄りに冷たいんだから、ったく近頃の若いのは」

「お前のような年寄りがいてたまるか。で、長期の休みってどういう事なんだよ」

「あー、それな。まぁそれはおいおい話してやるよ。……じゃ、俺は邪魔者らしいし、退散するとしますか」

嘉隆は飄々とした態度で手をひらひらと振ると、由香達3人に背を向け階下にある彼の書斎に行ってしまった。

「和真、お前は後で部屋来い。ちょいと話しときたい事があってな」

「……わっーた」

伯父が去ると、彼のいない部屋は途端に静かに感じられた。それだけ、伯父が賑やかな人だということだろう。
今までは彼はいなくて当たり前の人物だったのに、今ではいる事が当たり前になっている。

「話ってなんだろうね、和真」

聞く叶夜に、和真は溜息をついた。

「……多方進路どうすんだとか、そういう話だろ」

そういえば、和真は高校三年生だった。
卒業後の進路等、色々と考えなければならない事が多いのだろう。

「今まで何も口出しして来なかった癖に、虫のいい話だ」

怒っているかと思ったが、彼はあくまでずっと呆れ顔だった。
和真は溜息を吐きながら、部屋に戻ると言うと、そそくさと退散していった。

色んな意味で、嵐がやってきた気がした。


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