落ち着く場所
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その日の晩、久しぶりに面と向かって兄と話したくなった由香はここに来て初めて、自身の部屋の隣にある、叶夜の部屋の前に立っていた。
ここに越してくる前は、実質二人で暮らしているようなものだったし、関わる機会も単純に多かったが、今となっては食事や団欒の時間を除いて、ほとんど叶夜と関わる事はなかった。
由香自身が新しい環境で忙しく余裕がなかったというのもあるが、叶夜も叶夜で大学での研究が忙しいらしく留守にしがちだった。
長く暮らしてきた家族の部屋の扉を叩くだけだというのに、今、由香は酷く緊張した。
それは、今までとは叩く扉が違うだとか、色々要因はあったが、なんの用もなく、ただ会いたいからだけで兄の部屋へ立ち入るのは不躾なのではないかという気持ちが一番大きかった。
我儘は重々承知。
それでも、兄と話したかった。
色々なことがごちゃごちゃになって、由香の頭はパニック状態だった。
近況の報告もしたかったし、何よりも、もう一人でも大丈夫なんだよ、と兄を安心させたかった。
「お……お兄ちゃん。入ってもいい?」
トントンと軽く扉を叩きながら声を掛けると、中から椅子から立ち上がるような音がした。
やがて、扉が部屋の内側から押し開かれ、見慣れた兄の笑顔が由香の目に入ってきた。
機嫌を損ねるどころか、むしろ心底嬉しそうな叶夜の顔に、由香の心配は杞憂だったのだと悟った。
「いらっしゃい」
「お、お邪魔します」
笑い混じりの声に促されるままに、由香は叶夜の部屋に足を踏み入れた。
シンプルで落ち着いた、無駄なものが一切ない兄らしい部屋だなと由香は素直に感じた。
机の上には、飲みかけのマグカップと勉強の途中だったのだろう、難しい数式で埋め尽くされたノートと参考書。
部屋にはコーヒーの仄かな香りが充満してい
た。
「ご、ごめんなさい」
きっと勉強の邪魔をしてしまった。
「どうして謝るの?」
「だって……その……勉強……」
「いいよ、別に。丁度休憩しようとしていたから」
ニコニコと笑顔で押し切るように言われてしまえば、反論も出来ない。
「ほら、そこに座って。由香はコーヒー駄目だよね。ココアでも持ってきてあげるから、少し待ってて」
「え!?……そ、そんなに長居するつもりは!悪いし……!」
「いいからいいから、たまにはお兄ちゃんの我儘に付き合って」
言い切って、叶夜は部屋を出ていってしまった。
叶夜の中では由香が長時間居座る事は、決定事項らしい。
(近況報告だけして、部屋に戻ろうと思ってたんだけど……)
兄が喜んでくれるなら悪い気はしないが、どうにも迷惑を掛けている気がする。
だが、ここで無断で戻る訳にもいかないので、由香は渋々叶夜に指示された通り、ベッドにちょこんと腰掛けた。
暫くすると、マグカップを持った叶夜が部屋に戻ってきた。
「はい、お待たせ」
「あ、ありがとう……」
「どう致しまして」
叶夜は由香にココアの入ったマグカップを渡すと、自身も由香の横に腰掛けた。
さり気なく髪に触れてくる兄に、由香の心拍数が上がった。
「……こうして、二人で話をするのは、随分久しぶりな気がするね」
「……うん」
兄とじっくり話したのは、無断で外出した由香を、取り乱した様子で出迎えたあの時以来だたった。
「急にどうしたの?何かあった?」
最近の変化は、急激すぎて目が回ってしまった。沢山のことが一度に起こり過ぎた。
実の母の殺害、まだ由香を狙っているのかもしれない吸血鬼の存在、倉橋依織という少女、そして、キース・ルフラン、ロザリア・ルフランの兄妹。
由香には荷が重すぎるものばかりだ。
由香にとって、叶夜は支えだ。
たった一人の大切な家族。
ずっと守ってくれていた大事な人。
不安だったのだ。
何もかもが変化していく毎日が。
だから会いたかった、欲しかった。
変わらない場所が、安心できる場所が。
「ちょっと、いろんな事が一気に起こって混乱しちゃって……。なんとなく、お兄ちゃんと話したくなったの。…………迷惑……だった……よね……」
「そんな事ないよ。言っただろ?由香は大事な妹だ。僕は、由香の為ならどんな事でもしてあげたい」
「……ありがとう」
そっと兄の気持ちを噛み締めるように、ココアを口に運んだ。
兄の淹れてくれたココアは暖かくて、それでいて何もかもが甘い。匂いも、味も、そして気持ちも。
サイドテーブルにマグカップを置ながら、由香はそっと口を開いた。
「私ね、友達が……出来たよ」
「本当に?良かったじゃないか」
「うん。千尋ちゃんっていう子と……それと……ロザリアちゃん」
ロザリアの事は正直どう処理すればいいのか分からなかった。
しかし、彼女が由香を大切に思ってくれているのは事実だ。
キースは、友達というにはあまりに距離が近過ぎる。
「ロザリアちゃん?……外国の人?」
「うん。……イギリスから来たんだよ」
へぇーと、兄は素直に感嘆を示した。
「こんな田舎にイギリス人の転校生なんて、珍しい事もあるものなんだね」
「うん」
本当に、イギリスから来たことを除いても変わった娘だ。由香なんかに懐いている。
「凄く可愛い子なんだよ」
「そうなの?僕は由香が世界で一番可愛いと思うけど」
「お、お兄ちゃん!……そ、そういうの、冗談でも心臓に悪い」
「冗談じゃないよ。本当に由香は可愛い」
この人はこういう事を妹に平然と言ってのけるところが恐ろしい。
「お……お、おっ……お兄ちゃん!」
「はいはい、由香は初で可愛いね」
顔を真っ赤にして反論する由香の頭をぽんぽんと軽く叩いて、叶夜は楽しそうに笑った。
あまりに幸福そうに笑うものだから、由香までつられて笑顔になってしまう。
「学校は楽しい?」
「うん。……大変だけど、楽しい」
「そっか!……よかったよかった。僕も嬉しいよ」
そう言って本当に自分のことのように喜んでくれる叶夜が、由香は大好きだった。
優しくて頼りがいのある兄。
大好きなお兄ちゃん。
突然、ぐっと叶夜との距離が縮まったと思ったら、いつの間にか叶夜の腕の中にいた。
ベッドに押し倒されるような状態で、体を密着させて、力いっぱい抱き締められている。
「ひっ……!?……お、おおおお、お兄ちゃん!」
「うん?」
「な、なんでこんな!」
「由香が凄まじく可愛いから、思わず抱きしめたくなった」
「せ、説明になってない……」
それにしても、この体制は如何なものか。
正直、部外者が見たら勘違いされそうなものだ。
これが兄でなければ確実に通報している。
しかし、由香を抱き締めている今の叶夜は、どこまでも無邪気だった。
今の由香には、不思議な事に叶夜が大型犬に見えていた。
尻尾があったのなら盛大に振り回していた事だろう。
しばらくすると、叶夜は由香をあっさりと開放した。
「重かった?」
「大丈夫」
「そろそろ寝たほうがいいね。部屋に戻って。ああ、……何なら添い寝しようか?」
昔は、家が狭かった為、同じ部屋で寝ざるをえなかったが、今はむしろこの状況に慣れてしまっているので、流石に添い寝は恥ずかしい。
「だ、だだだだ……!大丈夫!!」
「遠慮しなくても」
「大丈夫!本当に大丈夫!お、おおお、おやすみなさい!!」
「はい、おやすみ」
由香は引き止めようとする叶夜から、半ば逃げるようにして兄の部屋から出た。
近頃の兄は少しスキンシップ過多だ。
それでも、やっぱり兄といると落ち着くなぁと、由香は呑気に考えながら、1階にある洗面所へと向かった。
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