雁字搦め
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帰り道、和真は終始無言だった。
行きの時のように一人で勝手に先に行ってしまうことはなく、由香より少し離れた後ろを歩いており、そこから由香をじっと舐るように見ていた。
それが、たまらなく気持ち悪かった。
「由香姉、ごめん」
横にいる可奈は俯きながら申し訳なさそうにしていた。
昨日は向日葵のように輝いていた笑顔も今はなく、ただただ謝罪の気持ちで一杯に見える。
「こうなるって分かってたけど……でも、兄さんと仲良くして欲しくて……私は……」
「可奈ちゃんに悪気はないんだから、いいよ」
(それに、悪いのはきっと私だ)
由香の目の前で誰かが機嫌を損ねる時、その原因は大抵由香にある。
現に、今和真と可奈の気分を損ねてしまっている。
この場から居なくなってしまうのが一番得策なのだろうが、そんなことをすればますます加奈に心配をかけてしまう。
無謀な事は出来ない。
なら、今由香が我慢すればこの場は済む話。
いずれ、和真ともきちんと話をした方がいいのかもしれない。
(でも、今はまだ……)
自分から話し掛ける勇気がない。
後ろに目線だけを向けると、和真と目が合った。
「……なんだよ」
「……なんでもない」
帰ってきた不遜な態度に、更に凹まされた。
(こんなことで、大丈夫かな)
由香はそっとため息を付きながら、少しでも早く港家に着くように祈った。
* * *
翌日から、普通に授業が始まった。
新学年だからと言って、特に特殊なカリキュラムが行われるでもない、由香が転入前に通っていた学校と何ら変わりない普通の授業が始まった。
強いていうなら身体測定があるぐらいだろうか。
そんな平凡な日常の中で、生徒達の話題はもっぱらキースの事だった。
「ね、由香!今日の一時間目の授業、キース先生じゃない!?あー!今からすっごい楽しみ!」
転入三日目の朝、前の席に座る千尋から興奮気味に声をかけられた。
生徒達の間では、比較的にキース先生という呼称が多く、ルフラン先生と言っている人物の方が稀なように思われた。
中にはキース様と呼ぶ生徒達もいるようで、早くもファンクラブ的な存在が出来上がっているらしい。
「あ……うん。そう……だね」
キース・ルフラン。
彼の存在が由香の中の一番の不安要素だった。
確かにキースは魅力的な人ではあるが、由香には少々荷が重すぎる。
そんな人に、会う度口説かれるとなると、男性免疫のない由香には羞恥プレイ以外のなにものでもない。
先生ということは頻繁に彼とは顔を合わけることになる訳であって、由香としてももう少しキースに対して免疫をつけたいのだが、それは無理な話である。
「なにー?あんまり乗り気じゃないの?由香」
「そういう訳じゃないけど……綺麗過ぎて緊張するというか」
「由香って結構初よねー。都会っ子なんだし、もう少し恋愛経験あると思ってたんだけど」
恋愛経験。
それ程由香と真逆の言葉はないだろう。
「そ、そんなのないよ!……もてないし」
「それは意外かも。由香ってこう……なんていうんだろう。守ってあげたくなるというか、放っておくと死んじゃいそうっていうか。……出会ったばかりの私が言うのもなんだけど」
「守ってあげたくなるっていう話は別として……確かに、すぐ死にそうな顔はしてる……かな……」
現に階段から落ちて大怪我を負うところだった。
あの時和真が助けてくれなければ大変な事になっていただろう。
(和真……かぁ……)
よくよく考えてみると、彼の行動は矛盾しているように思える。
由香の事を嫌っているような態度をとったかと思えば、守ってくれた。
(訳がわからない……)
由香がうーんと考えにふけっていたその時、不意に聞こえたチャイムと、ドアの開く音と共に、美低音が鼓膜を震わせた。
「さぁ、席に着いて」
穏やかな笑みをたたえたその人に、騒がしかった朝の教室は一気に静寂に満ちた。
誰もが動きを止め、声の持ち主から目を話せずにいた。
由香にとって、嵐のような一時間目が始まろうとしていた。
「早く席に着いて。授業を始めるよ」
なかなかその場を動こうとしない生徒達に、キースはもう一度注意を呼びかけた。
一度目とは違い、今度の生徒達の動きは俊敏な物だった。
正に嵐のように友人の席から皆立ち去り、男女関係なく自分の席にダッシュで腰掛けていた。
由香はその一部始終を、どこか夢のように呆然と見ていた。
千尋になにか声をかけられたような気もしたが、キースと一瞬目が合い、微笑まれた事により、全て吹き飛んでしまった。
血のような赤い目が、深くドロドロと、どこか鈍く輝いていた。
(また……だ……)
始業式の時といい、キースは意図的に由香に接触してきている。
しかも、どう考えても、昨日の件といい由香を口説きにかかっている。
(まさか、冗談じゃなくて……本気で……?)
それこそ質の悪い冗談だ。悪夢だ。
由香はその考えを必死で打ち消すように、目の前の教科書を睨むように見た。
「今日は教科書は使わないから、気を楽にして」
キースから言われた言葉にドキリとした。
全員に向けての言葉の筈なのに、ピンポイントに言われているような気分になってしまう。
(勘違い、これは絶対に勘違い。キースさんは気まぐれか、それか、ふざけているだけ。それにこれは授業だし、何一人で妄想してるんだろう……っ!)
ガンガンと、頭を机にぶつけてしまいたい気分だった。
「今日は初めの授業だし、自己紹介だけさせてもらうよ。始業式でも言ったと思うけれど、私の名前はキース・ルフラン。年齢は二十七歳。出身はイギリス、ロンドン。日本には、ついこの前越してきたばかりで、日本語は独学で覚えた。……さてと、なにか質問はあるかな?」
ニコッと笑顔でキースがいい終わった瞬間、クラス中の女子が一斉に手を挙げた。
ただし、由香と倉橋衣織を除いて。
「先生先生!彼女はいるんですか!?」
「いないなら、好きな人いますか!?」
「す、好きなタイプ教えてください!」
雪崩のような質問の数々に、キースは少々苦笑いだった。
だが、それも少しの間の話であり、また元の余裕そうな裏の読めない笑顔を浮かべると、流れ作業のように質問をこなしていった。
「まずは、最初の質問から。彼女はいないよ。今は」
いないという言葉に、黄色い歓声が走った。
中には動揺のあまり、卒倒してしまう生徒もおり、男子達は半ば同情、半ば呆れの眼差しでその光景を見守っていた。
「でも、好きな人はいる」
その言葉と同時に一瞬だけ、由香の方に視線が向いた。
思わず由香は息を呑んだ。
「ずっと、好きな人がいる。……でも、残念な事に、何度も口説きにかかっているのに、本気には取り合ってくれないし、それどころか、冗談だと思われる始末で、なかなか振り向いてもらえそうにはなくてね」
「先生でも振られるんすかー」
からかう様な男子生徒の台詞に、一瞬ぴくりとキースの眉が動いた気がした。
「……まぁ、確かに連敗中ではあるかもね。それでも、好きだから諦められない。……大切な、本当に、大切な人だから」
美貌の青年の心底愛しそうな眼差しに、クラス中の女子が釘付けになった。
それは由香も例外ではなく、頬が赤くなるのを隠さずにはいられなかった。
胸の中で聞かずにはいられない。
ずっと昔からとは、どういう意味なのか。
それはやはり、昔由香と会ったことがあるということなのか。
一体昔なにがあったのか。
それなのに、どうして由香は覚えていないのか。
由香の思考回路を打ち切ったのは、キースの手を叩く音だった。
「はい、この話はここまで。……他に質問は?」
その後も雪崩のように質問は続き、あっという間に授業終了の時間となっていた。
「名残惜しいけれど、今日はここまで。……嗚呼、青桐さんは少し用事があるから付いてくるように」
やっと開放されるとほっと一息ついたのも束の間。
「はっ……はいっ!」
突然のことに、返事が裏返ってしまった。
一体何の用なのだろうか。
あんな告白紛いのことを言われて、まともに顔を合わせる事が出来る程厚顔ではない。
(絶対に……挙動不信になる……っ)
勘弁して欲しいという由香の無言の願いは届かず、無常にも授業終了の号令が掛けられてしまった。
「青桐さん、こっちへ」
ドアの外からの催促に、由香はもつれそうになる足を必死に動かしてキースの元へ向かった。
廊下を歩く途中、キースはずっと無言だった。
一昨日言ったことはあながち嘘ではないようで、公私の分別はきちんとつけているらしい。
まじめに、教師らしくしている。
由香の事を青桐さんと呼んでいることからも、それは明らかだろう。
気になることといえば、廊下を歩く生徒達の視線が気になることぐらいだ。
だが、その殆どはキースに向けられているものだと分かっているので、由香は吐き気を堪え、無言でキースの背後をついて歩いた。
キースに連れてこられたのは、資料室だった。
授業で使われる教材が保管されているこの部屋は、通常なら生徒が入ることは出来ない。
由香の前いた学校ではそうだった。
一体こんなところに何の用があるのだろうか。
扉を開けたキースに続いて渋々中へ入る。
そして、戸を締めた瞬間、キースの纏う空気が明らかに変わった。
先程までのまじめな、教師の鏡のような態度を貫いていたのとはうって変わって、初めてあった時のような、妖艶な、恋人に向けるような眼差しに変化した。
「由香、私の気持ちは伝わったかな」
呼び方も変化し、完全にここにいるのは教師としてのキース・ルフランではなく、一男性としてのキース・ルフランだった。
「あの……用がないなら私はっ……」
なんだかまずい気がして、帰ろうと後ずさると、そんなことは許さないと腰を軽く抱きとめられた。
「きっ……!」
「用ならある」
「キースさん……冗談はっ……!」
本当にやめて欲しい。
羞恥心で死んでしまいそうだった。
逃げたいのに逃げられない。
赤い目にじっと見つめられて、いつのまにやら雁字搦め、気付いた時には退路は塞がれている。
完全に壁際に追い込まれ、抱き締められている状態。
しかも、顎を無理矢理上に上げられ、強制的に目線を合わせられている。
「さっきも言ったけれど伝わらなかった?……冗談でこんな事を言う程酔狂な性格はしていないよ」
「わ……私……」
「私は、君が好きだよ。冗談ではなく、本気で」
もう、なにも言えなかった。
真剣に口説かれている。
そのあまりに現実離れした状況に、由香は考える事を放棄した。
「今すぐにとは、言わない。……ゆっくりでいいから、私を好きになって欲しい」
「……キ……」
気が付いたら、すぐ目の前にキースの顔が目の前にあった。
ああ、キスされるんだな。
妙に冷静に、由香は熱にうかされたように、ぼーっとキースを見つめていた。
そして、唇が触れる直前。
「ルフラン先生。資料、持ってきましたんで置いときますね」
扉が、開く音がした。
「……!!」
理性を取り戻した瞬間、由香は全力でキースを押し戻していた。
扉の前に立っていたのは、いつもの何倍も不機嫌そうな、殺意すら抱いていそうな程苛立ちを顕にした和真だった。
「……行くぞ」
「あっ!……なっ!?」
キースを押しのけ、和真は無理矢理由香の手を掴むと、キースを憎悪の篭った眼差しで睨み付けると、由香の手を引き、ずかすかと教室を出た。
「……お前は馬鹿なのか」
苛立ちを顕にした和真に無理矢理階段裏に連れ込まれると、開口一番、彼は皮肉ったような口調で嘲り笑いを浮かべた。
「馬鹿っていうレベルじゃない。そのアホさはむしろ天才レベルだ。いいか、俺が行かなかったらお前はどうなってたと思う?え?」
「え……え……?」
てっきり、ただただ罵倒されると思っていたのだが、これはもしやとは思うが
(心配……されてる……?)
「そもそも、なんで過去と同じ失敗を繰り返そうとするんだこの糞女!!」
「あ……えっと……ありがと……う?」
「なんでこのタイミングでお礼を言うんだ。お前は本当に馬鹿か!?」
心底呆れきった和真の言葉に、由香はもしかして、この人はなにも変わっていないんじゃないかと思った。
ただ、悪ぶっているだけで、根本はなにも変わっていない。
それが、正しい結論の気がした。
だから、由香は、場違いだと分かってはいたが、思わず笑ってしまった。
その時の和真の引き摺ったような、鬱陶しいものを見るような、心底憎たらしいものを見るような目付き。
それらに、由香はひっと小さく声を上げて震えてしまった。
由香はやはり、さっきまでの思い込みは勘違いだったのだと思い知った。
「いいか。……なにを勘違いしたのか知らねーけど、俺は、可奈に頼まれただけだ」
とんだ思い違いだった。
この人は由香を助けたくて助けた訳じゃなかった。
妹に頼まれたから、友達の妹だから、仕方なく、助けてくれただけ。
この人はやっぱり違う。
昔の和真と似ているようで、似ていない。
別人だ。
「あー……助けて損した」
去っていく背中を呆然と見つめながら、由香は二時間目のチャイムの鳴る音を聞いた。
(落ち込んでる場合じゃない……!)
急がなければ遅刻確定だ。
転入してすぐにそんな自体は避けたい。
由香は遅刻しまいと、人もまばらになった廊下を全速力で走り出した。
そんな由香の背中を、キースは遠くから不気味な笑みを浮かべながらじっと眺めていた。
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