大事なお客様
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「……か……由香」

誰かに名前を呼ばれ、軽く身体を揺すられる。

日だまりの様に温かい揺り籠の中はぽかぽかと心地よく、このままずっとこうしていたかった。

身体だけでなく、心まで不思議と癒されていく。

暗いのに明るい、寒い筈なのに温かいと感じられる闇に包まれていた由香は、起きたくないと駄々を捏ねる様に伸ばした手が触れた布を、その手でぎゅっと握りしめた。

その瞬間、由香を揺すっていた手が止まった。
変わりに感じられたのは、クスリと誰かが穏やかに笑う声だった。

「……こら」

咎める様に囁かれた声は、内容とは反対に甘い。
優しく、撫でられる様に髪に手を絡められ、由香の意識は更に深く、底無し沼の様に落ちていく。

「でも、今は駄目だよ。……ほら、起きて。」

再びゆらゆらと揺すられて、由香は沈みかけていた意識が浮上していくのを感じた。

そのままパチリと目を開けると、由香の視界は黒に塗りつぶされていた。
回りは明るい青空が広がっているのに、由香の眼前だけが黒い。
目蓋の裏にあった闇と同じ、暗い色。

しかし、次第に意識が覚醒し目が慣れ始めると、黒い物体の正体が認識出来る様になった。

そして、由香は気付いた瞬間目を見開いて驚いた。

「なっ……!?」

咄嗟にそう叫んで、思わずそこにあったキースの顔を仰視してしまう。

「おはよう私のお姫様、……ようやくお目覚めかな?」

にっこり笑っているキースを見た瞬間、自分の置かれている現状に気付いて、由香はショック死しそうになった。

(もしかして……寝てた…?)

もしかしなくても、この状況にから考えて、キースに抱き抱えられたまま寝ていたのだろう。

(死にたい……)

穴が在ったら入りたい。

切実にそう思った。

初対面の相手にお姫様だっこされ、挙げ句の果てに、その腕の中でぐっすり気持ち良さそうに寝ていたとなれば、死にたくもなる。

それ以前に常識がなさすぎる。初対面の相手に抱き抱えられて寝られる等図太すぎる。

由香としては、自分は神経質な人間で他人等ろくに信じられないと思っていただけに、そのショックの度合いは凄まじかった。

「……ごめんなさい」

縮こまってそう言う由香とは反対に、キースはかなりご満悦な様子だった。

横で観察するように見ているロザリアも、機嫌が良さそうだ。

「構わないよ。それより由香、前を見て御覧」

(前…?)

キースに言われるままに前を向くと、そこには見事な洋館が木々に埋もれるようにして建っていた。

古そうなのに、管理が行き届いているせいか、傷一つない洋館は、回りの状況も相まって、由香には一層現実味がなく見えた。

(こんな場所に洋館なんてあった…かな…?)

由香の昔の記憶には、こんな場所はなかった。
この洋館からは相当時代を感じるので、かなり前からここにある筈。

(あとで伯母さんに聞いてみよう)

自分がたまたま知らなかっただけで、実は昔からあったものなのかもしれない。

そんな事を考えている間に、館は由香の目の前に迫っていた。

キースにゆっくりと近くに下ろされた瞬間、今度はロザリアに右腕に抱きつかれる。

なにか言おうと思ったが、ロザリアのキラキラ輝く笑顔に何も言えなくなってしまった。

その間に、キースの白い手袋に包まれた手が古びた大きな扉をゆっくりと押し開けていく。

ギギギギという音を立て開いていった扉の向こう側の光景に、由香は目を疑った。


見事なシャンデリアで照らされた、カーテンを締め切られた薄暗くも美しい広間。

深い血のような赤いカーペットが敷き詰められた部屋の隅には、燭台を抱えた召し使いらしき女性が一人立っていた。

顔の左側をグルグルに包帯で巻かれている赤毛の女性は、由香達の近くに静かに歩み寄ると、おかえりなさいませ、と丁寧にお辞儀をした。

「ああ、ただいま。キャロライン、彼女は由香。大事なお客様だから、丁重におもてなしするように。」

キャロラインは、キースの言葉に無表情で頷くと、こちらですと、由香を一瞥してからゆっくりと歩き出した。

移動の間、終始由香の右腕はロザリアにガッチリホールドされ、左手はキースに繋がれていた。

由香は二人に離してほしいと訴えようとしたのだが、二人の嬉しそうな顔を見ていると、やはり何も言えなかった。

そうこうしているうちに、食堂のような場所に着いた。

優に10メートルはありそうなロングテーブルに、暖炉。

大きな窓は玄関同様すべてカーテンに覆われており、やはり薄暗い。

シャンデリアの灯りに照らされた、テーブルの上の壺に入れられた、真っ赤な薔薇が純白のテーブルクロスによく映えた。

(凄い)


「由香、どうしたの?」

ぼーっと部屋を由香が見渡していると、ロザリアが不安気に由香の顔を覗きこんできた。

腕を握りしめる力も心なしかすがるように強くなっている。

「なんでもないよ……。ただ、凄いなって」

「凄いって?」

コテンと可愛らしく小首を傾げながら由香に尋ねるロザリアは、由香が男なら確実に惚れる程に可愛らしかった。

「このお屋敷、なんだかお城みたいで素敵だなって思ったの」

心配そうなロザリアを安堵させるように、自分に出来る精一杯の笑顔で答えると、彼女は嬉しそうにして、由香に身体を寄せて微笑んだ。

「気に入って貰えて光栄だよ。…さあ、座って。」

キースに促されるままに、近くの椅子に座ると、二人は由香の両隣の椅子にそれぞれ座ってきた。

たくさん椅子はあるのだからわざわざこの場所に固まらなくてもいいじゃないか、と思ったが、こんな綺麗な二人相手に意見するなんてとてもじゃないがやはり由香には出来なかった。

三人が席についた瞬間、キャロラインがクッキーと紅茶の入ったポットとティーカップを持って表れ、カタカタとすばやくお茶の準備を始めた。

キャロラインは一番初めに客人である由香のカップにお茶を入れてくれたのだが、それが由香にはやはり申し訳なくて、由香はキャロラインに小声で「ありがとうございます」と告げた。

すると、キャロラインはその無表情に僅かに驚きを滲ませたが、すぐに「いえ」とだけ言ってキース、そしてロザリアの順でお茶を入れていった。

キャロラインはお茶を入れ終えると、「ご用があればお呼びください」とだけ告げて、そそくさと部屋から退場して行ってしまった。

部屋には美しい兄妹と由香だけが取り残される。

「そんなに緊張しなくても、別になにもしないよ?」

緊張で固くなっていた由香を見たキースは、頬杖をつきながらクスリと悪戯っ子のように微笑んた。

「い……いえ……」

緊張しなくていいとは言われたが、これで緊張しない方がおかしいのではないだろうか。

綺麗な兄妹に挟まれた平凡な自分。
こんなちっぽけな自分が大切にされているという罪悪感と錯覚に、ほんの少しの優越感。

ますますガチガチに固まる由香に、キースは平然ととんでもない事を言ってのけた。

「ほら、リラックスして。私は君が好きだから、君には寛いで欲しいんだ」

「すっ…!?げほっ!!がっ…!?」

あまりの爆弾発言に、由香は緊張を紛らわすように飲んでいた紅茶を思いっきり肺に入れてしまった。

げほごほと盛大に、目に涙まで浮かべて咳き込んでいる由香の背中を、ロザリアは優しくさすっていてくれた。

対するキースは由香に背中を向けながら笑いを必死に堪えて、肩を微かに震わせていた。

「お兄様、あんまり由香に意地悪しないであげて」

「わかっているよ」

呆れた様子のロザリアの苦言を聞きながら、キースはにこやかに、キラキラと光を飛ばしながら笑っていた。

「私も……そこまで過剰反応するとは思ってなかったよ」

頗る機嫌が良いキースとは対照的に、由香の心臓ははち切れそうだった。
もう少しキースは自分の綺麗さを自覚した方がいい。

(し……心臓に悪い……)

由香は今日一日で大分寿命が縮まった気がした。

「じょ……冗談はやめてください」

冗談にしても質の悪い冗談だ。
由香は唇を噛み締めながら、小さく震える声でキースに反論した。

「おや、冗談だと思われるのは不本意だね。私は本気で君を愛しているのだけれど」

そう言ったキースの目は、確かに愛しい者を見るような目をしていた。

(やめて……)

そんな目で私を見ないで。

私は愛されてはいけないのだから。

汚くて駄目な私を瞳に写さないで。

そんな感情が由香の頭の中をぐるぐると回る。

この二人とは初対面の筈なのに、二人は由香をさも大事なかけがえのない人間のように扱う。

だから勘違いしてしまう。

自分は必要な人間。存在する価値のある人間なんだと。

そしてこの二人といることに安心感を覚える自分が、由香は一番嫌いだった。

「愛してるなんて言わないでください……。第一初対面……です」

そう言った由香を見ながら、キースはクッキーの一つを口にいれてばりっと噛み砕いた。
由香も、あのクッキーと同じで簡単に壊れてしまう。潰れてしまう。消えてしまう。

「Depuis le premier jour, je t'aime.」

「え……?」

長い睫毛を伏せながらぼそりと呟かれたキースの言葉は、由香の知らない言葉だった。
どこか異国の言葉である事は分かるのだが、由香はあまり外国の言葉に詳しくないので、どこの国の言葉なのかはわからなかった。

由香が意味を問おうとすると、ロザリアがそれを遮るように話しかけてきた。


「由香、そんなに落ち込まないで。…私、由香が好きなの。年齢も性別も外見だってどうでもいい。…由香が由香なら、私はどんな由香だって大好き。だって私は由香が…『青桐由香』という人間が好きだから」

だから、笑って頂戴。

ロザリアはそう言って、心からの微笑を由香に向けた。

普通なら、こんな可愛い子に微笑まれると嬉しくなるものなのだろうが、しかし、由香にはひとつ引っ掛かる事があった。

(あれ…?私…ロザリアちゃんに名字教えたかな…?)

確か、由香はロザリアに下の名前しか教えてはいない。

ロザリアとは、港家の前で出会ったのだから表札は『青桐』ではなく『港』。
青桐の名字は分からない筈。

ならば何故

(どうして……私のフルネームがわかるの…)

もしかして

(私と前に会った事が……ある?)

その可能性が浮かび上がってきた。
だがそう考えれば、二人の親しげな態度も納得がいく。
初対面の相手に、愛しているだの好きだの、普通なら言えない。

常識的に考えて言う訳がない。

しかし、由香は二人を覚えていない。
二人も、初対面の様に由香に名前を名乗った。

だが明らかに、二人の態度は由香とは違う。
親しげな、下手をすれば冗談ではなく本気で愛しているとまでも言える態度。

それでも、由香に名乗ったと言う事は

(私に……合わせてる……?)

由香が自分達の事を忘れている、覚えていない事を分かっていての態度なら納得出来なくはない。
由香は忘れているが、二人は由香を覚えている。
そして、少なくとも愛しげな眼差しを向ける程には、由香は彼らにとって大事な存在だった。

それなのに、由香の記憶には二人は存在しない。

(二人は……私の何……?)

そこまでたどり着いた瞬間、由香の頭に割れる様な痛みが走った。

「いっ……!?」

体がグラリと傾き、椅子ごと地面に倒れる。

ガタンという衝撃音と供に、二人の「由香!?」という悲鳴が食堂に響き渡る。

(痛い……っ!!)

それは、頑なに由香にそこから先を考えさせるのを拒絶している様だった。

強制的に思考を中断させられる。

頭を卵に例えるなら、卵から出ようとする雛に、内側からガンガンと盛大に命懸けでくちばしでつつかれる。

否、雛という形容は間違っているかもしれない。
雛というには、力は言葉では表せない程強力で、中から蝕まれ頭をかち割られていく、正にそんな感じだった。


「由香、……落ち着いて」

キースの慰めるような声と共に、由香の額に冷たい掌が当てられる。

そのままゆっくりと額を撫でられていると、次第に気分が落ち着いていくのを感じた。

「余計な事は考えないで」

キースの言葉通りに無心になってみると、痛みは次第に引いていった。

「いっ…………は…………ぁ……」

「由香、大丈夫?」

痛そうに頭を抱えて起き上がった由香の眼を、ロザリアは静かに覗きこんだ。

血のような深い赤色の瞳に写るのは、心配の色だけだった。

「大丈夫、ありがとう」

由香がそう返すと、ロザリアはそっかと心底嬉しそうに微笑んだ。

二人を横から眺めていたキースは、キャロラインを呼び寄せると、由香に聞こえないようにそっと指示を出した。

キャロラインは、キースの言葉に顔色を何一つ変えずに頷くと由香の元へ歩みより膝まずいた。

誰かにかしずかれた経験など持ち合わせていなかった由香は、酷く困惑した。

他人に迷惑しか掛けられない自分に、親切にされる価値なんてない。

大切にされる理由なんてない。

「あ……あの……キャロラインさん」

「キャロラインで結構です」

あたふたとする由香を無視して、キャロラインは相変わらず無表情で淡々と話を進めていった。

キャロラインは本当に必要な事しか話さない。機械のように、ただただ命令どうりに動く人形。
それに加えて包帯で痛々しく覆い隠された顔の左半分。
その下にどんな傷が隠されているのか、由香には全く予測できないがかなり痛々しいものがあるのだろう。

由香は機械のようなこの女性を、正直気味が悪いと思った。

「これからお部屋にご案内させて頂きます。どうぞ」

彼女は近くにあった燭台の炎をランタンに移すと、またしても戸惑う由香を無視して機械的に扉を開けて昼だというのに光ひとつ射さない暗い廊下を進んでいった。

キャロラインの進んでいった廊下に恐怖感を覚えたが、それよりも由香はキースに言いたいことがあった。

「あの!さ!部屋なんて用意していただかなくても!」

部屋を用意してもらう程具合は悪くないし、早く帰らなければ伯母に心配をかけるかもしれない。

なにより、手間をかけさせるのは忍びない。

あたふたしっぱなしの由香を見ながら、キースは心底楽しそうに笑っていた。

「ああ、気にしなくていいんだよ。私が勝手にやっている事だから。遠慮せずに休んでいって」

そこにさらにロザリアが追い討ちをかけた。

「そうよ、由香。無理して倒れたりしたら大変だもの!お兄様の言う通り休むべきだわ!」

「ロザリアちゃん、私はっ!」

「……ねぇ、いてくれるでしょう?」

ぞわりと、由香の身体に悪寒が走った。
由香の手を握りながら話されたロザリアの声はとても穏やかなものなのに
、彼女の顔に笑顔など浮かんでおらず無表情だった。

鈍く光った血色の獰猛な瞳に捉えられると、なにも言えなくなってしまう。

「キースさん……私……」

助けを求めて咄嗟にキースに話しかけても、無駄だった。

「遠慮しないでと言っただろう?」

ロザリアと同じ不気味な程美しい瞳は、由香から抗う力をじわじわと奪っていく。

「行こう?由香」

天使のような顔をした可愛らしい悪魔は笑う。
由香の手を引きながら、無邪気に微笑む。

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