7.浸透
次に目を開いた時、イヴは、この世界に迷い込んで最初に目にしたあの長い長い回廊の中に、ぺたんと一人で座り込んでいた。
周りには誰もいない。
初めてここに来た時と、全く同じ状況に、レボルトといたあの時間は全て夢幻だったのではないかと思えた。
だが、確かに唇にはあの時のキスの感触が残っていて、イヴは、無言で鏡に映る自分を見つめながら、唇をそっと押さえた。
「なんなのよ…………」
ぼそりと、そう思わず口からつぶやきが漏れた。
初対面のくせに、やたらと馴れ馴れしくて、鬱陶しい男だった。
現実で会ったなら、間違いなく関わりたくない人種。
ああいうタイプの人間は、現実ではだいたい輪の中心にいる。
皆から好かれているのに、飄々としていて大切な部分は何も見せない。
教室の隅で、一人本を読むのが好きなイヴとは本質的に違う。
人が迷惑被る様を見て、面白がっている。
だから、嫌いなのだ。
(あれ……な……んで…………)
どうして、全部忘れていた筈なのに、そんな事が分かるのだろうか。
もしかすると、レボルトの言うとおり、ここにいるだけで、自然と記憶が戻ってくるのかもしれない。
それにしても、思い出したのは、なんとも嫌な記憶だった。
記憶の中のイヴは、教室の隅、皆が楽しんでいる中、一人孤独に本を読んでいた。
だが、本人はそれが嫌だった訳ではない。
他人と関わる事は好きじゃなかった。
一人でいるのが好きだった。
本が、大好きだった。
小さい頃から、家にあるありとあらゆる本を読み漁った。
それだけが、本だけが、信じられるものだった。
それなのに……
(思い出したくない……)
そこから先は、見たくなかった。
だから、思い出さないようにした。
頭を抱え、目をきつく閉じる。
別れる直前、レボルトは言っていた。
死を願ったり、心に迷いがあるとここに迷い込んでしまうのだと。
(現実の私は……なにか、悩んでいた)
そして、絶望したのだろう。
消えたいと、願ったのだろう。
思い出さなければならないのは分かっているが、全て思い出すのはもう少し先が良かった。
(緋人…………)
今は、とにかく彼に逢いたかった。
彼なら余計なことは言わないで、黙っていてくれる。
慰めなんていらない。
ただ、側にいてくれればいい。
慰められたい訳じゃない。
同情されたい訳じゃない。
その点、レボルトは適任ではない。
彼は、イヴに対してやたらと優し過ぎた。
イヴは、目を開けるとふいと鏡から目を逸らした。
鏡は、レボルトの部屋の一件から嫌いになった。
また、ユウに会うのは御免だ。
(……まずは、緋人を探しましょう)
脱出するなら、彼も一緒がいい。
それに、イヴが彼と会いたかった。
そうと決まれば歩き回らない事には始まらないと、イヴは重たい腰を上げた。
ひらひらと、黒いワンピースがイヴの動きに合わせて揺れる。
一歩踏み出すと、コツンと黒いブーツが地面にあたって音を鳴らした。
静寂を、イヴの足音が掻き乱していく。
どれ程歩いただろうか。
足が痛くなった頃、遠目に人影が見えた。
こんな所にいる人間は限られてくる。
思わず顔に笑顔が浮かんだ。
「緋人!!」
遠くの人影に向かって、声を上げて駆け出す。
一刻も早く彼に逢いたかった。
黙って頭を撫でて欲しかった。
この孤独を埋めて欲しかった。
そして、人影まであと20メートルという辺りで、その人は振り返った。
その瞬間、イヴは目を見開いた。
息が、止まるかと思った。
「やあ、こんにちは」
振り返った、黒髪黒眼に色白の美青年は
怖い程の満面の笑みを浮かべたユウだった。
殺されるのだと思った。
脳裏を過ぎったあの時の壮絶な光景に、死を覚悟した。
だが、ユウはイヴに向かって、丁寧に紳士のように一礼すると、にっこりと人のよさそうな表情を浮かべただけで、なにもしては来なかった。
「ようこそ、楽園へ。僕はここの……まあ一応主なのかな?名前は、だいたいユウって呼ばれてるけど、好きなように呼べばいいよ」
(な……なんなのかしら)
あまりの態度の差に、拍子抜けしてしまった。
これは、どこからどう見ても歓迎されているようにしか思えない。
(普通に良い人そうだし……まさか別人?)
だが、確かにユウと名乗っていたし、別人の線はないだろう。
だが、それよりイヴは引っかかる所があった。
「ねぇ……今主って言った?」
「うんそうそう。君らの世界で言う神っていうのになるらしいね。一応」
絶句。
まさにその表現が正しいだろう。
衝撃の事実になにも言えなかった。
(え、こんな変な人が神様?私達、こんな人に祈ったりしてるの?……ないわ)
「顔に出てるよ」
「はっ……!」
今凄く失礼な事を考えてしまっていた。
もしかしたら、ブチ切れられて殺されてしまうのだろうか。
そう思いビクビクしていると、ユウはハハハと声を上げて笑い出した。
「別にとって食ったりしないって。……今は」
今はということは、あとでとって食ったりするということなのだろうか。
「君、冗談通じないねー。ま、素直な事は悪いことじゃないさ。僕は好きだよ。素直な人って」
「ど……どうも」
初対面が初対面なだけに、ビクビクしっぱなしだ。
凄く優しそうな人なのだが、どうも疑念は拭えない。
そう簡単に騙される程単純思考はしていない。
「歓迎するよ。えっと……名前はなんて言うのかな?」
そう聞かれて、イヴは一瞬躊躇った。
だが、ごくりと息を呑むと、そっと名前を口にした。
「……イヴよ」
レボルトから貰った、仮の名前を。
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