5.慰撫



ユウが去り、再び恐いほどの沈黙が落ちた部屋の中で、イヴは無言でベッドの下に蹲り震える事しか出来なかった。

頭の中に浮かんだひとつの可能性。
それは、最悪の予測だった。

もしかすると、イヴというのは、記憶を失う前の自分自身の事なのではないか。
そして、ユウに狙われているのは正に自分のことなのではないのか。

イヴは、無知ではなかったし、愚かでもなかった。
聡明とまでは言わないが、察しのつく人間だとは自分自身でも理解していた。

それ故に、現実から目を逸らすことを憎み、愚かな事だと嫌悪していた。
現実から目を逸らすのは、愚か者の行動だ。
事実から目を背け、虚構を作り上げる事は、所詮逃げているだけ。なんの解決にもなりはしない。

だから、今、必死に浮かび上がった可能性から目を逸らしている自分に、あからさまな嫌悪感を覚えた。
ただ、震える下唇を必死に噛み締めていた。

「……大丈夫?」

「…………っ!!」

突然、シーツをまくり揚げ、ベッド下を覗き込んできたなにかに、イヴは声にならない悲鳴をあげた。

冷静になり、それを見つめると、心配そうな顔をしたレボルトだった。
彼は、小動物のように震えているイヴの
姿を認識すると、その雪のように白い腕をそっと差し出してきた。

「…………だ…………じゃ……ないっ!」

イヴはその、彼なりの気遣いを、右手で思いっきり振り払った。
息も切れ切れ、無理をしていることは見え見えだろうが、彼はあえてなにも言って来なかった。
それが、今のイヴにはありがたかった。

「……一人で、立てる」

ベッド下から這い出して、ゆっくりと立ち上がろうとした。
だが、がくがくと全身が震えていた。
脳裏に過るのは、あの割れた鏡の中から現れた、白い生気のない腕。

それでも、力を入れて無理に立ち上がろうとした。その時、床に流れていた大量の血が、目に飛び込んできた。

「あ…………ぁ…………!」

吐き気が、した。

「……が……は……ぅぇ……っ!!」

脳裏に過るのは、ぶちっと人肌を突き破り割れたガラスが食い込んでいく、あの情景。
自分の手のひらを、鋭い刃物で貫かれる様を想像して、イヴはとてつもない嫌悪感と嘔吐感、拒否反応に襲われた。

あまりの苦悶に、その場にしゃがみこむと、血相を変えたレボルトが、いつのまにかイヴの背中をさすっていた。

「……ごめん」

何故、レボルトが謝るのか。
優しい手つきに、涙が溢れてきた。

「……無理しないで。吐いたほうが、楽になる」

そう促され、自分の中にあった嘔吐感が一気に増し、イヴはそのままその場で胃液を吐き出していた。
なにも食べていないので、沸き上がってくるのは刺激臭のする消化液だけ。
もう、なにも吐くものはないという状況になっても、一向に吐き気は収まろうとしなかった。

「……イヴ」

唐突に、名を呼ばれた。

「……気分を害したら、ごめん」

なんだろう、と思ったらいつのまにか、レボルトに抱き締められていた。
細いのに、意外と力があるんだなーとか、男のくせに髪がサラサラしてるなーとか、近くで見ても、やっぱり、整った顔立ちをしているなーとか、どうでもいい事ばかり考えていた。
あまりの事に、それしか考えられなかった。

どうして、こんなにも良くしてもらえるのだろうか。

そんな事を考えたが、今は考えたくなかった。
だから、イヴは自分が一番嫌いな、現実逃避というものを実行することにした。

この世界は舞台だ。
私は、イヴ嬢の代役。

役者がいなければ、舞台は回らない。
どれだけ素晴らしい脚本、セットが揃っていても、キャストがいなければ、ドラマは始まらない。
これは、舞台だ。

イヴ嬢という、ヒロインが抜けてしまった舞台。

イヴは、イヴ嬢の代役。

ここで、イヴ嬢=イヴという事はあえて考えない。
そうでなければ、精神がおかしくなりそうだった。

ここまで、誰かに必要とされるなんて気持ち悪い。
誰かがいなければ狂ってしまうなんて、おかしいと思った。

しばらく、背を擦られていると、ようやく少しだけ落ち着きを取りもどせた。

「…………ちょっと、落ち着いたわ。……ありがとう」

それでも、まだ恐怖は拭えない。
自分が何者なのか分からない。
そして、ユウに異常に愛されているイヴ嬢という人物。

自分が、イヴ嬢かどうか。

レボルトはきっと全て知っている。
だがおそらく確定しているそれを、レボルトに聞く勇気はイヴにはなかった。

「そう、落ち着いたなら何よりだよ」

貼り付けた顔で、おどけた様に笑うこの男はまるで道化だ。
おそらく全て知った上で、わざとふざけたように振舞っている。

この男も、悪趣味極まりない。

先ほどまでの焦った顔はどこへやら。
次にイヴが彼を見た時には、レボルトはへらへらとした笑みに戻ってしまっていた。

「あなた、もうちょっと誠実そうにすれば、もう少しまともになるんじゃないかしら」

「そう?それが君の好みなら、変えるのはやぶさかではないけど。なんなら、騎士のように忠誠でも誓おうか?」

「冗談よ。誠実そうなあんたなんか、想像したら気持ち悪いわ」

「はいはい、イヴさんはお口が悪いようで」

「悪かったわね、悪態ばかり吐いていて」

「そんな事はないよ。それも君の個性だ」

「あっそう。どうもありがとう」

そして、再び間に沈黙が落ちた。
ぎゅっと、強くレボルトのシャツを握り、イヴは静かに口を開いた。

「……ここは、なに?」

「言っただろう?……ここは楽園。神に作られた神のための世界。そして、アダムとイヴのふるさと。挽いては全人類のふるさと。……君の、故郷でもあるんだろうね」

「……あなたは、どうしてこんな場所に住んでるの?」

「俺は、番人だから」

「……番人?」

「そう、番人。俺は、この世界に勝手に人が入ってきたり、逆にここから人が出て行ったりしないように、この世界の出入り口をいつも、見張っている。
ここには、迷い人が訪れる。人生に行き詰まったり、死にたいと考えたりしていると、いつのまにか、迷い込んでしまう。
迷いがあると、人は深層心理に刻まれた、人類の生まれた場所である楽園に戻ってきてしまう。
でも、楽園とは名ばかりでここはそんなにいいところじゃない」

レボルトは、イヴの長い髪を梳きながら、淡々と話を進めた。

「俺の目的は送り返してあげること。でも、帰りたいなんていう人、俺は見たことがない。確かに……最初は楽しいかもしれない。ユウ様だって歓迎してくれるさ。でも、ここに長く居座るとね『狂ってしまう』んだ」

狂う。
淡々と、なんの感情も篭っていない。
事務的に処理されていく事実に、イヴは静かに息を呑んだ。

「ここは、……神の感情により、形を変える迷宮だと言った。それは間違いではないけれど、楽園の本質は、別の部分にある。
楽園は生命が生まれた場所。……この場所にいると、人々は理性を失い本能のままに生きるようになる。欲しいものを手に入れる為には手段は選ばなくなるし、人殺しだって出来る様になる。監禁、調教なんでもござれ。
ねぇ、イヴ。……理性という箍を無くしてしまえば、人っていうのは簡単に壊れてしまうって知ってた?」

そこで、レボルトの声のトーンが下がった。
蛇のような鋭い眼光で射抜かれ、イヴは背筋がぞっとするのを感じた。
と、突然、真面目な顔をしていたレボルトがにっと悪戯っ子のように歯を見せ、笑ってみせた。

「なーんちゃって、冗談なんだけど、もしかして真に受けた?」

レボルトのことだ。もしかしたら、本当にすべて嘘なのかもしれない。
だが、にわかに嘘だと信じることはイヴには出来なかった。
だから、イヴは

「……悪趣味極まりないわね」

そう言って、彼の胸を静かに押し返した。


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