4.破鏡



パラパラと、割れた鏡が雪のように部屋の中に降り注ぐ。
ベッドの下から見るぶんには、ダイヤモンドダストのようだが、部屋の中に立っているレボルトはもろに当たってしまっている。
粉雪のようでも、あれは鏡の破片。
当たればただでは済まない。
レボルトは、必死に両腕で顔を覆っていたが、それでは到底全ての欠片は防ぎきれない。
ガードしていない体には、モロに破片が当たっているようだった。
唯一の救いは、彼の服が長袖長ズボンの黒いスーツだったということだろうか。
それらのおかげで、なんとか皮膚への接触は防げている。

やがて、鏡の雨が止むと、バラバラに砕け散り、とげとげとした割れた鏡面が残っている鏡のフレームを、外側から、白い腕が『掴んだ』。

外側から伸びてきた何者かの腕は、自身の掌から血が出ている事など全くきにせず、そのままぐっと力強くフレームを掴む腕に力を入れた。

当然、尖った鏡が、その腕に、更に深くずぶりと鈍い音を立てて、食い込んでいく。
食い込めば食い込むほど、ぼたぼたとフレームを伝い、真っ赤な鮮血が白い部屋を犯していく。
普通なら発狂しているだろう行為をしているのに、腕の主は全く叫ぶことはせず、無言で部屋に侵入しようと、掌に欠片が食い込む事など気にも留めなかった。

「ぅ……っ……!」

イヴは、その異様すぎる壮絶な光景を、ベッドの下で直視してしまった 。
今になって、レボルトの意志が理解できた。
レボルトは、この腕の主をイヴに引き合わせたくなかったのだろう。
そして、なにより、この常軌を逸脱した行為を見せたくなかった。

だが、イヴは深々と肉に物体が食い込んでいく様を見てしまった。
そして、思わず嗚咽のような呻き声を上げてしまった。
慌てて口を塞いだものの、時既に遅し。
先程まで、躊躇なく破片を握り無理矢理空感を破ろうとしていたなにものかの腕が、一瞬、イヴの存在を認知したかのように、止まった。

「………………っ!!」

声にならない悲鳴を上げ、目を見開く。

鏡の前に立っていたレボルトが、息を呑んだ気がした。

やがで、バキィッと鈍い音がしたかと思うと、割れた鏡のフレームの中から、両腕を血塗れにした、一人の黒髪の男が現れた。

男は腕は、ベッドの下から見ても明らかにざっくりと裂けており、そこから脈々と鮮血が滴り落ちていた。

男の表情は、俯いていたため全く見る事が出来なかった。
ただ、分かるのは、この男は常人ではないということだけ。

「……どこ」

開口一番、下を向きながら男はそうボソリと、誰に向けてでもなく呟いた。

「どこにいる?」

「ユウ様」

「あの子を返せ。いるのは分かっているんだ!!返せよ!あの子は僕のものだ!返せよっ! ……返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ」

狂っている。
こいつは、どう考えても狂っていた。

レボルトに、掴みかかり揺すりだした時、ユウの顔が見えた。

黒曜石のような瞳を持つ二重の目の下には、深々と隈が刻まれており、手首にはところどころカッターで切ったかのような切り傷が残っていた。

どう見ても正気ではない。

レボルトの腕に、深くユウの爪が食い込んでいた。
流石にきつかったのか、レボルトの表情が苦痛に歪んだ。

「……ユウ様」

「イヴは僕のものだ。お前にはやらない。……イヴは僕の玩具だ。僕のだ僕のだ……はは………!……泣かせたい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい犯したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺したい殺シタイシタイシタイシタイシタイシタイ」

気味が悪かった。

与えられた名ではあるが、自分と同じ名前の人物を、犯したいだの殺したいだのと、のたまわられるのは、吐き気がした。
恐怖で肩が震え出すのが分かった。
音を立てたら、きっと部外者の自分は殺される。

「ユウ様、イヴお嬢様はもういらっしゃらないんですよ」

「そんな嘘信じない!」

「ユウ様」

「僕を騙そうなんて考えるなよ!そこにいるのは分かってるんだ。……さっきからイヴの匂いがする。……おいしそうないい臭いが」

心臓が止まるかと思った。
そう発したユウの目は、確かにベッド下のイヴの瞳を捉えて離さなかったから。

声を出したら殺されると思った。
だから、必死に両手で口を強く覆い隠した。
やはり、バレていたのだ。
最初に声を上げたのがまずかった。
心の中で、レボルトに助けを求めた。
死にたくはなかった。
こんな変な場所でおじゃんするなんて嫌だった。

「ははは!……おかえり、イヴ」

そう言って、ユウは、ベッド下を覗いた。
そして、数秒その場で固まってしまった。

「ね、ユウ様。言ったでしょう?……イヴお嬢様はもう存在しないって」

ぽかんと固まるユウに向かって、レボルトはその整った顔に悪魔のように悠然とした笑みを浮かべた。
一瞬、レボルトの瞳が鈍く赤く光ったように見えた。

「……貴様っ!!」

「そうそう、やつあたりは勘弁してくださいね。俺は静かに暮らしていたいだけなのに、勝手に踏み込んでくるそっちのほうが悪いんですから」

「お前…………いつか八つ裂きにしてやる!!!」

二人の会話を見ながら、イヴはぽかんと固まっていた。
確かに、イヴはベッドの下にいた。
手を伸ばせば、すぐにユウが触れられそうな距離に存在した。
なのに、ユウはベッドの下を覗き込むやいなや血相を変えて、怒り狂った様子でレボルトを睨み付けた。

「八つ裂きなんかじゃ足りない……殺す。殺す殺す殺す殺す!!」

「穏やかじゃないですね、とにかく帰ってください。……この場所を汚す事は、あのお方意外許さない」

最後の言葉は、地獄の底から這いずり出てきたようだった。
確かな殺気のこもった声音は、ベッド下のイヴでも恐ろしいと感じられた。

「お帰りください?……ユウ様」

「チッ……」

イヴお嬢様とやらがいないとわかったからか、単に苛ついただけなのか、ユウは渋々と入ってきた鏡に手をかけた。

そして、最後にレボルトを恨めしげに睨みつけると、入って来た時とは対照的に、颯爽と部屋から姿を消した。


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