3.命名
「さあ、お嬢さん。君の名前は?」
微笑みながら言われた言葉に、どきりとした。
思わず息を呑み、眼を見開く。
言えるものなら教えたい。
だが、幾ら考えても少女の中に名前が浮かんでくる事はなかった。
ベッドサイドに腰掛けていたレボルトは、少女が困惑しているのを見ると、自身の顎にそのしなやかな指を当て、にっこりという擬音が付きそうな満面の笑顔を少女に向けた。
だが笑っているのは口元だけで、目は全く笑ってはいなかった。
「どうかした?名前を言いたくないぐらい俺が嫌い?」
「別に……そういう訳じゃないわ」
好きかと聞かれれば、手放しで好きとは答えられない。
この男の表情は、見ていて不安にさせられる。
だが、嫌いかと言われると、そこまで毛嫌いしている訳ではない。
何を考えているのかわからない節はあるが、親切にしてくれているのに変わりはない。
それに、何度も言うように、名乗らないのではなく名乗れない。
その事をレボルトに渋々ながら教えると、彼はなるほどといった様子で軽く頷いた。
それから、レボルトは少女にひとつの提案を持ち掛けた。
「じゃあ、君に仮の名前付けてもいい?」
「……どういうこと?」
「ほら、名無しだと君の事をいつまでもお嬢さんって呼ばないといけないだろう?流石にそれもなんだし……、名前、付けさせてくれないかな?」
言われてみれば、そうなのかしれない。
緋人は、なにも聞いて来なかったので意識していなかったが、レボルトの方が本来は自然な考え方なのかもしれない。
名前のないものに名を付ける。
だが、それはまるで、主人が所有物や動物に対する行為のようで、少女はぷいっとそっぽを向いて黙り込んだ。
だが、レボルトは大人しくしているような男ではなかった。
レボルトは、だんまりを決め込んだ少女の顎を無理矢理掴むと、支配者のような貼りつけた笑顔を浮かべたまま、少女を静かに威圧した。
「じゃあなに?俺に少女ちゃんとでも呼べって?」
「……好きにすればいいじゃない」
無表情に、吐き捨てた。
やはり、この男は苦手だ。
それに、そこまで名前に拘る意味もわからない。
どうせここを脱出するまでの短い付き合いで終わるだろうに、そこまで仲良くしたいとは思わない。
間近で見た鈍く輝く深い紫色の瞳は、爬虫類を思わせる。
それが、余計に恐ろしいと感じた。
「イヴ」
唐突に、言われた。
なんの事かとレボルトの蛇のような瞳を睨み返すと、彼は楽しそうに微笑んだ。
「名前だよ、君の」
「貴方……なにを勝手に……」
「好きにすればいいって言ったから、勝手に名前を付けさせてもらったまでだよ。なにか問題でも?」
好きにすればいいとは言った。
だが、そういうニュアンスで言ったのではない。
しかし、今更否定してもめんどくさい事になりそうだ。
少女は、小さく溜息を吐いた。
「……いいんじゃないの」
そう言いながら、顎を掴んでいたレボルトの手を払い除けた。
「そっか、気に入ってくれてよかったよ」
邪険に扱われたのに、レボルトは楽しそうだった。それどころか、瞳の中は隠し切れない歓喜に震えているように思えた。
「ねぇ、その名前に、そんなに思い入れでもあるの?」
そこまで嬉しそうにしているぐらいなのだ。よっぽどの理由でもあるのだろう。
「あぁ、昔飼ってた猫の名前だよ」
「は?」
思わずそんな声が漏れてしまった。
アホかこいつは。
素直にそういう感想を抱いた。
「いやー、君を見てるとあいつのことを思い出しちゃってさ。可愛かったなー、イヴ。ま、悲しい事に、ちょっと前に脱走しちゃったんだけどね」
「……あんた、それは失礼じゃない?」
「こら、女の子があんたなんて言葉を使っちゃいけません」
「……記憶喪失の女の子に、飼ってた猫の名前をつけるような男に言われたくはないわ」
「はは、それはどうも。……で、名前も決まった事だし、色々分かっていない君にここのことを説明しないとね。……さて、君はなにをどこまで知ってる?」
知っているかと聞かれてもなにも知っている情報はなかった。
気が付いたらこの変な世界の廊下に寝転んでおり、緋人という男と出会った。
それから二人で歩いていたら、唐突に意識を失って、レボルトに出会った。
とりあえず、その事をレボルトに伝えた。
「それは、1から説明したほうがいいね。ねぇ、イヴは聖書って読んだことある?」
キリスト教の本のことだろうか。
一応、知識として若干知っている程度で、詳しくは知らない。
イヴ自身、特になにかを信仰していた訳ではないので、知ろうとも思わなかった。
「聖書ってものは知ってるけど、読んだことはないわ」
「そっか。じゃあ、創世記って分かる?アダムとイヴがどうのこうのっていう話」
それなら、なんとなく分かる。
昔々、神様が世界を作った。
その時、最初に作られた人間がアダム。
そのアダムの骨の一部と土から作られたのがイヴ。
二人は夫婦となり、楽園で幸せに暮らしていたが、ある日蛇に唆され禁断の果実に手を伸ばしてしまう。
それを神様に知られてしまった二人は、楽園から追放されてしまう。
これが、原罪と呼ばれているものだ。
人は生まれながらに罪を背負って生きている。だから、神様を信仰して、その罪を償わなければならない、というのが、キリスト教の根底にあるものだ。
「ええ、知っているわ」
「なら、話は早い。……この世界は、おそらく君がいたであろう世界から隔離された場所。神様が作った神様の住むところ。イヴの世界の表現でいうと、楽園ってとこかな」
この場所は、イヴのイメージの楽園とは、かなりかけ離れたものだった。
楽園というものは、緑に満ち溢れていて、太陽の光がさんさんと降り注ぐ、花畑のような場所だと思っていた。
だが、この世界を見る限り、あるのは長く続く廊下と鏡。あとは、このレボルトの部屋ぐらいだった。
「楽園と言う割に、随分と殺伐とした所ね」
全く安らげそうにない。
「確かにね。でも、今の神様は、神だけにかなり神経質っていうか……病んでるっていうか、とにかく精神的にトゲトゲしててさ。この場所は、神の心そのものだ。だからここは、神の感情によって様々に形を変える。だから、さっきまで目の前にあった部屋が唐突に無くなったり、廊下がありえないところに繋がったり……。神が神経過敏になっていて、不機嫌な今はこんな殺風景な感じになってるだけで、機嫌がいい時はもうちょっとましな内装だよ」
ようするに、神の気分によって形を変える不思議空間ということのようだ。
一気に言葉を吐き出すと、レボルトは、ここまでで質問は?とイヴに目線を合わせて聞いてきた。
「じゃあひとつ聞かせてもらっていい?」
「どうぞ」
「唐突に目の前の部屋がなくなったりって言うけど、もしかして、この部屋も例に漏れず突然消滅したりするの?」
レボルトにとっては日常茶飯かもしれないが、イヴがいた世界では少なくとも勝手に空間がねじ曲がったりはしない。
目的地は動くことはなく、いつもの道を通ればいつもの部屋がある。
だから、もしもこの部屋が動いたり消えたりしたら、純粋に驚くだろう。動揺し、かなり取り乱してしまうかもしれない。
そもそも、部屋が消えた時その場にいた人間はどうなるのか。
だが、レボルトはイヴの問いに、ははは、と声をあげて笑った。
「ああ、それはないよ。ここはルール適用外だから」
「適用外?」
「この部屋は、正真正銘、普段生活している俺の私室だ。……個人の空間を勝手に、弄られるのって苛つくじゃない?俺、繊細な人間だからさ」
どこが繊細なのか。
少なくとも、平気で人に飼い猫の名前をつけるような人間を繊細とは言わないと思う。
じと目で睨んでやると、レボルトはうっと少し言葉に詰まったようだった。
だが、気にしない事にしたのか、そのまま話を続行させた。
「まぁ、そんな事はどうでもいいとして、荒らされるのが嫌な俺は、この部屋だけを例外として孤立したひとつの空間として独立させて、神の干渉外にした。だからここは、神の機嫌がどうなろうが消えないスーパースポットてこと。という訳でさ、……俺ってこう見えて結構凄いんだから、もうちょっと君も敬ってくれないかな。とりあえずその目をやめて」
流石に無視するのにも限界が来たのか、レボルトは駆け足で話を終えると、口角を引き釣らせた。
「なんのことかしら」
敢えて、しらを切ってやる。
色々とこいつにはイライラさせられてきたので、これくらいは許されるだろう。
「それより、貴方は『なに』?」
新たに空間を作り出す等、普通の人間には不可能だ。
それに
「この部屋には扉がない。最初はそこの鏡から出入りでもする仕組みなのかと思っていたけど、今の話を聞く限り、あなたは空間を無理矢理捻じ曲げることが出来るんでしょう?……いままでの事を総合して考えると、貴方はこの部屋にはどこからでも入ることが出来る。違う?」
「……へぇ、意外に冷静だね」
「それはどうも。だけど……まだ話は終わってないわ」
そう言うと、レボルトはにっと不敵に唇を上に上げてみせた。
話せということか。
「貴方は部屋の前で私を拾ったって言った。でも、私の仮説だと貴方の部屋に入り口なんてない。必要ないのよ。……だって、貴方は空間を無理矢理捻じ曲げて、どこからでもここに入ることが出来るから。……ねぇ、貴方は私に何か隠してるんじゃない?」
イヴの話を、最後まで聞くとレボルトは、面白いと良いたげな表情で、静かに口を開いた。
「聡い子は嫌いじゃない。でもイヴ、隠し事なんて誰にでも存在するだろう?」
飄々としたレボルトの態度に、苛立ちを覚えた。
隠し事があるのは認めるが、あくまでそれを話すつもりはないということか。
「掴みどころがないわね」
「ああ、よく言われるよ。でも、本当の事なんて、知らない方がいい時のほうが多いって君は知ってるかい?」
にやりと、レボルトは、悪者のように笑った。瞳にはなんの感情も浮かんではいない。
たまに現れるこの顔が、イヴはどうも苦手だった。
「優しい嘘に残酷な真実、っていうのは昔からよく言うじゃないか」
「御託を並べて楽しい?」
「ああ、楽しいよ?狂言こそが、俺の存在意義だ」
「くだらないわ」
呆れ顔で吐き捨てる。
これではまるで言葉遊び。
ぐるぐる回って全て霧に隠される。
弄ばれるだけで、いつまでたっても解決しない。
それから、暫しの沈黙が落ちた。
しばらくして、その沈黙を破ったのはレボルトの方だった。
「隠れろ」
「………え?」
「いいから!ベッドの下に隠れろ!」
強い口調だった。
表面上は穏やかなレボルトにしては、珍しいことだった。
有無を言わせない口調になんなんだと、ベッドの上で固まっていると、無理矢理レボルトの肩に担がれた。
抗議の声を上げる暇もなく、有無を言わせすベッドの下に投げ入れられる。
「ぎゃぁっ!?」
叫び声を上げ、そのまま抗議の言葉を投げつけてやろうとした。
だが、蛇のような鋭い瞳に全力で睨まれ、イヴは口を開くことが出来なかった。
「俺がいいって言うまで、絶対に音を立てないで」
正に、蛇に睨まれた蛙。
しゃがみこんでイヴと目線を合わせていたレボルトは、イヴが無言で首を上下に降るのを確認すると、良い子だと、その綺麗な顔に相応しい笑顔を浮かべて、何事もなかったかのように立ち上がった。
「……来る」
その言葉をぽつりと零した瞬間、レボルトの部屋で異質な存在感を放っていた大きな鏡が、盛大に音を立てて、砕け散った。
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