蛇の毒白[
イヴが眠りについたのを確認し、アダムはそっと少女に布団を掛けた。
白い肌に咲いた赤い華を目に映した瞬間、男の中にある歪んだ征服欲が満たされていく。
無防備に眠る、というよりは気を失った、という方が正しいのかもしれないが、少女の寝顔は穏やかなものだ。
額をそっと撫でれば、軽く身をよじりはするが、男の腕を拒もうとはしなかった。
無理をさせた、という自覚はアダムにもあった。
すまない、とは思っていても、それでも後悔は微塵もしていなかった。
イヴの長い髪に指を通していく。
くるくると、指に巻きつけては、離す。
無意味な動作を何度となく繰り返しながら、アダムはベッドに腰掛け、イヴの寝顔を眺めていた。
皮肉にも、意図せず4年前と同じ体制になっている事に苦笑いが零れてくる。
まだ外は暗い。
散々嫌だと駄々を繰り返し、最後まで、抵抗のつもりなのか、イヴは一度もアダムの名を呼ぼうとはしなかった。
そんな彼女を無理矢理組み敷き、何度も中に精を注ぎ込み、自己満足に何度も何度も、一方的な好意を囁き続けた。
少女の顔の輪郭を確かめるように、指を這わせていく。
眠る少女は何も返さない。
だが、それでいいのだ。
心が手に入らないのなら、せめて、体だけでも。
「イヴ」
「ん……」
イヴが軽く声を漏らす。
安らかな表情で、まつ毛を軽く震わせる。
たったそれだけの動作にすら、心はざわつき落ち着きを無くしていく。
愛しい。愛しくて仕方がない。
動いた拍子に顔にかかった髪をそっと払いながら、アダムの顔は更にだらしなく緩んでいく。
そこにいるのは、普段鉄面皮と罵られている冷酷な生き物の統率者ではなく、一人の女に馬鹿みたいに溺れているだけの一人の男でしかなかった。
「レ……ボルト」
閉じられたイヴの瞳から一滴の涙が落ちた。
それを見届けた瞬間、高ぶっていた熱が一気に引いていくのを感じた。
嗚呼、どこまでも浅ましい。
心が手に入らないならそれでいい、なんてよく言えたものだ。
歪な笑みを浮かべながら、少女の頬へと零された涙を舌で掬いとると、軽くイヴの体が震えを起こす。
欲しくない訳がない。
心も体も、その身に流れる血の一滴まで。
そもそも、この女は己の伴侶として生み出された存在だ。
一度芽生えた欲望は、ドロドロと心を溶かし、感覚を麻痺させていく。
俺の好きにして、何が悪い。
無防備に投げ出された左手首に指を這わせば、イヴが無意識に身をよじる。
このまま力を入れればきっと簡単にへし折ってしまえる。
ああ、でもこの腕を使い物にならなくしてしまうのは惜しい。
ああ、この女の一挙一動全てをこの目に写しておきたい。
笑う顔も怒る顔も、悲しむ顔も泣きわめく顔も、絶望の淵でもがく顔すらも愛おしい。
胸元を開け放ち、軽く羽織っただけのシャツの上から、自身の背に刻まれた子猫の傷跡を抑えながら、アダムはそっと目を細めた。
決して逃がしはしない。繋ぎ止めて、離しはしない。
壊さないように、慎重に加減しながら、ゆっくりと確実に羽を切り落としていく。
「お前には、どんな色が似合うだろうな」
不穏な言葉を無表情で呟き、アダムはイヴの首筋に牙を突き立てた。
* * *
白蛇は嘲笑う。
友であり、長である男の有様を。
月も星もない、闇に包まれた新月の夜。白蛇は木の枝に絡みつき、いつものように男を眺めていた。
闇の中で輝く黄金は神々しいほどに光り輝き、男の痴態を実に愉快だと見続けていた。
魂の根幹をイヴに絡み取られた哀れな獣が、主の変化に気付かない筈はなかった。
己と同じ、本来彼が持っている筈の野蛮な本性の色がレボルトの瞳を黄に染め上げていく。
ガチガチと鳴る歯、瞳孔の開ききった細長く伸びた黄金の瞳、そして何より、普段表面に現れる事のない蒼交じりの白い鱗が、男の肌にくっきりと浮き上がっていた。
昼間は頬だけだったそれが、今は全身に広がりレボルトを蝕んでいる。
さて、彼の心の方を蝕んでいるのは、怒りか、それとも。
己の両肩を抱き、体を丸め、狂気交じりの瞳を煌々と輝かせたまま震え、動こうとしないレボルトに、白い蛇はその瞳をすっと細めた。
尾を揺らし、白蛇はレボルトから視線を逸らした。その瞳が向かったのは、レボルトの主たる少女が暮らしている小さな洋館だった。
そこで何が行われているのか、想像するに難くない。
次いでもう一度視線をレボルトに戻した。
後悔するくらいなら、俺の言うとおりにしておけばよかったのに。
空をさまよっていたレボルトの瞳がまっすぐに白蛇を射貫いた。
そんな風に睨むなよ。
瞳を細めクスクスと笑う。
更に毛を逆立てるレボルトに、白い蛇は舌を余裕ぶって揺らすだけだ。
だって、お前と俺は。
瞬間ドン、と知恵の木が大きな音と共に衝撃を受けた。
思わず枝から落ちそうになった白蛇は、苛立たし気にレボルトに牙を向く。
木の幹を鱗の浮かんだ腕で殴りつけたらしいレボルトは、額から汗を一粒こぼしながら、歪んだ笑みを浮かべ、黄金交じりの紫の瞳で強気に白蛇を睨み付けていた。
「……冗談じゃない」
イヴの心の変化を、刻み付けられた消せない傷を感じ取りながらも、レボルトは抗っていた。
歯を食いしばり、必死に浮き上がった本性を押し隠そうとする。
さて、いつまで持つのやら。
白い蛇はただ見届けるだけだ。
誰より男の心の内を理解しているからこそ、蛇はその背を更に押そうとはしなかった。
どうせ、自分が押したところでこの男は意地を張り続けるだろう。
レボルトをもう二度と這い上がれない地獄の底へと堕とすのは、自分ではなく、レボルト自身でもなく。
その時を楽しみにしておこうと、白蛇はふい、とレボルトに背を向け瞳を閉ざした。
直に夜は明ける。
そして、何事もなく、穏やかな午後は訪れる事だろう。
そこに愛しい少女がいなくとも、雲は流れ、鳥は囀り、時間は止まることなく進んでいく。
蛇の閉ざされた瞼の先で、一人レボルトは後悔と自責の念に苛まれる。
確かに腕に残っている少女の感触と、微かに鼻を掠める残り香。
瞳を閉じれば、甦ってくるのは生々しいイヴの唇の感触。
「……クソが」
爪の跡が残るほどに強くこぶしを握り締め、誰に言うでもなくレボルトは呟く。
彼にとって許せなかったのは、好きだと言い続けたくせに結果的に裏切る事になってしまったイヴでもなく、彼女の本来の夫となるべきだった筈の男でもなく、ただ傍にいられればいいと綺麗事をぬかしていた癖に、確かにイヴに欲情している自分自身だった。
堂々巡りを繰り返すレボルトを置き去りにして、太陽は天高く上り、周囲を明るく照らしていく。
巨木の作り出す影の中で、レボルトはただ時が過ぎるのを待った。
イヴが来る前に戻っただけの話だ。
ここ十年が異常だっただけで、本来あるべき姿に戻っただけにすぎない。
むしろ今までが異常だったのだ。
空腹の時に少量の食料を口にした後のような、壮絶な飢餓感がレボルトを苛んでいた。
一度幸福を味わってしまうと、後がつらい。
だからどうした。俺にどうしろって言うんだ。
いつもならイヴが来るという時間。
晴れ渡っていた空に不穏な雲が立ち込め始めた。
やがて、数分もしないうちにぽつぽつと雨が降り始める。
それはやがてどしゃぶりの豪雨となり、木の周囲をしめらせていった。
そんな大雨の中、現れたのはレボルトが心待ちにする少女などでは当然なく、むしろ今一番会いたくない相手である、イヴの本来の伴侶である男だった。
彼自身が持つ赤毛よりも更にドス黒い、血のような色の赤い傘を差し、アダムは平然とレボルトの元へとやってきた。
木の枝の上にふてぶてしく座り込むレボルトを目に留めたアダムは、赤い目を威圧的に細めた。
「久しぶり、とでも言えばいいのか」
片手で傘を持ち、もう片方の腕を腰に当て、まっすぐにレボルトを射貫く。
「……そうですね」
木の上に座り込んだまま、レボルトは上からアダムを見下ろしていた。
雨音に混じり、シュルシュルという白蛇の発する舌の音が、レボルトの鼓膜を揺らしていた。
「で?人間様がわざわざ何の御用で?」
「お前にはうちのがずいぶん世話になったようだから、礼儀として一応伝えておいてやろうと思ってな。……無駄な期待などされても困るのでな」
傘の下の顔には、凄味すら感じさせる不気味な笑みが滲んでいる。
だが、レボルトとて野生の獣だ。その程度で怯んでやるほど柔ではなかった。
「イヴはもう来ない」
「……そうですか」
邪悪な笑みに怒りを込めた無表情で返し、レボルトはにっと口の端を上げた。
満足げに立ち去ろうとするアダムの背中に語り掛ければ、アダムの動きが止まった。
「わざわざそんな事を言いに来たんですか。……人間様も落ちたものですね」
「生憎だが、俺は忙しい」
レボルトの皮肉にも、背を向けたまま、アダムは笑みを崩さない。
「独り身のお前と違って、俺には最愛の妻がいるんでな」
振り返り、挑戦的な視線を送ったアダムに噛み付いたのは、レボルトではなく白蛇の方だった。
口を大きく開け牙を剥き、勢いよく枝から体を離し、レボルトの制止の言葉を聞かず、アダムの首筋に一直線に噛み付こうとした。
蛇の行動を完全に予測していたのか、アダムは持っている広げた傘を使い飛びかかってきた蛇を振り払った。
地面に叩きつけられ、もがく蛇を、力の限り踏みつけ、ぐりぐりと地面に押しやる。
「蛇はそうやって、地面を這いつくばっているのがお似合いだ」
ギーギーと、喉から甲高い声を発しながら、白蛇はもがく。
ばたばたと全身を必死に動かし、アダムの足から逃れようとしているが、それを許すまいとばかりに足をよじり、ぐりぐりと足で土を掘るように白蛇に食い込ませていく。
「弱いものいじめがお好きなんですね」
「別に」
地面に降り立ったレボルトの静かな怒声に、アダムは渋々といった様子で白蛇の上から足を退けた。
「ただ、蛇だけはどうも嫌いでな」
視線を白蛇からレボルトの方へ戻し、アダムは一歩レボルトの方へ近付いた。
雨に包まれた世界の中、林檎の樹の下だけが別世界となっていた。
「お前にはもう、何も渡さない」
鋭くなった視線と、取り戻された冷淡な無表情に、レボルトは嘲笑を返す。
「そうですね」
レボルトの肯定に、ぐったりと地面に倒れ込んでいた白蛇が反抗的にゆっくりと身体を起こし始める。
それを視線で制し、レボルトはゆっくりと紫色の瞳を閉じ、再度覚悟を決めて、黄金の瞳を押し開いた。
「それが、人として、正しい選択です」
その言葉を聞くのを最後に、鼻を鳴らし、アダムはレボルトに背を向けた。
その後、二度と二人の視線が交わる事はなかった。
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