蛇の毒白V



「ねぇアダム」

ごとんと床の上に仰向けに寝っ転がりながら、ぼーっと窓の外を見つめる。
楽園の外には珍しく雨が降っていた。
夜の闇に紛れ、時々雷鳴が響きあたりを一瞬明るく染める。
机に向かい、何か書き物をしているらしいアダムは、床に無造作にごろんと寝転ぶ少女をちらりと横目で捉えると、一瞬眉をしかめ、かと思えばすぐに書類に目を戻してしまった。

「おい、そんな所で寝るな」

「んー」

空返事に、アダムの動かしていた手が止まった。
ペンを置き、座りながらも体だけをイヴの方に向け溜息を吐く。

「名前って大切……よね」

「名前?」

脈略なく告げる妹に、兄の眉間の皺が一層深くなる。

「そりゃまあ、大切なんじゃないのか?」

「そうよね……うん」

ごろんと寝転がっていたイヴが床に手を付き体を起こす。
少女は誰に言うでもなく呟いた。

「ちょっと……いや。やっぱりかなり……ううん……いや……酷いことした……かも」

イヴの言葉に疑問符を抱きながら、アダムは椅子から降り少女の前にひざを着く。
そっと手を差し伸べてやれば、おずおずと重ねられる腕に柔らかな笑みを浮かべ安堵させてやる。

「隙あり」

「ぐわっ……!?」

そのまま立ち上がらせてやると見せかけて、両脇の下に腕を差し込み天高く持ち上げると、驚きに目を見開き、まじまじと兄の顔を見るイヴと目が合う。
ぽかんと開けられた少女の口は、現状を把握した瞬間への字に曲げられる。

「……またそうやって誤魔化す」

「お前が可愛いのが悪いんだろうが」

「何よそれ!?」

イヴが言い切らないうちに、彼女を抱きこめばむすっと頬を膨らませそっぽを向く。
男の腰ほどまでしかない少女は、天使の羽のように軽い。
時々アダムはイヴを恐ろしいと感じる時がある。
なんなんだこの可愛い生き物は。
ツンツンと片手で彼女の体を支えながら頬を軽くつついてやれば、しっしと言いながらぺちぺち腕を叩いてくる。
急に妹が出来たから紹介すると言われた時には本当に、何を考えているんだこの親父は、と殺意すら沸いたが、今となっては完全に溺愛しているという自覚がアダムにもあった。

「なんなんだろうな、お前は」

今まで見たどんな生き物よりも、この子供は、女は――

「……悪かったわね、どうせ子供ですよ私は」

べーと舌を出しバタバタと足を動かし始める妹が、本当に、心底愛らしい。

「いや、お前はそのままでいい。むしろずっとそのままでいてくれ」

頼むからあの性悪親父に似るなよ、との思いを込めて額に軽く口づけを落とすと、さっきまで暴れていたのが嘘のように一瞬静かになる。やがて、先ほどの比ではないほど、顔を赤く染めぽかぽか頭を殴ってくる。

問題は、とアダムはイヴに気付かれないように、横目でイヴが見つめていた窓の外を見つめる。
雷鳴がひときわ大きく鳴り響いた瞬間、闇の使者が姿を現す。

「蛇……か」

白い影は、黄金の瞳を輝かせながら、アダムに対して威圧的に舌を揺らしていた。

*   *   *

「で、懲りずにまた来た訳ですか」

「……来ればいいって言ったのは、貴方の方じゃない」

昨晩の雨が嘘のように、一面の青空が広がる午後。
昨日のように落ちでもされたらたまらないと、レボルトはイヴの姿が遠くに見えるのと同時に先に下に降りて彼女を待っていた。
いつも木の上で寝ているのとほぼ同じ体制で、気の幹に背を預け、草原に足を投げ出し、目を閉じ眠っているふりをして少女を待つ。イヴの気配に、うっすらと目を開けば驚くのと同時に怒っているかのような、そんなイヴのふくれっ面が目に飛び込んできた。

「……今日は、木の上で寝てないのね」

「また登って来られたら面倒ですから」

ぎろっと睨み付ければ、うっと目を細めイヴは言葉に詰まっていた。

「何の用ですか、イヴ様」

「その……イヴ様っていうの、気持ち悪いからやめない?」

「何故」

「なぜって……私はその、貴方とお友達になりたいというか……」

名付けまでしておいてよく言う。
目を閉じ現実から目を背ければ、何やらイヴがごそごそと怪しい動きを始める。
次にレボルトが目を開いた時には、彼女はレボルトの左横に密着し、頬を膨らませたまま、ひざを抱え鎮座していた。

「反逆なんて酷い名前を付けた人が言う台詞とは、到底思えませんがね」

「ぐ……それは……悪かったと思ってる」

「悪いと思われても、俺の名前は一生これで固定なんですよ。変更不可なんですよ。どうしてくれるんですか」

「変更……不可……」

本当に何も知らなかったのか、みるみるイヴの顔色が悪くなっていく。
知らないのなら、別に教えてやる義理もないし、知られるのはそれはそれで癪だと、レボルトは何も言わなかった。
木の上から高みの見物をしている白蛇はなんとも楽しそうだ。

オマエ  ソノ ナマエ  ホントウハ  キニイッテル  クセニ

枝に巻き付き、舌を優雅に揺らしながら、白蛇は仲間の痴態を笑っていた。
口だけを動かし、誰が気に入るか、と悪態を吐くも、白蛇は気にする素振りを全く見せず、むしろ上機嫌だ。

「……ごめん」

「もういいです。その話はやめにしましょう」

しばし二人の間に沈黙が落ちる。
真名を付けられてしまったからには、もうレボルトにはどうすることも出来ない。
この小さな女に一生縛られる事は、どうしようもない確定事項なのだから。
その二人の沈黙を破るかのように、ぼとり、と突然木の上から何かが落ちてきた。

「ひっ……!!ぎゃぁぁぁぁぁ!?何!?何!?」

驚きのあまり、イヴは立ち上がり、レボルトの腕に震えながら抱き着いてきた。

「おい」

地面に張り付き、うねりながらイヴの抱き着いていない方のレボルトの腕を目指し進んでくる白蛇に、レボルトは睨みを利かせた。
何も聞いていないとばかりに、白蛇はレボルトの腕にやんわりと絡みついてくる。
その間も、イヴはぎゃーぎゃー、レボルトが死んじゃうー、等とうるさく叫んでいた。

「死ぬ訳ないだろう」

「う……」

レボルトの呆れ交じりの怒声に、イヴが恐る恐る顔を上げる。
と、白蛇と少女の目が合った。
息を呑み、イヴの動きが止まった。
白蛇は興味深そうにイヴの瞳をのぞき込むと、軽く少女の右頬を舐めた。
力強くレボルトの腕に抱き着き、ぞぞぞ、と目を大きく見開き、鳥肌を立てる少女に、白蛇は実に満足しきった顔でレボルトの右腕に戻っていった。

「俺が特殊なだけで、蛇というのは本来こういう物なんです」

「そ、そうなんだ……」

わずかに怯え、あっけにとられているイヴを無視し、なんのつもりかと白蛇を睨めば、素知らぬ顔で体をくねらせ、イヴをしげしげと見つめる。

「……気に入ったのか」

レボルトの問いにシュルシュルと舌で音を立て、上機嫌に体をくねらせる。
体を伸ばしイヴにその白い体を近付け、レボルトから離れ彼女の首にまとわりつく。
瞬間、イヴの体が一層硬くなった。

「そのくらいにしてやれ」

親玉の一声に、白蛇はしぶしぶといった様子でイヴの体から離れた。

「良かったですね。気に入られましたよ」

「そ、そう……」

あっけに取られているイヴの頬をぺちぺちと右腕で叩きながら、レボルトは呆れ顔で呟く。
一人頭上を見上げれば、木の上に戻った白蛇は素知らぬ顔で目を輝かせるだけだ。

タノシイ アソブ イヴ

「やめておけよ」

小声で告げれば、おお怖い、とでも言いたげに蛇の目が輝きを増す。
そのまま白蛇は二人に背を向け林檎の木の中心部へ向かっていってしまった。

「き、気に入られたの」

「ええ」

レボルトの腕にしっかり抱き着いたまま、イヴは

「私はてっきり、く、食われるのかなぁと……」

そんな事をぽつりと零して見せた。
ぽかんと、間の抜けた顔でイヴを見、次いでレボルトは本日何度目になるか分からない溜息を吐く。

「仮にもお嬢様なんですから、「食われる」とか言わないでもらえますかね」

「わ、わわ悪かったわね!!どうせ品がないですよ私は!!」

「そうですね、普通お嬢様は木に登りません」

「引きずらないでよその話!!」

「引きずります。一生引きずってやりますから」

「なっ……」

真顔で告げた一言に、一瞬イヴが言葉に詰まる。

「本当……ごめん。ついかっとなったというか……」

「かっとなって……ねぇ……。どう責任とってくれるんですか」

言って、自分でも何を言っているんだとはっとなる。
責任も何も、こんな小娘に何を求めているというのか。

「か、通うわよ。……好きになってもらうまで通う……!昨日宣言した約束、ちゃんと守るからそれで……勘弁してよ」

「好きに……ねぇ」

何も考えていないのかもしれないが、この女。思っていた何倍も性質が悪いかもしれない。
本気で毎日ここに来るつもりか。
それよりも、まさか本気でそんなプロポーズじみた言葉を言ってるんじゃないだろうな。

「今のところ、全く貴女を好きになる要素がないんですが」

確かに昨日、満足するまで来いとは言った。
だがそれは、すぐに飽きるだろうと見越して言っただけだ。
冗談じゃないと視線を逸らしながら呟けば、ばっと横にいるイヴが立ち上がった。
幼い彼女が立ち上がると、ちょうど座っているレボルトと視線がかち合う。

「わ、私は好きよ」

沈黙があたりを包む。
木の上から二人を見守っていた白蛇も、静かにイヴを睨みつけていた。

「は……?」

間抜けたレボルトのそんな一声で沈黙は破られる事になる。
ここ数日で何回、間抜けな叫びを零したか分からない。それくらい、この小娘の行動はレボルトには理解不能なものだったのだ。

「そうですか、俺は嫌いなんですよ。残念でしたね。ま、努力してください」

一瞬「通い妻」という単語が脳裏を過る。
何を考えているんだ、俺は。とレボルトは頭を振って必死にその考えを打ち消した。

「ど、努力してやるわよ」

まあ、しばらく飽きる事はなさそうだから、それはそれでいいのかもしれない。
頭上では、尾を木の枝から垂らしながら、目を細める白蛇の姿がある。

「ま、せいぜい頑張ってくださいね」

さて、一体何年持つのやら。

白蛇は尾を揺らし、終始上機嫌だった。









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