17.異常
違う。
この人は味方なんかじゃない。
この人は、悪魔だ。
眼前に見えているファンシーな部屋があの、地獄のような侮辱をされた場所なのだと気付いた瞬間、反射的に緋人に背を向けて走り出していた。
この人は、こいつは緋人なんて名前じゃない。
この男の、本当の名前は
「……どこへ……行く気だ?」
背を向けたのが間違いだった。
走り出したはいいものの、すぐに背後から抱きすくめられ、耳元で恋人に向けるような甘い声音でそう囁かれた。
だが、イヴにとってこの男はもう保護者でも恋人でも何でもない。憎むべき害悪なのだ。
思わず背筋に悪寒が走った。
「……ア……ダム……」
「なんだ、思い出したのか!」
震える声で、確かめるように名を口走った瞬間、男の声が今までに聞いた事のないぐらい喜色を含んだものに変化した。
背後から囁かれているので、アダムの顔を伺うことは出来ないが、おそらく声と同じで嬉しそうな幸福な顔をしていることだろう。
顔を真っ青にして緊張から冷汗を流しているイヴとは違って。
「人間の暮らしは楽しかったか?」
「そ……れは……」
楽しくなかった。なにも楽しいことなんてなかった。
理不尽にけなされ、貶められるだけの日々。
そんなものを求めていた訳じゃなかった。
なにも言えずに小動物のように震えていると、アダムが喉を震わせて笑うのが聞こえてきた。
「ははは!……そうか!楽しくなかったのか!」
さも愉快だという風に笑う男を理解できなかった。
「……それは良かった」
何が良かったのか。
「……楽しかった等言われたら、思わずお前の可愛い喉を潰したくなるだろう?」
そっと、喉元を撫でた指先に鳥肌が立った。
この人はおかしい狂っている。正気じゃない。
嫌悪感を通り越して、イヴは恐怖しか感じなくなっていた。
アダムは恐らく、イヴがそう答えていたなら本当に喉を潰していただろう。
そういう男だ。
あの、何日に渡ったか分からない過去の屈辱の日々にそれはもう身に染みてわかっている。
「だが、喉を潰したらもう二度とその声が聞けなくなるな……。それは困る。だから、しないよ。……ほら、そんなに怯えるな」
困ったように言うアダムが、少しだけかつての優しかった頃の兄と重なった。
イタズラしたイヴ叱る時と、同じ声に同じ顔。
ああ、この人は誰なんだろう。
「まずは土産話でも聞かせてくれ。それから……黒い服も似合っているが、やはりお前には白が合うから、着替えよう」
(レ……ボルト……助……けて……)
心の奥底では分かっていた。
もう、きっとレボルトはこれない。
あの扉の間でイヴは自らの意思で選んだ。
選んでしまった。
アダムと生きるという道を。
「なにも心配いらない。……お前は、ただ鳥籠の中で大人しく囲われていればいい」
「ぁ…………あ………ぁぁぁぁ……」
そして
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
イヴは、イヴという人間は
壊れた。
* * *
「イヴっ!!」
レボルトは必死だった。
名無しの自分に名を与えてくれた、誰よりも愛おしい最愛の人を助ける為に、蛇は奔走した。
名を与えるということの本当の意味を、幼い彼女はきっと知らなかったのだろう。
名を与えるというのは、その者を使役するということだ。
名を与えられたあの日から、レボルトはイヴの所有品だ。
そのおかげで神のルールやらなんやらから逸脱した存在として活動できたのは、今となっては皮肉な話だ。
彼女を助けられるなら何だっていい。
愛してもらおうとも、応えてもらおうとも思わない。
これは身勝手な自己満足でしかない。
そもそも、人間じゃないレボルトに、愛してみろと言われても無理な話だ。
蛇の愛し方は人のそれとは違う。
じわじわと、甘やかして毒して精神を殺す。
自分がいなければ生きていけないぐらいに、ドロドロに甘やかす。
そういう愛し方だ。
だが、それを彼女は望んではいないだろう。
だから、本能を理性で抑え殺して、レボルトという名を持った一匹の毒蛇はイヴを救おうとした。
彼女が望む結末へ、彼女が助かる最善の結末を。
ただ、それだけの為に、蛇は奔走した。
レボルトは、愛した女の名を叫ぶながら、一枚の因縁の扉を開けた。
その先に広がっていたのは、イヴを助け出した時と何ら変化のないあの因縁の部屋だった。
変化のないと言えば、語弊があるのかもしれない。
あの時の彼女は、鎖に身を繋がれた囚人のようだった。
それが、今は何も彼女を縛るものはない。
イヴは、どこからどうみても白いワンピースに身を包んだ聖女にしか見えない。
「イヴ、起きて。遅くなって悪かった。……助けに来たよ」
眠る彼女の体を軽く揺すりながら、彼女が一番好きだと言った一番甘い声とやらで、そう囁いた。
だが、長期に渡る疲労と精神的な疲れからか、イヴはなかなか目を覚まそうとはしなかった。
色々と邪魔なものを処分していたら時間がかかってしまった。
申し訳ないと思うが、それでも彼女の今後を考えるなら始末せざるを得なかった。
もう失敗なんて出来ない。
邪魔者はすべて処分しなければ。
「イヴ、遅くなったのは本当に申し訳ないと思ってる。……それは俺が全面的に悪かったから、頼むから起きて」
そう言うと、彼女はうっすらと目を開けた。
「……やっぱり怒ってる?ごめんってば。もうなにも怖くないよ。ほら、行こ――」
「お兄さん、誰?」
今、コノ女ハ、ナンテ言ッタ?
レボルトは戦慄した。
もしかして、自分は間に合わなかったのかと。
「イヴ、冗談はほどほどに――」
「私、冗談は言わないよ」
アダムは、冗談とか嫌いだから
そう、さも当然のように満面の笑みで告げた彼女に、何かが崩れ落ちていくのを感じた。
「あのね、私ずっとここにいるのよ。アダムがね、ここから出たら危ないって言うから出られないの」
彼女は笑っていた。
だが、同時に目はなんの光も抱いてはいなかった。
病んでいる。
その表現が一番的確な気がした。
「イヴ、やめて」
頼むから、これ以上、俺の精神を壊さないでくれ。
「あれ、お兄さんなんで私のお名前知ってるの?」
「イヴっ!!」
思わず肩に掴みかかると、イヴが虚ろな目を見開いてレボルトの方を見つめてきた。
「お兄さん、怒ってるの……?どうしよう、アダムにバレたら怒られちゃうかな?」
もうこの際、記憶がなくたっていい。
あんな男に任せておくぐらいなら、あんな男にワタスグライナラ
俺の手で、手折ってしまえばいい。
「イ……ヴ……俺は……俺は……っ!!」
(今、俺は何を考えた!?)
そんなことは絶対に駄目だ。
そんなもの、あの男となにも変わらない。
ただの身勝手な自分勝手な行動でしかない。
自分の中にあった、薄汚れた欲望の感情に、レボルトは吐き気を覚えた。
ここは、神の作り出した迷宮。
いくら、イヴの所有品であっても、長時間いたので毒されてきているらしい。
(とにかく、彼女を逃さないと……)
記憶がなくても彼女がイヴであることに変わりはない。
そう思い、決意を固めた瞬間だった。
「……れ……ぼると……?」
記憶のない筈の彼女に名前を呼ばれた。
そして、ゾクリとなにか黒い物が頭を支配したのを感じた。
この女は、この誰よりも愛おしい女は、今の今まできっと彼女の兄であるあの、憎たらしい男に抱かれていたのだろう。
そんなの赦せない。
もう沢山だ。
我慢、ナラナイ。
君は君は君は俺の持ち主だ俺の物だなのにそんなもの許される筈がない許さない赦せない赦せない無茶苦茶にしたい許せない許せない許せない
「ぅっ……!」
また、だ。
辛うじて、なんとか持っていかれそうな理性を取り戻すと、汗を流しながら肩で息をした。
これは、本格的にまずいかもしれない。
次に来たら、もう抑えられる自信はない。
「あなた、レボルトっていうお名前なの?」
たどたどしい、幼かった頃と同じような口調に戻ってしまった彼女に、服の裾を掴まれながらにっこりと微笑まれた。
「そうだよ」
そう答えると、彼女はケタケタと楽しそうに声を上げた。
「お兄さん、なんだか嬉しそうな顔してる!」
「そう?」
「ええ。きっと、その名前をつけてくれた人はとても貴方にとって大切な人なのね」
その言葉を告げられた瞬間、何かがぶちりと切れるのを感じた。
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