16.廻転
「おはよう」
翌朝、目が覚めてすぐ、自分の横に、かつて兄だと思っていた憎たらしい男の顔があるのを見て、吐き気がした。
死にたいとすら思った。
こんな男の子供を身籠るなんて絶対に嫌だった。
腰に回された腕に爪を立てながら、負の感情をそのまま吐き出した。
「……いっそ、殺してよ」
そうすれば、子供は産まなくてすむ。
重たい体を鞭打って、ぼそりと、そんなことを呟いてみた。
だが、隣にいた男には小さなイヴの声はしっかりと届いていたようで、アダムは笑いながらイヴの頬に手を這わせた。
「何故?そんな馬鹿な事をする必要が?」
ああ、汚らしい。
汚れた手で私に触るな。
そう思いアダムの腕を払い除けようと、右手を上にあげてみた。
だが、腕は動かず、変わりにジャラッという重い金属の擦れる音だけが響いた。
まさかと目線を腕に向けると、そこには確かに鎖に繋がれた自身の腕があった。
「ど………して…………」
眼前の男の正気を疑った。
思わず憎悪の視線をアダムに向けると、彼は。それすらも愛おしいとばかりに、目元を和らげた。
「かわいいお前が逃げてしまっては困るだろう?」
「何……言って……」
「本当なら、四肢を全て切り落としてしまおうかと思っていたんだ。だか、そんな事をしたらお前の一部が失われてしまう。……勿体無いじゃないか」
(正気じゃない……)
ゾッとした。
さもそれを、当然のように言ってのけるアダムに、恐怖を覚えた。
この人は狂ってしまっている。
何を言っても届きはしないのだろう。
でも、諦めたくなかった。
まだ、兄として慕っていた頃のあの人がこいつの中に残っているのだと、そう信じていたかった。
「ユウに了承は得ている。……なにも問題はない。心配することはなにも」
問題がない?
女を無理矢理抱き、処女を散らす事のなにが問題がないというか。
認識が間違っていた事を思い知らされた。
この人は、もう兄なんかじゃない。
「…………殺す」
「その状態でよくそんな事が言えたものだ」
喉の奥を震わせながら、足を撫でられた。
「嫌だって言ってんでしょ!!」
ブチッときて、足を振り上げて蹴りを入れてやろうとした。
だかが、足も腕と同じで最低限しか動かせないように鎖が付けられており、イヴの抵抗は無駄に終わった。
「早く堕ちればいい」
そう言って、深く口付けてきた男を、イヴは絶対に許せないと思った。
* * *
あれから何日経ったのか時間の判断さえ出来なくなってきた。
食事をし、抱かれるだけ。
これは間違いなく監禁だ。
アダムがいなければ何も出来ないのだと、ペットを躾けるように無理矢理教え込まれていく。
(絶対に…………殺してやる)
その行為に、殺意が湧いた。
泣く涙なんかとうに枯れた。
泣いたところで現状が変わるわけではない。
今のイヴは、レボルトへの思いで辛うじて正気を保っているだけ。
今アダムは食事の準備をしているらしくここにはいない。
この部屋にアダムがいない今は、本当に幸福な時間だった。
だが、それももう終わりだ。
(逃げ出したい……)
でも、何処へ逃げればいいのだろうか。
外に焦がれる思いで、ふいに窓を見た。
この部屋に唯一存在する、時間を知らせてくれるもの。
ああ、またレボルトに会いたい。
他愛のない話がしたい。
そう思うと涙が出てきた。
枯れたと思っていたのに、まだ残っていたらしい。
「た……すけて……よ…………っ!!」
嗚咽混じりに、叫んだ。
アダムがいない今だからこそ言える。
出たいここから出たい出たいここから出たい出たい出たい出たい出たい出たい出たい出たい!!
「イヴ様!!」
疲れているからだろうか。
かつて愛していた男の幻聴が聞こえてきた。
「……レボルト」
なんでもよかった。
縋れるのなら、なんでもよかった。
「はい」
それは、幻聴でもなんでもなかった。
横を見ると、いつの間にかレボルトが横に立っていた。
なんでここにいるんだ。
そんな疑問が湧いたが、今はなにも聞こうとは思わなかった。
「俺と……逃げる気はありますか」
そう、真顔で聞いてくる男に、涙を流しながら一も二もなく頷いた。
嬉しかった。
嬉しくて嬉しく堪らなかった。
レボルトは、無言で素早くイヴの枷を外していった。
次に、脱出用に用意してくれたのであろう黒いワンピースを着せられた。
なんでこんなに手馴れているんだろう。
そう思う程に、彼の所業は素早かった。
「……イヴ様、立てますか」
レボルトに言われ、久方ぶりに地面に足を付いた。
だが、足に力が入らなかった。
久しぶり過ぎて、力の入れ方を忘れてしまっているようだ。
「ごめん……なさい……。……無……理」
「……失礼」
そう言うと、彼はイヴを担ぎ上げた。
所謂、お姫様抱っこというやつだ。
「後悔しませんね」
「後悔なんて、する訳ない」
満面の笑みで、レボルトに抱き着いた。
間違いなく、幸福だ。
幸せだ。
頷いたイヴに、レボルトは笑い掛けると瞬時にその場からイヴを抱き抱えて瞬間移動した。
辿り着いたのは、扉の部屋だった。
暗い、暗い、三枚の扉が立つだけのなにもない空間。
レボルトはイヴをその場に下ろすと、その中の一つ、イヴから見て左側の扉を静かに開いた。
「さぁ、ここへ」
「分かった」
そう告げて、イヴは扉の中へ一歩だけ入り込んだ。
だが、レボルトは一向に扉の先へ行く気がないようだった。
「……レボルト?」
「俺は、ここから先に行くことは出来ません。貴女だけで、お行きなさい」
一緒に逃げようと言った。
それが嬉しかった。
なのに、どうして
「一緒って言ったじゃない!」
かけ戻って、レボルトの胸に抱き着いた。
バンバンと胸板を叩き続けていると、レボルトに諭すように頭を撫でられた。
「……本来、ユウ様とアダム様に逆らう事は禁忌に値します」
レボルトの言葉にはっとした。
「……その上、今俺は貴女を地上へ逃がそうとしている。これがどれだけ重い事か、分かりますか?」
レボルトは今禁忌を犯そうとしている。
いや、既に『私達』は犯しているのかもしれない。
あの日、この人と出会った事がそもそも禁忌に触れる事だったのだろう。
そして、愛してしまった。
この人を、愛してしまった。
「レボルトっ!私はっ!」
あなたが好き。
言おうとした唇を、レボルトは封じ込める様にして口付けてきた。
それは、最初にされた長いものとは違い、ほんの一瞬のものだった。
「……これが、俺に出来る最大級の愛情表現です」
この人は、絶対に言わせてくれるつもりはないらしい。
(自分は言ってるも同然のくせに)
だが、それだけで十分だ。
「……わかった」
そう言って、イヴは笑った。
自分に出来る最大の笑顔で、レボルトに答えるように。
そして、前向いた。
振り返ったら後悔するから、絶対に振り返らないようにして。
「ありがとう、レボルト」
愛を語ることが許されないというのなら、私は貴方に精一杯の感謝の気持ちを伝えよう。
それが、禁忌すら破ってくれた貴方への最大級の愛情表現だろう。
(……さよなら)
心の中でそう呟いて、イヴは扉の中の光の中に身を投げた。
* * *
「ねぇあなた、とってもかわいい女の子よ」
「そうだね、名前はどうしようか」
遠くで声が聞こえた。
体を優しく揺すられながら、額に小さく口付けを落とされた。
「命の息吹……私たちの宝物。……名前は、伊吹にしましょうか」
「……いいんじゃないか?僕は君がいいならそれでいいよ」
いぶ、という部分がなんだかとても懐かしい気がした。
だが、そんなのは気のせいなんだろう、忘れてしまった方がいいと、イヴは記憶の闇の中に、その思いを全部封じ込めた。
「ほら、伊吹。パパとママよ」
優しい女性の声に答えて、『伊吹』は、その人へにっこりと笑い掛けた。
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