15.屈辱




アダムに挨拶してから、いつものようにリンゴの木の下へやってきて、いつものように、他愛のないやり取りをした。

そして、帰り際、これまた同じように口を開いた。

「私の事、好きになった?」

これは、毎度の決まり文句だった。
レボルトが返してくる台詞も全く同じ。

これは、二人の変わらない関係を再認識する儀式のようなものでもあった。

たから、この問にイェスと答えてはいけないのだ。肯定してしまえば、バランスが崩れてしまう。
踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまう。
なのに、この日のレボルトは少しおかしかった。

「……もしも、俺が貴女を好きと言ったら、 
その時はどうするんですか?」

「え……?」

唐突に、無表情に目を見ながらそう言われた。

「……どうって……どうもしないわよ」

彼に好きと言われれば、それはまあ嬉しいに決まっている。
だが、それを口に出しても公にしてもいけない。
リンゴの木は禁忌の実のなる危険な木だ。
本来なら、近寄るだけでも許されないというのに、イヴは神の子供だからという免罪符に甘えている。

この関係を続けるため、レボルトの隣に居続ける為に、靡いてはいけないのだ。

「質の悪い冗談はやめ――」

「……冗談じゃないと言ったら、どうします?」

唐突に、顎を掴まれ無理矢理視線を合わされた。
ここまでは、ギリギリだが、まだ許される。
禁忌に触れてはいない。

だが、これ以上はまずい。

だから、早く馬鹿だ阿呆だと罵って欲しい。いつものように、見下した笑みで突き飛ばしてくれればいい。

そうじゃなければいけない。

触れてはいけない。

そういうものなのだから。

なのに、この唇に触れている柔らかいものはなんなのか。

「……っ!」

キスされたのだと気付いた時には全て遅かった。
肩を強く抱かれ、この十年間耐えたのだから褒美をくれと言わんばりに、貪り食うようにして、がむしゃらに深い口付けを落とされた。
魂ごと命すらも食い尽くされそうなそれに、イヴはなんとか抗おうとした。

「っ………ぁ………め!!」

ドンッと力強く押すと、呆気なくレボルトは離れていった。

「これに懲りたら、二度と近寄らない事です。分かりましたね」

そう、先程の口付け等なかったかのような冷静な怒気すら篭っていそうな声音で告げると、彼は姿を消してしまった。

レボルトは人間ではない。
人間とは根本的に違うものだ。

来るなというのなら、もう近づくなと言うのなら

(どうして……キスなんかしたのよ……っ!)

少女は人知れず涙を流す。

自分がもう戻れないところまで、彼に毒されているのだと知った時、イヴは神の子ではなく、一人の人間の少女として、責任も全て忘れて、涙した。

「……ただいま」

項垂れながら、屋敷の戸を開いた。
その屋敷は、広々とした楽園の庭園の丁度中央に位置していた。
三人で暮らすにしては広い家だったが、イヴはこの我が家をなかなかに気に入っていた。

扉を開けると、アダムがイヴの帰りを待っていた。
これはいつもの光景だ。
アダムは異常なまでに過保護なので、イヴの帰りを忠犬さながらに待つことなどいつも事。

だが、今日の彼はなんだか妙だった。

いつもなら、優しい笑顔でおかえりと言ってくれる筈なのに、今日のアダムは無言だった。
それどころか、怒気すら孕んでいそうなその眼差しにイヴはびくりと肩を震わせた。

しばらくして、動かないイヴに痺れを切らしたのか、アダムは殺気を放ったまま、イヴを無言で樽のように担ぎ上げた。

あまりの怒気に、抵抗する気なんてなにも起こらなかった。
抵抗したら殺される。
そう直感的に思った。

アダムは、震えるイヴを無言で寝室に連れ込むと、無造作に肩からイヴをおろし、そのままベッドの上に倒れ込んだイヴの両手首を凄まじい力で押さえ込んだ。

「…………お前は……立場を分かっているのか?」

帰宅して、初めて聞いた彼の声は怒りに震えていた。
静かに、彼なりにイヴを怖がらせない様に、極力殺気を隠してはいるようだったが、それでも鬼のようだった。

「お前は俺の妻となる立場だ。……子供の時から、そう教えてきた」

イヴはアダムの妻になる。
それは、生まれた時からずっと教え込まれてきたことだ。
彼の伴侶になることは義務であり、断るなどということは出来ない。

たとえ、イヴがアダムを愛していなかったとしても、兄としか見ていなかったとしても、神とアダムの決定、愛玩用の傀儡であるイヴに、逆らうなんて選択肢はない。

「わ……分ってるわ……」

「分かっていないだろう!?」

イヴの反論に、とうとうアダムの中で我慢が出来なくなったようだ。

「十年も、お前の為を思って優しい兄を演じてきた。それも……もう終わりだ。お前は、俺だけを視線に写し、俺の声だけを聞き、おれのためだけに鳴いていればいいんだ!!それを……っ!それをっ!どうして他の男に目を向けた!!」

アダムの叫びは悲痛なものだった。

彼は、おかしかった。
アダムは、一度として妹として見てはいなかった。
今までの平穏は彼の我慢によって成り立っていた曖昧なものなのだと、どうして気づけなかったのか。

「ご……ごめん……なさいっ!ごめんなさいっ!」

誤ると、手首に込められていた力が強まった。

「……蛇に唇を許しておきながら、今更なにを懺悔するんだ?」

やはり、バレていた。
イヴは顔から血の気が引いていくのを感じた。

不気味に笑いながら、アダムは無情にもイヴの纏っていたワンピースの胸元を紙のように破った。

「いやっ!嫌嫌!!こんなのは嫌っ!!やめてよ!!……やだっ!いやいやいや!!」

嫌だった。
こんな無理矢理されるなんて、絶対に嫌だった。
だから必死に抵抗した。
だか、男の狂気には勝てなかった。

「……痛くはしない」

耳元で愛おしげに囁かれて、寒気がした。
そういう問題ではない。
これは侮辱だ。屈辱だ。
同意も何もあったものではない。

キスされただけだ。
体までは許していない。

確かに、こちらに否がなかったとは言い切れない。

でも、思っていただけだ。
それでも、こんな無様な扱いをされていいわけがない。

「……早く孕めばいい。枷は多い方がいい」

にこやかな、いつも頭を撫でられている時と同じ声音で優しくそう言われて、イヴは絶望を味わった。

「もう、この屋敷からは出さない。安心して、抱かれていろ」

ああ、体はもう諦めよう。
だが、心までは渡しはしない。

イヴは素肌に男の腕が這うのを感じながら、グッと歯を食いしばった。

これは、罰だ。

許されない思いを、それでも叶えてしまいたいと思ってしまっていた愚かな女への天罰だ。


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