8.乱調
「……イヴ……か」
名前を聞いたユウは、そうぼそりと無表情に言葉を零した。
そして口元に手を当てて何か、考えているような仕草をしてみせた。
だが、イヴが瞬きをした次の瞬間には、ユウは元通りのにこやかな表情へと戻っていた。
彼は、イヴの手を紳士のように取ると、エスコートするようにイヴへと笑いかけた。
「いい名前だね。……よろしく!イヴ!」
「え……ええ……」
(何を……考えているのかしら……)
これでは本当に全くの別人だ。
視線は柔らかく、敵意も殺意も憎悪も感じられない。
「せっかくだし、お茶にしようか。お客様は久しぶりなんだよ!テンション上がっちゃうなー!」
あははと軽やかに笑い、ゆっくりとイヴの手を引いて歩きだした彼は、好青年にしか見えない。
今までの対応を見るに、とりあえずは信用していいのかもしれない。
だが犯したい殺したい等の、物騒な発言を忘れたわけではない。
(様子見ね……)
下手に反抗して殺されてもたまらないので、とりあえずは大人しくユウにエスコートされておくことにした。
しばらく歩くと、ユウは廊下に無数にある一枚の鏡の前で唐突に足を止めた。
見たところ他の鏡となんの代わりもない。
バレエ教室にあるような、壁と一体化したシンプルななんの特徴もない鏡。
「あの……ユウ……さん?」
「ああ、呼び捨てで構わないよ。で、なに?」
「えと……ユウ、……ここに……なにかあるの?」
「まあまあ、黙って見ていなよ」
そう言うと、ユウはそっと眼前の鏡に手を当ててみせた。
その光景に、レボルトの部屋での出来事を無意識に思い出し、卒倒しそうになった。
だが、気合でそれを乗り切って、下唇を軽く噛んだ。
だが、流血沙汰になるのではないかというイヴの考えは杞憂に終わった。
ユウは、鏡を割るのではなく、そのままぐいっと腕を中に、押しやった。
言葉通り、鏡を通り抜けて腕が中には入り込んでいったのだ。
まるで、水の中に物体が沈み込んでいくかのように。
「え……え……?……これ、どうなってるの?」
「君、本当に反応が初心で面白いよねー。どうもここはふてぶてしい野郎が多くて、面白くもなんともないからさ、新鮮でいいよ。あー、かわいい!」
「そ……それは……どうも……」
「うんうん、初でかわいい」
「あ……あはは……」
笑顔で髪の毛をワシャワシャしてきたユウに、イヴは半笑いするしかなかった。
なんとも複雑な心境だ。
そもそも、可愛いと言われ慣れていないので、褒め言葉を連呼されるのが堪らなく恥ずかしい。
正直死にたい。
穴があったら入りたいどころか、そのまま埋めて欲しいぐらいだ。
「そ!それより!説明してください。……これ、どうなってるの?」
「あー、敬語はいいからね。外さないと質問には答えません!」
(こいつ……普通に面倒くさい)
てへぺろなんていう、自分よりも身長の高い男からは聞きたくもない効果音が聞こえたような気がして、イヴは内心舌打ちした。
神とか以前に、普通に鬱陶しい。
面倒臭い。
関わり合いになりたくない。
(緋人に合いたいなー……)
無表情で無言な彼が恋しくなってきた。
だが、今それを言ってもなにも解決しないので、イヴはこほんと小さく咳払いをすると、不本意ながら口を開いた。
「これ、どうなってるの?」
「細かいことは気にしないの」
(結局、答えないのね)
これは、本格的に面倒くさい匂いがしてきた。
ユウは表情筋の引きつっているイヴを完全に無視すると、よっという掛け声を上げて、そのまま鏡の中に入り込んでいった。
ユウが入った瞬間、鏡は水面のように揺れていたが、彼の体が完全に向こう側へと入ると、何事もなかったかのように、ただの鏡面に戻ってしまった。
「ほら、イヴもおいで」
イヴの側からは、中に入ってしまったユウの姿は一切見えず、声だけが聞こえてきた。
「私も……入るの?」
「当然。……ほら、おいで!」
当然などと言われても、イヴの常識では少なくとも鏡の中に入るという行為はファンタジー以外のなにものでもない、非現実的なものだ。
「いや、私は……」
「大丈夫だって!ほら、手を!」
そう言って、ユウは鏡の前で渋っているイヴに腕を差し出してきた。
それにより、鏡から腕だけが出ているというなんともホラーな光景が演出されてしまっていた。
正直なところ不気味だ。
地獄かなにかに引きずり込まれそうな気しかしない。
「……イヴ」
姿の見えない人物に、名前を呼ばれた。
いよいよホラー映画になってきた。
「……分かったわ」
これ以上、ホラー的な展開は勘弁して頂きたいので、イヴはぴくぴくと目知りを軽く痙攣させながら、渋々ユウの両手に自らのものを重ねた。
次の瞬間、イヴの身体は物凄い力で鏡の中へと引きずり込まれた。
「うわぁ!?」
突然のことにバランスを崩し、前のめりになり、床に激突しそうになってしまう。
だがその寸手の所で、ユウは器用にもイヴの体を片腕で持ち上げてくれた。
更にそのままぐいっと体を持ち上げられ、不服ながら、そのままユウに抱きとめられる形となった。
「……ありがとう」
仏頂面でお礼を告げて、そのままユウの胸をバンッと押し返した。
だが、ユウは特に気分を害した様子は見受けられなかった。
「どういたしまして」
それどころか、笑顔で返答するユウはすこぶる上機嫌に見えた。
「それよりイヴ、周りを見てご覧よ」
「周り……?」
ユウに、言われるままにぐるりと視線を周りに巡らせてみた。
そして、見えた光景にイヴは思わず感嘆の声を零してしまった。
「……気に入った?…どう?」
目を見開きその場で固まったイヴに、ユウは主人からの褒め言葉を待つ犬のように、満面の笑みでイヴに微笑みかけてきた。
「どうって……」
鏡の向こう側、ユウに連れて来られたこの場所は、部屋中に大小様々なぬいぐるみで埋め尽くされた、子供部屋のようなメルヘンチックな場所だった。
足の踏み場もない程の量のぬいぐるみ達の中で、ティーテーブルと二脚の椅子だけがやたらと浮いて見えた。
確かにイヴも年頃の娘。
ぬいぐるみ等の可愛い物体は好きだが。
「気に入ったかと言われたら気に入ったけど、これ、あなたの趣味?」
ユウに連れて来られた部屋という事は、ユウが必ずセッティングした筈。
イヴとしては可愛らしいので満足というか、うずうずしてくるが、大の男の趣味なのだと思うと、引き攣った笑いしか出てこなかった。
「まさか!」
疑ったイヴに、ユウはケタケタと笑ってみせた。
「違うよ!……残念ながら、僕にクマやウサギのぬいぐるみを愛でる趣味はない。これは、君の為のものだよ」
「私……?」
「そう。……好きでしょ?」
ニッと笑ったユウに、何故か悪寒がした。
好きに決まっていると、ユウの中でその自信は確固たるもののようだった。
意義は認めない、君はこれが好きに決まっているという、押し付け。
「……好き……だよね?」
「……え……ええ」
静かながらも、確かな威圧に、イヴは内心冷や汗を流していた。
やっぱりこの人は完全な良い人なんかじゃない。
なにか、掴めない恐ろしいものがある。
「そっ!じゃあ、早速お茶にしようか」
ユウは怯えるイヴに、仮面のような笑みを向けたのだった。
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