Frozen's thervant 
 -アナ雪エルサ主従夢-




フィヨルドに、新しい夜明けが訪れる前夜、小さな国の小さなお城、その一室でたった2人のささやかな任命式が行われていた。

「『辞令、ヴィルヘルミナ・ソールバルグ。
アレンデール国次期女王の名において、上の者を、明日より王室警備隊近衛兵士へと任命します』」

上質な羊皮紙に記された辞令書を読み上げるのは、21歳になったエルサ姫だ。
いつもの自室にて、目の前に跪くヴィルに微笑みかけた。

「おめでとう、ヴィル」

「恐縮です、エルサ様」

そこでぴりっと張りつめた雰囲気を解き、ヴィルもふっと笑って立ち上がった。

「なんとか間に合ってよかったです。
エルサ様も明日は、滞りなく式を終えられますよう、わたしも尽力いたします」

ヴィルのその言葉に、エルサの目の下がぴくりと反応した。
明日こそが、アレンデール全国民が待ち侘びた夜明けだ。
21歳を迎えたエルサ姫の戴冠式――アレンデールに新しい女王が誕生する、記念すべき日だ。

一夜が明け、いよいよ当日。
空は爽やかで、天までもが新女王を祝福しているような晴天だ。
城と街を繋ぐ橋や広場には、アレンデール王室の紋章であるクロッカスや、新女王となるエルサの横顔のシルエットをあしらった小旗がいくつも掲げられ、戴冠式を待つ国民たちの期待をはらんで軽快にはためいている。
13年間閉ざされてきた城門が、今日1日だけ開放されるというニュースは、アレンデールの国内はもちろんのこと、国外にまであっという間に広まった。
人々は新しい女王をこの目で拝もうと、城門の前で今や遅しと待ち構えていた。

式典に出席するため、諸外国の王侯貴族や高官たちを乗せたきらびやかな船が、アレンデール港に1隻また1隻と入ってきた。
普段は静かで、小国に似つかわしいこじんまりとした船着き場は、活気に満ち溢れ、下船した賓客たちを港の監督官が恭しく出迎える。

「アレンデールへようこそ!
足下にお気をつけて!すぐに門が開きます!」

港に隣接する街の広場では、ひとりの子どもが、伝統的な民族衣装の上着をきちんと着せようとする母親から逃げ回っていた。

「なんでこんなかっこするの?」

「女王様が、成人なさったのよ。
今日は戴冠式なの!」

「そんなのぼくにかんけいないよ」

親子は男たちが数人がかりでメイポールを立てているそばを通り過ぎ、橋を渡って城門へ向かう人々の波に加わった。
広場には様々な屋台が出ており、そのひとつの前に、山男風の男が立っていた。
男の傍らにはまだ新しい荷馬車が停まっていて、氷のブロックが満載されている。
馬の代わりに、立派な角を生やしたトナカイが若者の脇に控えていた。
若きアイス・ハーベスターは、成長したクリストフ少年の姿だった。
荷馬車に向かって作業しているクリストフの尻をスヴェンがそわそわと小突く。

「どうしたスヴェン?」

クリストフが後ろ手に何かを隠し持ちながら振り返った。

「おやつくれよぉ」

言葉をしゃべらない相棒の代わりに、クリストフはいつもスヴェンの"心の声"を代弁していた。
フガフガした喋り方で、スヴェンのクリストフが言った。
スヴェン自身も、きちんとそう言いたげに足踏みをしている。

「ちゃんとお願いするんだ」

クリストフはいじわるをするかのように持っていたにんじんを頭の上に持ち上げて「おあずけ」した。

「ください!」

スヴェンのクリストフが言うや否や、スヴェン自身は待ちきれないとばかりに頭上におあずけされたにんじんにひと口でかぶりついた。

「あ。あ、あ。……半分こな」

むしゃむしゃとかみ砕かれる前に制してそう言うと、スヴェンはベッと無事なにんじんをクリストフに差し出した。唾液まみれだが。
クリストフはそんなこと気にするでもなく、にんじんの茎を握ると、スヴェンの歯でパキッと半分に割った。
いっぱしのアイス・ハーベスターに成長しても、このにんじんを分け合う習慣は抜けていないようだ。

そんな彼らの脇をとある夫婦が通り過ぎていくが、その足並みは浮き立ち、小走りになって城へ向かっていた。

「楽しみだ、城の門がついに開くぞ!」

「今日はずっと開いてるって!
早く行きましょ!」

女がハットを差し出しながら連れを急き立てる。
男は上機嫌にそれを受け取ると、くるりと手遊びで回転させてから小気味よくちょうどいい角度で頭に収めた。
その直後には女が手を引き、ついには駆け出していくのだった。

船が新たに1隻港に着け、白いカイザー髭を生やした小男、ウェーゼルトン侯爵が下りてきた。
側近というよりは用心棒といった見てくれの図体の大きな男が数人、侯爵のすぐ後ろに張りついて、油断なさそうに周囲をねめつけている。

「あぁ、アレンデール――謎に満ちた貿易の相手……。
早く門を開けろ!お前の秘密を暴き、富を奪ってやる!
……誰かに聞かれたかな」

侯爵は上機嫌で、芝居がかった台詞を吐いた。
それが、このうさんくさい人物の癖なのだ。
大げさな言い回しが小柄な体を補ってくれると、無意識に思っている。
しかし、芝居がかっているとはいえ、そのほとんどは確かに聞かれるとまずい、正真正銘の本音だ。
生前、アグナル国王がエルサの力を秘密にしたのは、こういう輩から祖国と王家を守るためだった。
小国ながら、豊かな資源に恵まれ、"フィヨルドの結晶"と讃えられるこの国を狙う者は、少なくない。

ウェーゼルトン侯爵の一芝居から少し離れたところにはまた別の諸国からの賓客が談笑していた。
肩を組み、城へと掛けられた橋を上機嫌に渡っている。

「あぁ……女王と王女にお会いするのが楽しみだ!
きっとお美しい方でしょうな」

「えぇ、本当に楽しみです」


「――アナ王女。……アナ王女!」

城の自室では、扉の向こうから繰り返される侍従の呼びかけがやっと届いたようで、アナがベッドからむっくりと上半身を起こした。
起き抜けの髪は鳥の巣のようにぐしゃぐしゃで、お世辞にも"お美しい方"とは言えない。
鼻をすすり、口に入った髪の毛を取って、目をこすった。

「あ、あー、ん……はぁい?」

目はまだまだ起きておらず、それでも声だけはと、しっかり返事を送りだそうとした。
しかし長年勤める侍従にとっては全てお見通しだ。

「お休み中申し訳ありません」

「いいのいいの、とっくに――起きてたから……」

言葉とは裏腹に大きなあくびを挟み、答えるや否や再び頬杖を頼りに夢の世界へ旅立ちかけていた。
カクン、と頬がずり落ちたところで、アナはまた頭を起こした。

「誰なの?」

それでもまだ目は開いていない。

「私です。さっきからずっと……。
もうすぐ門が開きます。支度をなさってください」

「すぐする……何の支度?」

未だ眠り回っていない頭をゆるりと働かせて受け答えた。
今日は何か予定があったっけ?

「姉上様の、戴冠式ですが……!」

扉の向こうから戸惑いを隠した声が届いた。
姉さんの、戴冠式……。
うっすらと開いてきた目で部屋を見回すと、衝立に戴冠式用のドレスが用意されているのが見えた。
今日はいつもの灰色の1日じゃない!

「……!
戴冠式だ!」

アナの頭と目は一気に覚醒した。

「今日は戴冠式だー!」

身支度もそこそこに、アナが部屋から飛び出すと、城内の様子は一変していた。
普段はどこに隠れていたのか、大勢の召使いが城のそこかしこで忙しそうに式の準備に追われている。
食器の山を運んでいた召使いの列に突っ込んだアナは、危うくひとりにぶつかりかけた。
(あんなにたくさんのお皿がこの城にあったなんて!)

戴冠舞踏会の準備で忙しない大広間を、靴下で滑って通り抜ける。
城内の窓という窓のよろい戸が引き上げられ、明るい夏の日差しが差し込んでくる。
(あのよろい戸、まだ動かせたのね!)

王女様としてははしたないことこの上ないが、アナは螺旋階段の手すりにお尻を乗せて、一気に滑り下りた。
なにせ、今日は城門が開くのだ。13年ぶりに!
悠長に1段ずつ下りてなどいられない。
1階のホールまで下りきったところで、たもとに立つ衛兵たちが笑顔を浮かべ、アナに敬礼した。
(あの人たちも笑えるんだわ!)

門の向こうには、楽しそうに微笑みを浮かべた見知らぬ人たちが、式の始まるのを待っている――やがて城がそんな人たちでいっぱいになるなんて、すごく変だ。
でも、変化は何でも大歓迎!
まだ門が開くまで時間があると衛兵に教えられたアナは、階段をのぼる気になれず、窓ふき作業用のブランコに飛び乗った。
器用に滑車を操って塔の上まであがると、アレンデール港が一望できる。
優雅な姿の帆船が次々に入港してくる景色を、アナはうっとりと眺めた。
(もしかしたら、あの帆船のどれかが、私の"真実の愛"を運んでくるかもしれない)
そう思うと、ますますじっとしていられなくなった。

アナは窓から城の中に戻ると、カーテンをぐるぐる巻きつけながらターンした。
(今夜は生まれてはじめての舞踏会。ひと晩中踊り明かしてやるんだから)

壁際に立ち、ダンスフロアで踊る人々を眺める自分を想像してみる。
晩餐会用に、召使いが飲み物やお菓子を用意しているテーブルに目が留まった。
朝から興奮のあまり胃のあたりが落ち着かないのだが、甘いものは別腹だ。
エルサやアナの好物を知っているヴィルが手配した好みの甘さのチョコレートを頬張っていると、テーブルの脇に男性の胸像が飾ってあるのに気が付いた。
(おお、あの人はまさしく私の"真実の愛"!そんなところにいたのね!)
アナは胸像を抱き上げてダンスし始めたが、手元が滑って、胸像を5段重ねのケーキの上に落としてしまう。
おかげでアナの真実の愛の相手は、ドレスを纏った貴婦人のように見えた。
(でもいいの!ふたりで夜通し笑ったり、お話したりするんだもの。
すごく不思議な感じだろうな。だって、今までそんな経験、一度もなかったし)

絵画室に足を向けたアナは、いつものように、絵の中の友人たちに心の内を打ち明けた。

「何もかも、生まれてはじめてづくしの1日になるわ。
生まれてはじめて、魔法のような1日が、楽しいことが待ってるの。
生まれてはじめての生身の友人、生まれてはじめての経験。
それに、もしかしたら、生まれてはじめて、誰かに気づいてもらえるかも。
心が躍るの――ううん、分かってる。
城門が開くのはたった1日だけってことはね。
"真実の愛"に出逢えるかも、なんて期待するのは、ばかげてるのも分かってる。
でも、生まれてはじめて、少なくとも出逢いのチャンスが巡ってきたのよ!
ロマンスの訪れを密かに祈ってもいいと思わない?」

アナは期待で胸がいっぱいになり、カウチに飛び乗るとぴょんぴょん跳びはねて、絵の中の人物と同じポーズを作って遊んだ。
慎み深い絵の中の友人たちは黙って王女を見守り、「そんな子どもには"真実の愛"なんてまだ無理なんじゃないの」とあえて忠告する者はいなかった。
気が済むと、アナは中庭に出て、そわそわとしながらも、おとなしく開門を待つことにした。


城の上階にあるエルサの自室からは、橋を渡って城門の前に集まる人々の様子がよく見えた。
今日は自分の戴冠式だというのに、その顔は一向に晴れない。
城の内外を支配するお祝いムードもエルサには関係なかった。
こんな大勢の人々と対面するなど、これまで経険したことがない。
傍らに佇むヴィルの服の裾を無意識に掴んだ。
自分の不思議な力をコントロールするのに失敗し、皆に秘密がばれてしまわないか、誰かを傷つけてしまわないか、不安でたまらなかった。
窓から離れたエルサは、壁に掛かる前国王の載冠式の絵を見上げながら、これまで何万回となく唱えてきた父の教えを反芻する。

他人を遠ざけろ
人目にさらすな
完壁であれ
今もこれからも

「――もう一度だけ、練習しておきますか?」

ヴィルが静かに尋ねた。
エルサが頷くと、ヴィルはクッションの上に卓上の燭台と小ぶりの壺を載せ、エルサと対面する形で差し出した。
エルサは小さく息を吸ってから、手袋をはずして、燭台と壷を手に取ると、笏と宝珠に見立てて絵の中の父王と同じポーズをとる。
戴冠式では、素手でそのふたつの宝物を受けとるしきたりだった。

隠せ
感じるな
演じきれ
一つでも下手を打てば
皆に知れてしまう

エルサの願いとは裏腹に、緊張が冷気となって手のひらから燭台と壺に伝わり、たちまち氷結していく。
表情を曇らせるヴィルの手元へ凍りついた装飾品を戻すと、エルサは目を伏せ手袋をはめた。

「今日だけなら……上手くやってみせるわ。
行きましょう、ヴィル」

「はい」

この日さえ切り抜ければ、城門を閉めてまた穏やかな日々に戻れる。
門が閉まるのが、待ち切れなかった。
エルサは深呼吸をひとつすると、ヴィルを伴い扉を開け、衛兵に命じた。

「門を開けなさい」


エルサの命が門番に伝えられ、4人がかりで城門の二重扉がゆっくりと開かれる。
13年ぶりに、アレンデール城は訪問者たちをその懐に迎え入れた。
アナは中庭になだれこむ人の流れに逆らい、ひとり門を飛び出した。
通り過ぎる人々や周囲を物珍しそうに眺めながら、橋を渡って街の広場に出る。
国旗、メイポール、花々――どれもが姉の女王戴冠を祝福していた。

「今日は独りじゃない……生まれてはじめての自由よ!」

色とりどりの飾りつけや、たくさんの屋台でにぎわう広場をやり過ごし、まっすぐ港の方へ向かう。
異国の船から下りてくる賓客たちを見にいくつもりだった。
アナは、明日には全てが終わってしまうのを、十分承知していた。
チャンスは今日限りだ。
今日1日だけは、アナを閉め出すものも、邪魔だてするものも何もない。何も……。

「わゎ、ぅあっ!」

突然横道から出て来た何者かが、思いきりぶつかってきた。
アナは突き飛ばされた勢いで、桟橋の先に引き上げられていた小舟に倒れこんだ。
小舟はアナの重みで前後に揺れたかと思うと後ろに傾きはじめ、桟橋から落ちそうになる。
アナは観念して目をつぶったが揺れがピタリと収まった。
目を開けると、船べりに馬が前肢をかけて落下を防いでくれている。
アナがぶつかったのは、1頭の堂々とした体躯の白馬だった。
はじきとばされたのも無理はない。

「……ちょっと!」

反動で頭に乗っかったワカメを捲りアナは抗議の声を上げた。

「すまない、怪我はないか?」

馬の乗り手が手綱を引き、声をかけてきた。
ぶつかってきたのはどこの誰だと睨み上げていたアナは、乗り手が身なりの整った見目麗しい青年であることに気がついた。
こんなに立派な貴公子は、絵画室のコレクションの中にだっていやしない。

「……、どうも、はは……あー、ええ、うん。平気平気大丈夫」

慌てて、アナは淑女らしく口調を改めた。

「本当に?」

青年は馬を下りた。
異国の軍服をパリッと着こなした長身の若者から、アナは目が離せなくなった。
相手は心からアナを心配しているようで、自ら小舟に乗りこみ、怪我していないか確認している。

「ええ、ちゃんと前を見てなかったものだから……」

ようやく落ち着いてきたアナは腕に張りついたワカメも海に帰しながら殊勝に答えた。

「でも、大丈夫。本当に」

「ああ……ならよかった」

青年は安心したように頬を緩め、アナを助け起こすために手を差し出した。
アナもその手を取るが、2人は吸い寄せられるように目を合わせたままだった。
全身を痺れるような、震えるような、不思議な何かが走った。
アナにとっては生まれてはじめて味わう感覚だったが、ちっとも不快ではなかった。

「……あっ、あー、サザンアイルズのハンス王子です」

気恥ずかしさを隠すように、若者はさっと会釈した。

「アレンデールのアナ王女です」

アナもドレスをつまんで、精一杯おしとやかにお辞儀をする。

「王女?
失礼しました……!」

いわれて見れば、白い首にかけられたチョーカーにはアレンデール王家の紋章があしらわれ、オリーブグリーンのドレスの仕立ても相当上等なものだ。
ハンスは居住まいを正すと、片膝をついて頭を垂れた。
よほどお仕込みが良いのだろう、シトロンという名の王子の馬も、主人にならって上品に片肢を曲げてお辞儀をした。

「わ、」

とたんに、小舟が後ろに傾く。
バランスを崩したハンス王子が、たまらずアナに覆い被さった。
互いの唇が触れ合いそうなくらいに王子の顔が迫り、アナの心臓が跳ね上がる。
気まずさのあまり、アナは間の抜けた挨拶をした。

「……どうも、よろしく……っわ!」

失態に気がついたシトロンが、とっさにひづめを船にかけ戻して安定させる。
ふたりは勢い余って反対側に倒れこみ、今度はアナがハンスの上に覆い被さった。

「ぅわ!……参ったな」

恐縮するハンスの上でアナは慌てまくる。

「ほんと恥ずかしい……あなたのことじゃなくてあたしのこと。
あなたはとっても素敵。……やだあたし」

と言ってしまってから、アナはしまった、とばかりに目をそらした。
ハンスは素早く立ち上がると、アナを助け起こした。

「アレンデールの姫君に馬でぶつかったことをお詫びいたします。
それから、そのあとに起きたことも……」

「ああ、いいのいいの大丈夫。姫君なんてガラじゃないから。
姉のエルサの方だったら、きっと、うぅ〜……だったけどねっ」

アナはそう笑いながら小舟から桟橋へ降りると、馬に挨拶した。

「どうも」

シトロンを撫でながら、混乱した頭の中を整理する。
そしてハンスに向き直ると、茶目っ気たっぷりに肩をすくめた。

「ほんと、運がよかったね。あたしの方で」

「……あぁ、そうかもね」

ハンスが含みを込めてそう答えると、極上の微笑みをアナに向けた。
アナもつられて、自然に微笑み返す。

突然、城の鐘が辺りに鳴り響いた。

「鐘だ、……戴冠式!
あたし……、っもう行かなきゃ!今すぐにね。
ほんと、行かないと……」

アナはあわてて駆け出すが、立ち止まって振り返り、ハンスに小さく手を振った。

「あ、――じゃあね!」

そそっかしいアナの後姿に、ハンスが笑いながら手を振り返す。
シトロンも前肢を振り返した。

「あぁまずい」

再び支えを失った舟が、王子を乗せたまま後ろ向きにもんどりうって水中に落ちる。

バッシャン!

頭に舟を被ったハンスが、水面に頭を出した。
水も滴るいい男は、それでもまだ困ったような微笑みを浮かべていた。


アレンデール王立聖歌隊の清らかな歌声が、2階の聖歌隊席から聖堂内に響き渡ると、それを合図に戴冠式が始まった。
中央の長い身廊を司教を先頭に、エルサと姉のマントのすそを持ったアナが続く。
3名のみの、ささやかな行進だ。
おさげ髪を頭の上にまとめ、 肩までむきだしのドレスを纏って惜しげもなく若さをさらしているアナとは対照的に、
手袋と同色のエメラルドグリーンのドレスに全身を包んだエルサは近寄りがたい風格を放ち、立て襟のついた紫のマントがその高貴さをいっそう際立たせていた。
祭壇につくと、司教がエルサと向かい合わせに立った。
そこへ、きちんと髪を結い身なりを整えたヴィルが、サテンのクッションを高々に持って祭壇に上がった。
王冠、王笏、宝珠の宝物一式がクッションに鎮座し、王冠と王笏の先端には、王家の紋章であるクロッカスの意匠があしらわれていた。

アナは背中越しに会衆席の方に目をやり、ハンス王子の姿を探した。
満席だったが、前列の席についた上背のハンサムな王子はすぐに見つけられた。
王子がアナに目立たないように小さく手を振る。
気の毒にも、隣席の男が船を漕ぎだし、ハンスの肩に頭を預けてきた。
アナはクスッと笑いをもらしながら小さく手を振り返すと、すぐにまじめくさった顔に戻って式に集中した。

円筒帽を目深に被ったヴィルが見守るなか、司教が掲げた王冠を、エルサが頭を差し出して頂く。
緊張からか、エルサがほとんど苦悩に近い表情を浮かべていることに、 正面で相対している司教が気づいた。
エルサの亡き父、アグナル前国王の戴冠式でも同じ王冠をその頭上に載せた司教は、新女王のか細い両肩にのしかかる重責を思い、密かに同情した。
だが、式は滞りなく進めねばならない。
司教は王笏と宝珠の載ったクッションをヴィルから受け取り、両手で掲げると、エルサに差し出した。
そろそろと手を伸ばすエルサの耳に、司教の咳払いが届く。

「女王陛下、手袋を」

エルサは一瞬ためらった後、手袋をはずして、サテンのクッションの端に載せた。
息を殺しながら震える手で宝珠と笏を取ると、青ざめた顔を会衆席のほうへ向ける。

「Sehn hon hell darr in-um hell-gum Ayg-num...」

参列者は全員起立し、司教が古ノルド語で朗々と唱える新女王即位の宣明を、厳粛な面持ちで聞き入った。
じれったいほど悠長な文言が続くなか、カタカタと震える王笏と宝珠が凍りつきはじめた。
ヴィルが息を詰める。
エルサは目を見開いて、動揺を表に出すまいと必死に努めた。

「――アレンデールの、エルサ女王です」

「アレンデールの、エルサ女王!」

司教の言葉に参列者全員が唱和する。
誰にも気づかれることなく――もっとも司教だけは、神聖なる王位の象徴を、まるで汚らわしい物でも扱うように性急に手放したエルサの振る舞いが解せない様子だったが――
エルサは霜のついた宝珠と王笏をクッションに戻した。
ついで手袋をとりあげて素早くはめ、参列者に安堵の笑みを向ける。
ヴィルの息がやっと戻ってきた。
聖堂内に、拍手と祝福の声が広がった。
アレンデール女王エルサは戴冠式をつつがなくやりおおせたことに、胸をなで下ろした。
新女王は晴れの舞台を演じきり、秘密は守られた。




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