Frozen's thervant 
 -アナ雪エルサ主従夢-




15歳になったアナは、相変わらず退屈な毎日を過ごしていた。
「絵画室詣で」がすっかり日課になってしまった彼女は、およそお姫様らしからぬ格好で、
カウチや床に仰向けになって寝転がると、額縁の中の家族や恋人たちをぼんやり眺め、彼らの日常に思いを馳せてみる。
だが、最後にはいつも、幸福そうな自分の家族の肖像画に目が留まってしまう。
まるで、そうして見つめていれば、現実の姉が引きこもっている部屋の扉を開け、絵の中と同じ笑顔で、再び自分を抱きしめてくれるかのように……。
とはいえ、肖像画が描かれたのは何年も前であり、今のエルサがどんな風に微笑むのか、アナは知らなかった。
柱時計の振り子がたてるよどみのない音が、やけに耳についた。

エルサの雪と氷の魔法も、それによって危うく自分が死にかけたことも、一切覚えていないアナは、どうして姉が会ってくれようとしないのか、さっぱり理解できなかった。
あんなに3人で一緒に遊んだというのに、ヴィルに聞いてみても歯切れの悪い「わからない」が返ってくるばかりだ。
やがて、エルサの冷ややかさは、性分なのだと思うようになった。
以前、家庭教師が、「氷の心臓を持った悪い霊が、アレンデールに永遠の冬をもたらす」というトロールの予言を教えてくれた。
王国に古くから伝わる伝説だというが、エルサはきっと、その氷の心臓の持ち主なのかもしれない。
そんなふうに考えでもしないと、最愛の姉を憎んでしまいそうでアナは苦しかった。
何年も拒み続けられるうち、あれほど固く結びついていた姉妹の絆が、少しずつほどけていくような気がしてならなかった。

アナは知るよしもなかったが、エルサもまた孤独を味わい、妹が姉を慕うのと同じほど強く、アナを恋しがっていた。
好きこのんで妹を避けているわけではなく、エルサにしてもアナに会いたくて仕方がなかったが、誤って魔法で妹を傷つけてしまうのを死ぬほど怖れていた。
そのことを考えただけで、周囲に霜が降りはじめる始末だ。
自分の気持ちを何よりも揺らす存在が妹である以上、アナは遠ざけなければならない危険因子なのだ。
近寄れるわけがなかった。
ヴィルは、自分だけがアナとも会えることに申し訳なさを感じているようであったが、
エルサにとってヴィルが話してくれるアナの様子は、こんな環境になってしまったなかでの唯一の楽しみだった。

妹が生まれてから5年間、ふたりは常に一緒だった。
「プリンセス」の肩書きを分かち合える存在ができて、どれほど嬉しかっただろう。
王女にかけられる周囲からの期待は大きく、幼少のころからあれをしろこれをするなとうるさく言われ、おとなしく従っていたエルサと違い、アナは何にでも抵抗した。
はしたなく大口を開けて笑うなと言われれば顔中を口にして笑い、
ケンカをするなと言われればおもちゃの剣で男の子をやっつけ、
木に登るなと言われればてっぺんまで登ってみせた。
エルサが雪と氷の魔法を見せると、アナは大喜びしてくれた。
ヴィルだって雷の魔法を使うことができるのに、どうして自分は何もできないのか不思議がったが、それはエルサにも分からない。
妹にも同じような力があったらいいのに……。
エルサはそう思わずにいられなかった。

あの事件の後、妹と再びともに過ごせるようになるためにも、この不思議な力を完全に制御する術を身に付けなくては。
そう心に決め、エルサは修行にいそしんでいた。
だが、成果は芳しくなかった。
父王にもらった手袋をつけていれば、手のひらから雪や氷のつぶてが吹き出すことはなかったが、
周囲の気温が急速に下がり、壁や床を氷結させてしまうのは防ぎようがない。
今のところ、感情を抑えるという以外、有効な手立てを見つけられないでいた。
踊り場を通るたびに何度も手袋を脱いで甲冑と素手で握手の練習をするのだが、
たいてい不首尾に終わり、気の毒なパートナーの右手を氷漬けにしてしまうのだった。
そのうち、使用人や衛兵たちの間で、右手が勝手に凍りつく甲冑の怪談が広まったが、
エルサが18歳になるころには甲冑に見向きもしなくなっていた。


そんなとある日、まだ新品でパリッと強張った、若木を思わせる翠緑の隊服に袖を通したヴィルは、
他の緊張した面持ちの同期たちと横並びに立ち、不動の姿勢で国王夫妻や司教へ身体を向けていた。
本日、荘厳な雰囲気を放つ大聖堂にて行われているのは、アレンデール国王立警備隊の入隊式だ。

「我ら警備隊士は信仰深く、忠誠と恭順、そして尊敬の念を持って、国王陛下とその正統な後継者らにお仕えすること――」

今日からヴィルの上官となる警備隊の隊長が新兵たちを背に立ち、その威厳ある声色を聖堂に響き渡らせ、
最高司令官であるアグナル国王に対し、隊を代表した宣言を行っている。

「――及び、必要とあればそれらを護るために自己犠牲をもって心身を捧げ、
命を投げ出す強さと共にあり続けることをここに宣誓いたします」

ヴィルもまたその言葉を真摯に受け止め、姿勢を正した隊士たちと共に最敬礼をした。
アレンデール国は海と山々に囲まれた小国だ。
国際間での紛争などもなく平和を享受している昨今、新しく入隊する兵士の数は決して多くはなく、
本年入隊する者たちの年齢層も採用基準内でさまざまだった。
その中でも成人したばかりのヴィルは21歳と最も若く、また、筋骨逞しい男性兵士たちの中ではより一層小柄に見えた。
そのため一見心許なさそうに見える彼女だったが、入隊試験は筆記・実技試験ともに首席でのパスであった。
しかしその成績に驚いた者は少ない。
何年も城に出入りし、侍従たちからは教養を、図書館では兵士としての知識を学び、父・オーラを通じて先輩隊士たちとも交流を深めてきたのだ。
ヴィルの実力は城の誰もが知っていた。
大人たちは我が子を迎え入れるような気持ちで、ヴィルの入隊を祝ってくれた。

国王アグナルが、新兵が被る円筒型の制帽の側面に赤い羽根飾りを順につけて回っているあいだ、
ヴィルは上座に控えるイドゥナ王妃とその隣のアナ王女の周りに目をやった。
本来なら母親の傍らに、エルサ王女も立っているはずだった。
宣誓の文言に「正当な後継者らにお仕えする」と含まれている以上、アナと共に、次期女王エルサも出席すべきであった。
しかしそれが難しいこともまた、ヴィルは知っている。
エルサの欠席は体調がすぐれないため、と周知されていたが、本当の事情を知る者はごくわずかのみ。
妥協策として新兵就任の式典が終わり次第、最低限の人数でエルサ王女のところへ挨拶と報告に伺う次第になっていた。

アグナル国王がヴィルの前まで回ってきた。
国王の傍らには、赤い羽根飾りが並べられたサテンのクッションを持ち、
立派に育ったヴィルの姿を見て目にいっぱいの涙を浮かべるオーラが立っていた。
ヴィルは父を見て吹き出しそうになるのを抑え、表情を引き締め頭を垂れて制帽を差し出すと、国王から羽根飾りを頂いた。

「おめでとう、ヴィル」

「光栄です、陛下」

背筋を正して国王に応えると、国王はにこやかに微笑み、ヴィルの隣の兵士へと目を向けた。
オーラが盛大に鼻を啜る音が聖堂内に響き渡ると、アナが吹き出す声が聞こえてきた。
新兵全員への羽根飾りの授与を終え、式次第通りに儀式が終わると、警備隊長に連れられた新兵たちは城の中へ通された。
中には初めてアレンデール城の中に足を踏み入れる者もいたのだが、ヴィルにとっては親しみきった場所だ。
すれ違う宮廷関係者たちからもお辞儀と祝福の言葉が送られ、そこでヴィルの姿を見かけた者は小さく手を振ってくれた。
特に世話になった侍従のカイやゲルダからは、前日にお祝いの靴磨きや制服の埃を払うブラシが贈られた。

「お前が先陣を切って、皆に仕事を教えてやるんだぞ」

先頭を歩きながら横目に見下ろした警備隊長がそう言うと、ヴィルは「はい!」と歯切れよく返事をした。
ヴィルの新兵としての1歩目は今日からだが、入隊以前からひと通りの仕事の手伝いや真似事をし、その範囲は警備隊から召使いの仕事まで手広かった。
そのどれもを完璧にこなせるというわけではないが、業務内容の勝手や要領が掴みやすい状態であることは確かだ。
ヴィルは隊長ともこれが初対面ではないし、彼女が上と下を繋ぐ要になる人物であることは周りの誰もが察するところだった。

新兵たちはエルサの部屋にほど近い広間に通され少し待つと、そこへ国王と王妃に連れられて、緊張した面持ちのエルサが入ってきた。
広間の空気がぴりっと張りついたように感じられるのは、滅多に人前に出てこないエルサが現われたからという理由だけではなさそうだ。
エルサはこれ以上室温を下げないよう、頭の中で父の教えを反芻していた。
口を真一文字に結び、エメラルドの手袋をきっちりとはめ込んで、他の何にも触れないように手で手を包み込んで下ろしている。
緊張で顔が青ざめ、本当に体調が悪いように見えるくらいだ。
ヴィルがそんな彼女をじっと見つめていると、エルサもまた新兵たちのなかからヴィルを見つけた。
先ほど宮廷関係者たちがそうしてくれたことで、自身の緊張がほぐれたヴィルは、同じようにエルサへ小さく手を振ってみた。
すると、エルサは八の字の眉を下げ、肩をすくめて困ったように笑ってくれた。

隊長が再度隊士宣誓を行い、新兵たちが揃って敬礼をすると、エルサは練習した通りに答礼を返した。
表情からして、幾分かの緊張は解かれたようだ。
格式ばった重々しい式は先ほど聖堂で終えているため、広間では簡易的に済まされた。
エルサが簡単な祝辞を述べたのち、再度敬礼して広間を後にするのを見送ったところで全ての式次第が終了した。


副隊長の指示と案内により、新兵たちが警備隊詰所へ戻っていく中、アグナル国王によって隊長とオーラ、そしてヴィルがその場に残された。

「改めておめでとう、ヴィル」

「お心遣い痛み入ります」

国王が軽く手を上げると、ヴィルは式のときと同じようにピシッと敬礼をして返した。
今までと違って、今日からは国王が己の主なのだ。これくらいしないと。
ヴィルがそう思って緊張を崩さずにいると、国王は柔らかな雰囲気を纏って笑った。

「楽にしてくれヴィル。今まで通りでいい」

国王はそこで一度言葉を切り、ヴィルが手を下ろすのを待ってオーラに目配せをした。

「ヴィル、お前はどこか、希望する配属先はあるのか?」

国王の隣に立つ父親が尋ねるが、ヴィルにはその質問の真意が分からず、疑問符を浮かべた。
希望配属先など、それこそ詰所で他の新兵たちと纏めて聞いたほうが集計は取りやすいはず。
しかしそれでも、何かを疑う余地などない彼らからの質問だ。
ヴィルは正直に答えることにした。

「目標は、父さんと同じ、近衛兵ですが……」

ヴィルが目指すところは幼いときからこの道一本で定まっていた。
しかし君主の側を守る重要な役職であることもまた知っている。簡単になれるものではない。
まずは一兵卒として下積みを重ねる心づもりであった。

「それはいいね。
で、その近衛兵になるためにはいくつか条件があるんだが、それは知っているか?」

オーラが再び尋ねる。

「あの……いいえ」

ヴィルは少し目を落として答えた。

「知りたくて、調べてみようとはしたんですけど、図書館の本には載ってなくて……」

アレンデール城の図書館はヴィルの知識の源だ。
裏を返せば、そこに貯蔵されていない情報には明るくない。
警備隊近衛兵の採用基準は隊士のみに知らされる要綱であり、当然ながら一般人が図書館で得られるものではない。
入隊後にオーラに尋ねてみようと思っていたヴィルにとっても、おかしなタイミングではあったが、ちょうどよかった。

「お前がクリアすべき条件は、実はあとひとつだけなんだけどな」

「本当ですか、父さん!」

ヴィルの顔がパッと明るくなった。

「いまクリアできている項目はこうだ。
『家系を3代遡り、6親等内に反王政主義者、罪人、遺伝病患者がいないこと』、
『年齢は21歳から45歳まで』、
『身長は1.7m以上』、
『運動能力と人品が良好であること』――まあ、これに関しちゃ、運動能力はさておき肉親が我が子の人品を良好と言っていいのかは考えものだがな」

「それについては、お前と共に21年間ヴィルを見てきた国王である私が保証しよう」

アグナルが請け合った。
オーラは国王に向き直り「光栄です」と敬礼を行ったあと、ヴィルに最後の条件を示した。

「『王家が定めた基礎訓練課程を修了していること』。
これが、最後の条件であり、お前がクリアしなければならないものだ」

「基礎訓練課程……」

ヴィルが繰り返した。
アグナル国王が後ろ手を組んで口を開く。

「新兵がいきなり近衛兵となることが難しいのは、この条件があるからであり、この条件のクリアそのものも、もちろん簡単じゃない」

そこでだ、と、アグナル国王は警備隊長へと顔を向けた。

「隊長、ヴィルを一兵卒の通常業務から外してもらえるだろうか?
彼女には私から別な仕事を与えたい」

「は、はっ!ご命令とあらば……」

警備隊長は戸惑いながらも敬礼を返した。
国王はこの場にいる3人と順番に目を合わせながら続けた。

「今エルサにとって最も近い存在であるヴィルが、城の衛兵となった。
そして私は、愛する娘のためにできることは、どんなことでも全てしてやりたい。公私混同と言われようとも。
……つまり、最高司令官として、ヴィルに命令したいのだ――エルサの世話役を」

ヴィルは目を見開いた。
唐突だ。
しかし、アグナル国王の目が、決して冗談で言っているわけではないことを示している。
ヴィルが王家警備隊に入るこの時を待っていたのかとすら思えるような表情だった。
エルサの側にいることを公的に認めてもらえる。ヴィルにとっても願ってもないチャンスだ。
だが、これはあまりにも特例すぎないだろうか?
国のトップであるアグナル国王の命令とあれば誰もが従うだろう。
それでも、心の内では反感を持つ者もいるはずだ。
民衆から愛されるアレンデール国王がそうあってはならない。

ヴィルは、覚悟を決めて口を開いた。

「しかし、それでは、他の新兵たちに示しがつきません……!
わたしだけが特別扱いされることを、快く思わない人も必ずいるでしょう……。
わたしは陛下が、そのように評判を落とされることをしたくありません……なので――」

ヴィルは一瞬言葉を切り、改めてアグナル国王に向き直った。

「兵卒としての仕事もします。
その上で、エルサ様の世話役もお手伝いさせて頂きたいです。
基礎訓練課程だって諦めません。
必ずや、近衛兵となってみせます」

ヴィルの目もまた、決して冗談や半端な気持ちで言っているわけではないことを示していた。
大人たちを黙らせるような、そんな色を含んだ声だった。
それでもオーラが父親として心配しないわけがなかった。

「ヴィル、できるのか?」

「できます!
やってみせます、陛下。どうかそのお許しを頂けないでしょうか」

ヴィルはチャンスを逃すつもりもなかった。
このために頑張ってきたのだ。
一直線にエルサに向かうルートがあるのなら、それ以外を選ぶつもりはない。


「本日より、エルサ様の身の回りのお世話を仰せつかりました、ヴィルヘルミナ・ソールバルグです」

慣れ親しんだエルサの自室で、王と王妃に連れられて入ってきたヴィルが改まって跪いた。
彼女の部屋に、扉からきちんと入ることに違和感を覚えてしまった感覚に、ヴィルはこっそり苦笑いをこぼした。

「ヴィル!警備隊なのに……本当なの?」

エルサもまた、誰にも咎められることなくヴィルと会えるようになったことに喜びを隠しきれていないようだった。

「はい。陛下のご配慮があってのことです」

「そういうわけだ。
ヴィル、改めてエルサをよろしく頼んだよ。
カイとゲルダも、世話役を外れるわけではないから、仕事の内容を聞きながら、助けも借りるといい」

「わかりました、頑張ります!」

その日から、ヴィルの多忙さにはさらに拍車がかかった。
衛兵業務の合間を縫って給仕をし、業務終了後は今までのようにエルサの自室で肩を並べて2人それぞれの勉学に励んだ。
ひと通りの業務を手伝ってきたつもりではあったが、やはり本格的に仕事を任されるようになると、勝手は全く違って感じられた。
気を張り慣れないことばかりで目が回るようだったが、1週間、2週間とこなしているうちに要領を掴み始めたヴィルは、早くも楽しさを見出してきていた。
カイやゲルダ、そして同期や先輩隊士たちの助けも借りながらエルサのために尽くす毎日にやりがいを感じていた。

「ヴィル、次の火曜日は休みをとれ」

そうしてダブルワークに慣れてきたころ、食堂で他の隊士たちと一緒に夕食を食べているヴィルに、隣に座った父・オーラが自分のトレーを置きながら話しかけた。
咀嚼しながら、ヴィルは疑問符を浮かべた。
忙しさは相変わらずだが、同時に休暇もきちんともらえている。
体調を崩していたりするわけでもないのに、どうしてだろう……?
目を瞬かせるヴィルに、オーラは言葉を続けた。

「ウェーゼルトンから使者が来る。
ああ、もちろん街中にある王室専用の宿へだがね。
外交大臣の警護で俺も行くんだが、ヴィルもどうかと思ってな」

オーラがパンをちぎって口へ放り込んだ。

「近衛兵の仕事を間近で見られるチャンスだ。
ほとんどの外交を断っているいま、滅多にない機会だと思うが?」

「っ行く!ついて行っていいんですか?」

ごくん、と一気に飲み込んだヴィルが食い気味で即答した。

「許可はもらってある。
当然、警備兵としての頭数には入れられないが、あちら側にも、1人2人研修兵が増えると事前に伝えておけば問題ないだろう。
君たちのなかにもいるかい?近衛志望は」

オーラがヴィルと共に食べていた隊士たちに顔を向けると、彼らは首を横に振った。

「じゃ、決まりだな。
詳しいことはまた追って連絡するよ」


当日、隊服をしっかり着込んで父に指定された城門で待っていると、外交担当の大臣を先頭に数名の近衛兵たちが歩いてきた。
改めて目の前にする先輩隊士たちは皆、少なくともヴィルよりひと回りは年上のようだった。
警備兵の中から狭き門を通り選ばれた精鋭たちなのだと実感せざるを得ない。

「本日はよろしくお願いします!」

ヴィルがピンと背筋を正して挨拶をした。

「ん、任務中は俺の側にいるといい」

オーラの指示に従い、ヴィルは彼らと共に城門をくぐった。
門の外に出るのは本当に久しぶりだ。
入隊前は隊舎暮らしの父のもとにいたし、入隊後は個人に充てられた部屋と城の行き来の毎日だ。
休日こそ街へ出かけることもあったが、この頃はそれもできていなかった。
もしかしたら、父はこういう気分転換の意味でもわたしを誘ってくれたのかもしれない……そう思った。
もちろん、今日は遊びに行くわけではないのだが。
ヴィルは首を振った。
せっかく与えられたチャンスをふんわりと過ごすわけにはいかない、と気を張り巡らせた。

宿に着くと、先入りしていた兵たちと合流した。
やがて到着したウェーゼルトンの使者が広間へ案内されると、使者と大臣が握手を交わし、簡単な挨拶から雑談、そして本題に入っていく。
その間、近衛兵たちは壁際や扉の付近にピシッと立ったまま、出入りする両国の臣下や衛兵、宿の使用人たちを観察していた。

「ただ立って見ているだけではだめだぞヴィル」

隣に立つオーラが小声で話した。

「今この場にいるのは何人か。つい先ほど出て行ったのは誰か。
全て分かっていないと有事があったときに出遅れる。
常に備えろ。
例えばほら、今入ってきたのはこの宿のメイド長だ。勤めて長い。
紅茶のポッドを持った手を見てごらん――左利きの可能性が高いね」

ヴィルは、言われるがままに目線を送り、言われて見てから初めて気がついた。
近衛兵が精鋭揃いであることは分かっていたつもりだが、それは今の今まで漠然としたままで、なぜ彼らが選ばれているのかの実感がなかった。
少なくともヴィルは、今この場で知っている顔といえば、
父のオーラに、外交担当の大臣、ウェーゼルトンの使者の顔は事前の資料で頭に入れていて、ただその3人だけだった。
ウェーゼルトン側の近衛兵隊長や、王室専用である宿の支配人、メイド長の顔は知っておくべきだし、
あちら側の衛兵の人数だって把握しておかないと、賊が扮して混ざっている可能性もあるのだ。

そしてその説明をしているオーラの口元はほとんど動いておらず、目線は常に鋭く周囲を索敵している。
仕事をこなす父親を間近で見たヴィルは、なぜ彼がアグナル国王からの信頼を得ているのかを痛感した。
頭が下がる思いだった。
いくら主席入隊したと言っても、新兵のなかで仕事ができると言っても、目指すところである先はまだまだほど遠いのだ。
ヴィルは今すぐ帰りたくなった。
帰って、訓練がしたかった。勉強がしたかった。
兵士としてこの場に立っていてもいいように、経験を積まなければ。

目の奥の色が変わったヴィルを横目で一瞥したオーラは、口角をわずかに上げた。


宿での会合が終わり、大臣をはじめ兵士たちが城へ戻ろうとするところで、ヴィルが口を開いた。

「父さん、わたしは少し、トレーニングをしてから帰ります」

「ああ。
帰りは気を付けるんだぞ」

オーラはどこか嬉し気にそう返すと、手を挙げて業務に戻っていった。
ヴィルはそれを見送ると、街の外れにある湖の畔まで移動した。
円筒帽を手ごろな切り株の上に置き、上着を畳んで隣に置くと、膝を曲げ伸ばしして準備運動を始めた。
まずは街の周りをジョギングで軽く1周。丁寧な呼吸を常に忘れずに。
身体が暖まってきたら体力の続く限り湖の周りをダッシュだ。
インターバルを挟みつつ何度か繰り返し、いよいよ限界を迎えたあとは、倒れ込みながらもできる筋力トレーニングだ。

ひとしきりの汗を流しへとへとになったヴィルは、ストレッチをしながらクールダウンを済ませ、湖の澄んだ水で顔を洗った。
身体が冷える前に上着をきっちり着込み、円筒帽をかぶり直すと、悔しさまで感じていた心はリフレッシュできたようだ。
焦っても仕方がない。いま自分にできることを精いっぱいやるんだ。
最後に胸いっぱいに深呼吸をして木々の瑞々しさを吸い込むと、より一層の気合が入った。
今ならしっかり集中して勉強ができそうだ。
ヴィルは城への帰路につくことにした。

番兵に挨拶をして門を開けてもらうと、ヴィルはその足で宿舎にある自室と図書館に向かった。
自室に置いてある基礎訓練課程の資料と、図書館蔵書の参考書をいくつかかいつまんで持ち出した。
コンコン、とエルサの部屋の扉をノックして「ヴィルです」と断ると、「どうぞ」とエルサの声が返ってくる。

「この部屋へノックをして入るのに、ようやく慣れてきました」

扉を閉めながらヴィルが嬉しそうにそう話すと、エルサもにっこりと笑ってくれた。

「今日もその勉強?頑張るのね」

エルサが感心した。
今やエルサのデスクの隣に並べてもらっている自分のデスクに、資料や参考書を広げるヴィルを眺めていた。
そう言う彼女もまた、今日も未来の女王となるべく勉強中だったようだ。
デスクに開かれたままの本が置かれている。

「今日、父の仕事に付いて行かせてもらって、間近で見せてもらったんです――近衛兵の仕事を」

「だからお休みなのにその服を着ているのね。
どうだったの?」

エルサに頷きながら肩をすくめると、ヴィルは続けた。

「経験の差を見せつけられました。
もちろん、何十年も勤めている父とわたしが並んでいるとは思ってませんでしたが……、それでも、思っていた以上でした。
それがちょっと、……かなり悔しくて」

ヴィルはデスクに置いた手をぎゅっと握った。

「それで、訓練もしてきたのね」

「な、なぜそれを……」

反射的に顔を上げると、デスクに腰を預けるエルサが笑った。

「ふふ、今さっきふわっと香ったわ。
ほんの少しの汗のにおいと、緑の匂い……森を走ってきたの?」

「!!
はい、あの、失礼しました、今すぐ着替えて――」

「大丈夫よ、臭くないわ」

慌てて部屋を出ようとするヴィルの服の裾をつまんで止めると、そこで彼女の背中に気が付いた。

「?」

手を伸ばしたエルサが取ってくれたのは草きれだった。
切り株に置いた時に付いたのだろうか。

「ありがとうございます……」

汗臭いやら葉っぱを持ち込むやらで気恥ずかしくなったヴィルは、顔に熱が集まるのを感じた。
でも、やっぱりここに来て正解だ。
エルサと話すことが何よりも心安らぐ。
だが当のエルサは、目線を落とし手元の草きれを見つめたままだ。

「……ヴィルは頑張ってるのね」

同じ言葉を繰り返したその声は、先ほどより調子が下がったように感じられた。
ヴィルが背を丸めてエルサの顔を覗き込むと、少しだけ、眉間にしわが寄っている。
裾を掴んだままだったエルサの手がきゅっと握られるのを感じた。
手袋の上からヴィルの服の裾を掴むのが、この頃のエルサの癖になっている。
この仕草をするのはたいてい、不安や恐怖を感じているときのようだ。

「私も、まだ頑張れるのかしら」

エルサがそっと片方の手袋を外し、もう一度草きれをつまむと、葉はすぐにしおれてしまった。
短いため息をつくエルサの肩に手を添えると、眉を下げたヴィルが笑顔を作って見せた。

「もう十分に、頑張ってますよ。
恐れの気持ちを信じてはいけません」


また別の日、夕食を食べ終わり、就寝までのゆったりとした時間を過ごしていたエルサは、読んでいた趣味の本を閉じ、思い出すように呟いた。

「恐れの気持ちを信じてはだめ……」

「……エルサ様?」

羽ペンを動かす手を止め、ヴィルが顔をあげた。

「ちょっと前にヴィルが言ってくれた言葉が、ずっと気になってて」

エルサが手袋をはめた自分の両手を見つめた。
何か感覚を掴めそうなのかもしれない。

「久しぶりに、素手で、手を繋いでみますか?
わたしにも少し、考えがあります」

席を立ち、同じように立ち上がったエルサの手を引いて、穏やかに燻る暖炉の前まで誘導した。
きっちりとはめられた手袋の上から、ヴィルが柔らかに両手を包み込んだ。

「ご自覚はあるかと思いますが――」

ヴィルはそのままエルサの手を促し、自身の服を掴ませた。

「エルサ様は、こうしてわたしの服を握って気持ちを落ち着けようとすることがありますよね。
そうすることで、不安や恐怖から解放されるのであればと、思っていましたが、そこからヒントを頂きました」

ヴィルがにっこり笑った。

「普段は何にも触れないようにしているエルサ様が、逆に触れることで気持ちを落ち着けている……。
わたしの服を掴むような感覚のまま、わたしの手を握ることはできないだろうかと考えました」

エルサは自身の手元とヴィルの顔を交互に見た。
確かに、この頃は気付いたら裾を掴んでいることが増えてきていた。
18歳になったエルサは、3年前よりまたさらに雪と氷の魔法が強くなっている。
アナのために力を抑えたいのに、アナのことを考えるだけで部屋が凍ってしまう……。
そんな不条理な矛盾に向き合うたびに、父からもらった手袋をはめ、マントラを心の中で唱えながらほとんど無意識にヴィルの裾を掴むのだ。
そのときだけは、ヴィルの服を凍らせずに済むし、むしろ掴まないと部屋が凍てついてしまうのだった。

「でも、きっとまたうまくいかないわ……」

エルサは渋った。
もし失敗したら、手が凍りついてしまうのはヴィル自身だ。
それならば、しばらくご無沙汰な踊り場の甲冑が練習相手のほうがずっといい。

「大丈夫です。わたしは傷つきません」

ヴィルは間髪入れずに答えた。

「もしも凍ってしまっても、解かせばいいのです。
それに、相手がわたし自身のほうが、イメージしやすいのではないでしょうか?」

「……分かったわ。
やってみる……恐れの気持ちを信じてはだめね」

暫しの沈黙ののち、エルサはようやく頷き、三度ヴィルの言葉を繰り返した。

「落ち着いて……感情を見せないように……」

父王からのお守りも忘れずに唱え、心を落ち着けてヴィルに触れるときをイメージしてリラックスするように努めた。
アクアブルーの瞳に映った暖炉の火の揺らめきが、そのままエルサの心の動揺ではありませんように……ヴィルはそう願いながら手を差し出して見守った。
恐る恐る手袋を外し――その時点でもう震えていた――彼女の手を握る。

握手した瞬間、ひんやりとした感覚と共に、霜だけが降りている時間がごくわずかにあった。
しかしそれもほんの一瞬だけで、ヴィルの手に霜が降りたのを目にした次の瞬間には、肘まで一気に凍りついてしまった。

「っごめんなさい……」

エルサはすぐさま手を放し、手袋をはめ込んだ。
そして謝り続けながら、暖炉に木をくべ、ヴィルの背を押しその目の前に押しやる。
室温が下がり始めた。

「大丈夫です、エルサ様……大丈夫……落ち着いて……」

凍りついた右手を抱えながら、ヴィルは背中で小さくなるエルサに振り返ろうとした。
しかし同時に、腕の氷も早く解かさねばならない。
他の誰とも同じように、ヴィルだって凍る。
その氷を、自身の力で解かせるか解かせないかの違いだけだ。
凍傷を負ってしまっては、「傷つきません」の言葉が嘘になってしまう。

ヴィルは体温を高めて腕の血流を上げ、さらに電気熱も加えて氷をどんどんと解かしていった。
しかし3年前より質も密度も増したエルサの氷は、以前より解けるスピードが遅くなっていた。
もっと早く解かすこともできるが、これ以上は熱そのもので火傷をしてしまう。

「もうやめましょう……」

背中からぽつりと聞こえてきた。

「コントロールなんてできないんだわ」

そのエルサの言葉に、ヴィルは何も返すことができなかった。
「そんなことない」と、元気に振り返られるほど何も見てこなかったわけでもないし、
「諦めましょう」なんて言葉も、絶対にかけたくなかった。
いつかアナと一緒に笑う、エルサの笑顔のために……。
エルサの頬の氷を、ヴィルはそっと払った。

その夜半、ヴィルはまだエルサの自室にいた。
ベッドボードに背をもたせ掛け、膝で眠るエルサの柔らかな髪をゆっくりとゆっくりと撫で続けている。
そこには平穏な時間が流れているはずなのに、ヴィルの表情は厳しかった。
エルサの眉の間にまたしわが寄っているのをそっと伸ばしても、しばらくするとまた無意識に険しくなるのだ。
もっと穏やかに眠れるべきなのに。
ヴィルがまた眉間のしわを受け取った。
エルサの無意識は手にも表れ、まどろみ始めたときから握られた服の裾は、まだ放されることはない。

「エルサ」

扉の向こうから、小さく声が聞こえた。アグナル国王だ。
ノックをせず、起きていないと気付かないような控えめな声だった。
ヴィルが返事をせずにいると、音を立てず静かに扉が開いた。
ショールを羽織ったイドゥナ王妃も傍らにいる。
そこにヴィルがいることに驚かなくなって久しく、アイコンタクトを交わすと王妃がエルサのブランケットを掛け直した。

「この頃はどうだ?」

起こさないようにそっとベッドの端に腰かけ、アグナルが小声で尋ねた。

「私たちには言わないようなことも、君には言ってるんじゃないかと思ってね」

「……はい」

ヴィルがほとんど聞こえないくらいの返事をした。

「弱音を、こぼすようになりました」

夫婦の表情を見ず、目を伏せたまま続ける。

「10年です。
10年、たったひとりで頑張っているのです。エルサ王女は……。
それなのに、まだ頑張らなくてはいけない。
もう十分なのに、それが許されないのが、おいたわしいのです……」

「……、そうか……」

これ以上、誰も何も口を開かず、顔も上げなかった。
しばらく沈黙が続き、息をすることすら忘れていたみたいに深く息を吸い込んだアグナル国王が、
労わるようにヴィルの肩に手を置くと、そっと立ち上がった。

「少し、出てくる」

王妃に向かってそう断ると、エルサの部屋を足早に出た。
城を出て厩舎に向かうと、自身の愛馬に跨り生き岩の谷に向かって山へ駆け出した。
パビーに、エルサから魔法の力を取り除いてやって欲しい、と頼むためだ。
トロールを頼りすぎるのは家訓で戒められていたが、愛しい娘が苦しむ姿をこれ以上見ていられない。
だが、エメラルド色のオーロラの下で会見したトロールの長の答えは、「ノー」だった。

「それは、魔法の力をなくすのは不可能ということか?
それとも、そうするつもりがないということか?」

拒絶に慣れていない国王が、やや語気を強め、重ねて尋ねた。
パビーは深い叡智の宿る、穏やかな瞳で国王を見据えると、ただこれだけ言った。

「おしゃべりというだけで、その者の舌を切り取りますか?
目ざといからと、その者の目を潰してしまいますか?」

アグナル王は苦悩に満ちた表情のまま、元来た道を帰っていくしかなかった。

そしてヴィルもまた、夜更けに宿舎へ戻ってきたが、心は重たいままだった。
自分自身に対して気が立っていた。
「わたしは本当にエルサの力になれているのだろうか」という疑念が払いきれない。
お守りすると意気込んで育ってきた。意気込みだけだ。
実際のところは、守れていないのではないか?
魔法の力をコントロールできるようにと練習を促し、有効な策を立てられず失敗を繰り返させ、
誰よりもエルサを傷つけている気がしてならなかった。
ヴィルの自室じゅうが電気を帯び、肌がひりついた。
自身がどうやって雷の魔法を操っていて、エルサがどうして雪と氷の魔法を操れないのか、
方法が分からないのなら、できることから1つずつ試していけばいいのだ。
でも、思いつく限りに挑戦してきたのに、なぜこうも上手くいかないのか。
そんな理想と焦りがぶつかり続けていた。


「気をつけて行ってきてね」

ある日の夕刻、アナは荷造りを終えようとしている国王夫妻のもとを訪れた。
彼らは公務のため、もう間もなくして船で近隣諸国へ旅立つのだ。
国交を最小限にしている昨今、両親が揃って城を空けるのは珍しいことだった。
しかしこれも必要なお仕事。アナはそう自分に言い聞かせて、両親を抱きしめた。

荷物をまとめたトランクをいくつか侍従のカイに渡したところで、エルサが中央階段へ見送りに出てきた。
手袋をした手で優雅にドレスをドレスをつまみ、両親に会釈した。
しかしその所作とは裏腹に、見上げる表情はとても不安げなものだった。

「どうしても行くの?」

「すぐに戻るから。大丈夫」

アグナル国王が眉を下げて微笑みかけた。イドゥナ王妃も傍らで同じように微笑んでいる。
エルサが不安がるのも無理はなかった。
元々の心配性に加え、2人揃っての不在だ。
留守中に事情を知る城の人間はヴィルただ1人ということになる。

「国王陛下、船の準備ができました。
波も静か……出港日和です」

侍従たちから荷の積み込みが終わった知らせを受けたオーラが、国王に報告した。
両親を見上げる王女の表情を見た彼は、エルサに向き直って敬礼した。

「アグナル様もイドゥナ様も、この私がしっかりお守りしてみせます。
どうぞご心配をなさらず、お見送りください」

父子そっくりなその朗らかな笑顔は、エルサの心を落ち着かせた。

旅の支度を終えた船を停泊させてある波止場へ出ると、荷入れの手伝いをしていたヴィルが父と国王夫妻を迎えた。

「殿下、お手を」

揺れる船へ乗り込むイドゥナの手を取ったヴィルは、王妃を先へ進ませると、次いで乗り込んできたアグナルへと向き直った。

「準備は全て整ってます。お気をつけて」

「ありがとう。
留守を頼むよ、ヴィル」

エルサのことも。
言外にそうつけ加え、アグナルは肩をぽんぽんと叩いた。
最後に父・オーラが乗船すると、ヴィルとしっかり握手を交わした。

「いってらっしゃい。
2週間後の帰りをお待ちしています」

「行ってくる。
ヴィルもしっかりな」

ヴィルがタラップを渡り、波止場へ降りると、程なくして船は出港した。
キラキラと夕日に照らされた静かな海に白波を立て、船は小さくなっていく。


「……イドゥナ?どうかしたか?」

城が、国が見えなくなったころ、アグナルは、船尾に立ち航路を振り返っているイドゥナに気が付いた。

「本当に、何も言わずに旅立ってよかったのかしら……」

王妃の疑問に、国王は沈黙で答えた。
隣に立ち、同じように白波の尾を眺める。
風が少し出てきたようだ。

「私、考えてたの。
エルサのことをアナに話しましょう。
あの子だけ別扱いしたくないの。
もう大人よ……頼りになるわ」

「……心配なのはエルサだ。
もし、喜びで感情が高ぶりすぎたら?
魔力を制御しきれるか……」

アグナルは慎重だった。
アナを除け者にしたいわけでも、エルサを孤立させたいわけでも、もちろんない。
最愛の姉が最愛の妹を傷つけてしまうショックは一度きりで十分すぎるものだ。
エルサを救うために、この10年、エルサを引き離してきたのだ……。

「でもエルサを本当に救えるのは、アナだけよ」

深謀を巡らせているアグナルだったが、この言葉が決め手となった。
周囲からひた隠し、公私など無視して臣下の子を頼り、石の妖精に頭を下げてきた。
今や本当の目的を誰にも告げずに航海に乗り出している。

「……確かに、そうだな。
アナは強い。何でもできる子だ」

「きっとアナの愛が、世界を救うわ」

欄干に置かれたアグナルの手を、イドゥナがそっと握った。

「そのとおりだな……。
よし、必ずいい知らせを持ち帰り、戻ったら伝えよう。
あの魔法を制御する方法は、きっとあそこにあるのだから……」

夫婦が固く約束を交わしたとき、オーラが階段を駆け上がってきた。

「嵐が来ます……どうぞ中へ!」

2人が気付いた時には、風が湿気り、見渡すかぎりに白波が立ち始めていた。
日は沈みきり、夜の帳が下りていたが、月や星は全く見えない。空は分厚い雲に覆われていた。
2人が船内へ入ったところで、大粒の雨が降り出してきた。
気圧は一気に下がり、腹の底に響き渡るような雷鳴が轟いてきた。
雨は瞬く間に横殴りとなって、窓を叩きつける。
オーラはずぶ濡れになりながらもマストに張りつき、帆を畳み船が流されないように必死だった。

「どうする……どうする……」

国王が独り言のように繰り返した。
航路は入念に調べた。天気もだ。嵐にも備えて準備もした。だがこれほどの規模だなんて。
進退の決断のときだった。

「エルサの力の源は……!」

「わかっている!
これ以上あの子につらい時間を過ごさせたくない……エルサのためだ、進み続けよう!」

船室を出て、国王夫妻も船の保持に全力を注いだ。
今や高波に揉まれ、船は今にも横転しそうなほどだ。
壁に何度も叩きつけられながら、なんとか操舵室に駆け込み舵を握った。

「波が高すぎる!
アグナル、イドゥナ!……っ!!」

オーラが叫んだのと同時に、鼓膜が破れるかと思うほどの雷鳴が劈き、世界が真っ白になった。
雷がマストに直撃し、竹を割ったように真っ二つに裂けた。
傍らに立っていたオーラが倒れ込む。

「オーラ!!」

救助に向かおうと1歩踏み出した瞬間、裂けた帆柱の片割れが強風に煽られ、船体を打ちつけた。
木が軋み折れる音、窓ガラスが割れる音、雷鳴は響き続け、雨音は滝壺にいるようだった。

「イドゥナ!」

「アグナル!」

船内にも浸水が及び、夫婦は互いを抱き寄せ合った。
もう片方の帆柱が倒れたのか、また船体が大きく揺れ傾き、海水は操舵室の窓と扉を破った。

最後には船を覆い尽くすほどの高波が襲い、ついにアレンデール王室船は転覆した。


「っ、」

同じころ、ヴィルは自室のベッドでハッと目を覚ました。
夢の中で、雷のドラゴンに襲われていた。
肩で息をして起き上がると、ひどい頭痛で眩暈がした。
たまらず額に手を当てると、寝汗をじっとりとかいていたようだ。
ヴィルの魔法の力のおかげで、雷は長く連れ添った友のように感じてきていたが、夢で見た雷のドラゴンは、いやに怖く感じられた。
手が震えている。
深く息をつき、自分を落ち着かせた。
この頃は少し気が立っていたので、この夢もそのせいだろうか。
月明りの射す窓から星々を見上げると、ちかちかと小さく瞬くそれは、静かな夜にこっそりと踊るいたずらっ子のようだ。
幼いときに部屋を抜け出して、エルサやアナと遊んだ記憶が浮かび、ヴィルはふっと小さく笑った。
机の引き出しにしまってあるチョコレートを1つ、口に含んでまた夜空を眺める。

夜空に例えると、エルサは月だろうか。
じゃあ、アナはその周りの星……?うーん。
エルサは月というより、星のほうが似合うかも。あ、あの一番明るい星とか。
アナは……うん、太陽しか浮かばないや。今はぐっすり眠ってる。
いつも静かに見守ってくれる月は、陛下や殿下、あとはまあ、父さんもかな。

チョコレートが溶けるまでそんなことを考えていると、やがてまた睡魔がやってきた。
水差しからコップ1杯だけ注いで飲み干すと、ヴィルはまたベッドへ戻っていった。
留守を預かった身だ。
父さんたちが戻るまで、エルサもアナもしっかりお守りできるように体調を整えないと。

だが、2週間が過ぎても、彼らは戻ってこなかった。
船出の時はあれほど凪いでいた海が、夜半にかつてないほどの嵐に見舞われ、夫妻と護衛を乗せた船は行方を断ってしまった。
ただちに志願したヴィルも含めた捜索船が出されたが、雷に打たれたらしい帆船の残骸がいくつか見つかったのみで、生存者はひとりも発見されなかった。
それでも、捜索を打ち切って国へ帰る当日になっても、ヴィルは諦めようとしなかった。
諦められるわけがない。こんなに同時に喪ってしまっていいはずがない。
それでも捜索隊の隊長に首根を掴まれ帰投し、大臣たちや警備隊上官、国王夫妻の側仕えだった者たちの集まる広間へとヴィルも通された。

「お願いします!
まだ捜させてください!お願いします!
諦めきれません!こんなこと、あっていいはずがない……」

捜索隊隊長に言ってもダメなら警備隊隊長へ、それでもダメなら大臣へ……ヴィルの懇願は続いていた。

「ヴィル、お前は警備隊士で、これは上官命令なのだ。聞き分けろ!
捜索を許された期間、十分に捜し、それでも見つからなかった。これが事実だ……」

苦虫を噛み潰したような表情で、上官が窘めた。

「だからって……だからって諦められますか……!」

ヴィルの勢いはもはや、拘束が必要かと思われるほどだった。
だがこの場の誰もがそんなことを望んではいない。
誰もがヴィルと同じ気持ちだった。
国民を愛し、国民に愛された王と王妃、そして近衛兵だ。
続けられるのならば、全世界の海を果てまで捜したいのだ。

「ヴィルよ。
確かにつらい。我々もだ。
喪ったものは、あまりにも大きすぎる」

1人の大臣が前に進み出た。
以前護衛を見学させてもらった、外交担当の大臣だ。

「だが、そうも言ってられないのだ。
国王の不在は、国を揺るがす。その混乱を収めるのが公人の役割だ。
内政だけではない。今後混乱に乗じて、近隣各国から狙われることもあるだろう。
そちらにも目を向け、エルサ王女のご即位まであと3年、私たちが全力で空席を守るのだ」

その言葉は、大臣たちの総意だった。
彼らは各々頷き、上官たちは背筋を正し胸に手を当てた。
不安げだった侍従たちもまた、互いに顔を見合わせ、頷き合った。
それぞれ今やるべきことが分かったように。
ぐらぐらと揺れ動き、圧し潰されそうだったヴィルの心をも支えられた気がした。

「ヴィル、お前はエルサ王女とアナ王女のお心をお守りするんだ。
お前にしかできない。しっかりしろ」

ヴィルは袖でごしごしと目をこすり、鼻水を引っ込めて歯を食いしばり胸を張った。

「………はい…!」

もう二度と再び、アグナル王とイドゥナ王妃がアレンデールの地を踏むことはないとの告知が正式に発布され、夫妻の肖像画には黒い布がかけられた。
城を臨む丘の上に王と王妃の、そして少しはずれの位置にひと回り小さく、近衛兵の墓石がそれぞれ建てられ、亡骸のない棺が収められた。
喪主を務めたヴィルを中心に、しめやかに国葬が執り行われ、次女のアナ王女はもちろん出席したが、長女であり同じく喪主であるエルサ姫は、体調不良を理由に姿を現わさなかった(もし出席していたら、周りじゅうをこおりつかせたことだろう)。
敬愛した国王夫妻とその近衛兵の訃報に、王国中が哀しんだ。

葬儀が終わると、アナとヴィルは並んで立ち、参列した人々から悔やみの言葉をかけられつつ、1人、また1人と丘を下っていくのを見送っていた。
最後の1人が帰っていくと、がらんとした丘の上に2人だけになった。
喪主としてやるべきあれこれで、一時でも忘れられていた悲しみが一気に押し寄せるようだった。
気を抜くと、下を向くと、また悲しみに捕らわれそうで、顔を下げられなかった。
泣くわけにはいかない。アナがいる。
ヴィルは前を向き続けた。
アナからは堪えきれない声が漏れてきて、震わせている肩を抱くと、アナはヴィルの胸に縋りついて泣きじゃくった。

「どうしてなの……どうして、みんな私の前からいなくなるの……?
教えてよヴィル……!」

「………、」

ヴィルは何も言えなかった。

「お父様に会いたい……お母様に会いたいの、ねえヴィル、」

両腕でアナを抱きすくめると、涙でぐちゃぐちゃになってしまっている顔をより深く埋めさせた。
ただただ黙って抱きしめ、悔しそうにヴィルの胸を叩くアナを受け入れていた。
誰にもぶつけられない言葉が、思いがあるのを、ヴィルは十分に分かっているのだ。
1人で抱えて沈んでいくより、こうして受け取れるだけずっといい。

「会いたい……エルサに……」

アナはくぐもった声でぽつりと呟いた。
悲しみの波が落ち着き、ヴィルの腕から離れると、「ついてきて」と言わんばかりにそのまま手を引いた。
他にどこに行けばいいのかも分からない。
丘を下り、城に戻ると、2人はエルサの部屋の前に向かった。
10年間ノックし続け、10年間開かれることのなかった、白いペンキにローズマリングの施された見慣れた扉。
最近はもう、滅多に姉を誘い出す努力をしなくなったアナだったが、いま一度、開かずの扉をノックしてみる。
ヴィルは静かに見守っている。

「エルサ、大丈夫?
お父様とお母様のお葬式に出ないなんて……。
みんながお姉様はどうしちゃったんだって噂してるわ。
ねえ、ドアを開けて」

だが、やはり返事はない。
アナは扉に背を向けると、その場に座り込み、扉に頭をもたせかけた。

「お願い。そこにいるんでしょう……?
みんな心配してるの。
あたしとヴィルに、『気をしっかり持って』って励ましてくれるし、あたしも努力してるけど……。
でも、心細いの。
あたしたち姉妹は、2人ぼっちになっちゃったんだよ。
会いたいわ……そばにさえいられれば、支え合えるんだよ……」

アナの声が細く、震えた。

「あたしはここにいるから。
ただ、中に入れてほしいだけなの……雪だるまでも作ろうよ……」

部屋の内側では、同じように扉を背にして座ったエルサが、膝に顔を埋め、声を立てずに泣いていた。
こんな時さえも妹と悲しみを分かち合えないなんて、ひど過ぎる。
いっそ、今すぐ扉を開けて妹を抱きしめ、2人で凍りついてしまおうか。
いや、凍りつくのは妹だけで、自分は霜1つ付きはしないだろう。
エルサは両腕で自分を抱きしめた。
もはや両親たちの死を悼んで泣いているのか、不思議な力を持って生まれたこの身の不運を嘆いているのかさえ、分からない。
ただひとつはっきりしているのは、部屋の中が雪と氷に覆い尽くされていき、それを止める術を知らないということだけだった。

それからどれくらいの時間が過ぎただろうか。
アナの声が聞こえなくなったあともずっと、エルサは扉の前で膝を抱え込んで頭を伏していた。
妹が立ち去るとき、ヴィルの促す声が聞こえたので、今はきっと部屋で休ませているのだろう。
今や天井も壁も床も、真っ白に凍りついていて、少し足を動かせば、小さな霜柱がぱきりと折れる音だけが部屋に響いた。
静寂に慣れた耳に、また扉の向こうからの足音が届いてきた。

「……エルサ様。ヴィルです」

アナ王女は休ませてきました、と、1人であることを告げた。
エルサは一瞬、座り込んだまま動かなかった。
こんなにひどく凍てついた部屋を見せてしまうのは、ヴィルが相手でも気が引けた。
逡巡していると、またヴィルの声がした。

「あの……お渡ししたいものがあるのです。
もうお休みになられているのであれば、明日出直します」

エルサはゆっくりと立ち上がった。
捜索隊が帰ってきてからは、ヴィルに喪主としてやるべきことをほとんど任せてしまっていた。
お礼を言わなくては。
エルサがそっと扉を開けると、ヴィルは伏せていた目を遠慮がちに上げた。
つい先ほどアナを遠ざけさせた手前、自分だけなら中に入れてもらえることに心を重くさせていたのだ。

「葬儀後の片付けも終わりました」

ヴィルが報告した。
その手には丁寧に畳まれた紫色の織物が抱えられている。
エルサはその織物に見覚えがあった。
母・イドゥナがいつも肩に掛けていたショールだ。
目線に気が付いたヴィルは、ショールを広げ、エルサの肩に羽織らせた。

「ヴィル、ごめんね。ありがとう、本当に」

両親を捜しに行ってくれたこと、つらい喪主を任せてしまったこと、母親のショールも、
ヴィルがエルサに割いてくれた心のすべてに対しての言葉だった。
ヴィルは言葉を受け取ると、僅かに微笑んで見せ、首を横に振った。

エルサはショールの端を握りしめ、部屋の中で墓標の建てられた丘のほうへ向かって祈りを捧げた。
葬儀に行けなかったせめてもの償いのつもりだった。
ヴィルも並んで、同じように祈った。
目を閉じて祈れば祈るほど、エルサは押しつぶされそうになった。
大切な両親の葬儀に参列できない虚しさ、亡くした悼み、自分と同じくらいつらい思いをしている妹のアナに寄り添ってやれないこと。
自責の念は心を溢れ、涙としてこぼれ落ちた。
声を殺し肩を震わせるエルサに、ヴィルはアナにしたのと同じ寄り添い方をした。
ただただ黙って、強く抱きしめる。
でもエルサは、アナと違ってヴィルの胸を叩いたりしない。
誰にも何もぶつけたりせず、下唇を噛んで思いや感情を押し込めるのだ。
1人で抱えて沈んでいきそうなエルサの手を、ヴィルは絶対に放したくなかった。

ヴィルはエルサの頭に頬を寄せた。
苦しかった。
誰よりも優しく妹思いであるからこそのエルサの苦しみも、大好きな姉に遠ざけられ誰よりも愛に飢えているアナの寂しさも、ヴィルは一番近くで見つめ続けてきた。
姉妹の絆が固く結ばれている必要がある今このときでも、互いを思いやる心は近くにありながらも遠かった。
なんとか繋ぎとめ、お守りするのだ。
アナの心を。

そして、エルサの心を。




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