Frozen's thervant
-アナ雪エルサ主従夢-
あれから、ヴィルは考えた。
周りの目から力を隠す、ということ。
魔法に関しての記憶を消されたアナとの接し方。
エルサとアナ、引き離された2人の姉妹への向き合い方。
そして何より、エルサ自身と、魔法の力のこと。
「おはようヴィル。
歯は磨いたか?」
ヴィルの父、オーラが隊服に身を包み身支度を整えながら言った。
ヴィルも寝ぼけ眼を擦りながら挨拶をした。
1週間前の出来事は、アグナルからオーラへ伝えられたが、その事故のことでヴィルが叱られることはなかった。
オーラは一度だけ頷き、その後はただ1つのことを除き、他は変わることはなくいつも通りの笑顔をヴィルに向けた。
そのただ1つのこととは、新しくできた約束事だった。
オーラは、ちょいちょいとヴィルを手招きし、駆け寄ってきた目の前に片膝をついてしゃがんだ。
父親が小指を差し出すと、ヴィルもまた小指を出して絡ませる。
この1週間で出来上がったルーティーンだ。
「『しっかり向き合って、見つめるんだ』」
父子が声を揃えて唱えた。
ヴィルの魔法の力に関して、オーラは一度も特別扱いをしたことがなかった。
しかし邪険にもせず、ヴィルがヴィルであることの一部として、彼女の魔法の力を捉えていた。
たとえ力を隠すことにしたとしても、それは決してネガティブに秘匿されるべきものではない、というのがオーラの教育方針であった。
「うー、今日寒いね父さん」
自分の肩を抱き、ヴィルは身震いした。
相槌を打つ父にくっつき宿舎を出たヴィルの予定は、午前は座学、午後はアナの遊び相手だ。
警備隊士であるオーラとは城内で別れ、ヴィルはいつもの図書室へ向かった。
普段は日替わり担当の召使いの講話を真面目にしっかりと聞いているのだが、今日のヴィルは少し違う。
今日は彼女なりに1週間考えて出した答えを実行する日だ。
イメージトレーニングを重ねに重ねているうちに、午前はあっという間に過ぎていった。
「ゲルダさん、ありがとうございました!」
ヴィルは宿題を受け取りながら、召使いに言った。
しかし心はもう既に2,3歩先へ駆け出している。
ショルダーバッグに宿題の羊皮紙を突っ込むと、厨房へ寄ってパンとスープをかき込んだ。
ときどき息を詰まらせながら飲み込むと、いよいよ実行のとき。
ヴィルは中庭へ駆け出した。
「わ、雪だ……!」
空を見上げると、鉛色をした分厚い雲が王国に覆い被さっていた。
昨日より一段と冷え込んでいたのは、雪が降るためだったようだ。
「積もるかな……」
今はまだ降り始めたばかりのようで、雪の結晶が城の屋根にくっついては丸い染みとなって解けていく。
ヴィルは手を擦り合わせ、白い息を吐きかけて手とともに鼻も温めた。
あたりを見回す。
誰もいない。
使用人たちは城の中でそれぞれのやるべきことをやっている。
幸か不幸か、よろい戸のある窓はそれも閉め切られ、中庭を臨める窓は数少ない。
この時間帯は庭師がいないことも調査済みだ。
ヴィルは城の尖塔にある三角窓を見上げた。
「よし」
軽く吸って、小さく息を吐くと、城壁の陰になるところまで忍び寄った。
ヴィルの足回りにバチバチッと小さな稲光が走る。
しっかり屈み込み、腕の勢いもつけて一気にジャンプした。
「はっ――ほっ――」
無謀、という言葉はまさに今のヴィルにぴったりな言葉だろう。
微弱な電気を自身の筋肉に流すと筋力が増す――これは以前からこっそり使っていた特技だった。
11歳の少女とは思えない跳躍力を見せたヴィルは、中庭を見下ろせるバルコニーに着地した。
また周りを見回し、誰にも見つかっていないことを確認すると、
バルコニーの欄干から、小尖塔の屋根に飛び移り、そこから一気に目標の塔へと駆け上がった。
三角窓の枠の縁に手をかけると、またバチッと電気を走らせた。
窓枠のそれは金属製であり、ヴィルの魔法と相性がいい。
高層の尖塔の窓枠にぶら下がるヴィルを見たら、きっと大人たちは悲鳴を上げるだろう。
ヴィル自身もこんなに無茶をしたのは初めてだったが、こっそりとワクワクもしていた。
ビリビリと電気を走らせながら懸垂の要領で身体を持ち上げ、窓の外から中の様子を窺う。
「いた……エルサ……!」
プラチナブロンドと小さな背中を見とめたヴィルは、窓枠から片手を離し、コンコンとノックをした。
「わっ!」
当然のように片腕で体重を支え切れなかったヴィルは、魔法がなければとっくに真っ逆さまに落ちていたところだ。
ヴィルはバチバチと窓枠にくっついてくれている片手に感謝した。
「……?」
ぶら下がるヴィルの上方で、窓が開いた。
エルサの顎が見える。
ヴィルは途端に笑顔になった。
「エルサ、ちょっと助けてくれない?」
まさかそこに人がいるなどと思ってもいなかったエルサは飛び上がった。
「え、ヴィル!?
なにしてるの、危ないよ!」
エルサがすかさず手を差し伸べた。
ヴィルがその手を取ると、エルサは引き上げようとぎゅっと手を握った。
「あっ!」
半分まで引っ張り上げたところで、エルサは弾かれたように手を離してしまった。
つい1週間前に、魔法でアナを傷つけたばかりだったのに。
窓枠に腕でしがみつける状態になったヴィルの、魔法で凍りついた手を見たエルサは大きく後退りした。
誰にも触れてはいけなかったのに、ヴィルまで傷つけてしまった……また、あの谷に行かなくてはいけないのだろうか……。
「ごめんなさい、ヴィル、ごめんなさい……」
真っ青になったエルサが必死に考えていると、ヴィルはずり落ちそうになりながらも、安心させるように微笑んだ。
「エルサ、……ねえエルサ、見てて」
エルサがこちらに目を向けたのを確認したヴィルは、
凍りついて白く結晶化しつつある手をよく見えるように差し出すと、雷の魔法でどんどんと解かしていった。
アナを温めた電気熱の方法だ。
張りついた氷は水となり滴り落ち、カチコチに固まった指はパキンとまた曲がるようになった。
「ね、大丈夫でしょ……だからさ、ちょっと助けてくれない?」
目を見開いたままのエルサに、先ほどと変わらない口調でヴィルは言った。
氷を解かした手は差し出すように伸ばしたままで、エルサが近づいてくるのをじっと待った。
エルサは自身の両手と、ずり落ちそうになりつつも困ったような笑顔でこちらに手を伸ばすヴィルを交互に見つめた。
小さく1歩を踏み出す。
いや、ヴィルまできずつけたくない。
足を止めた。
しかしいま、ヴィルはおちそうになってる。
また1歩踏み出す。
『魔法の力はどんどん強くなる』……トロールの長の言葉が頭の中に響いた。
でもいまの力なら、ヴィルはまだとかすことができた。
もう1歩。
「わたしは大丈夫」
触れてもいいんだよ、と、エルサの心に伝えたかった。
ゆっくりと、恐る恐る伸ばされたエルサの手は、凍えるように震えていた。
2人の指先が、ちょんと触れたとき、ヴィルの暖かな手がしっかりとエルサを掴んだ。
凍ることはない。怖れることはない。
エルサがヴィルの顔色を伺うと、ヴィルは嬉しそうに顔を綻ばせていた。
エルサは眉尻を下げながら遠慮がちに微笑むと、今度こそヴィルを引き上げた。
「はぁ、助かった。
ありがとうエルサ」
埃を払いながらヴィルが笑った。
エルサはそんな彼女を訝しげに見つめている。
「どうしてあんな所にいたの?」
当然の疑問だ。
「それは――」
ヴィルは少し居心地が悪そうに目をそらした。
エルサに会いに行こう、今回の計画はそれが目的だったのだ。
1週間ぶりに再会し目的が達せられたいま、なぜ会いたかったのかを自身に問いかけなければならなかった。
「遊びたかったから、かな……。
エルサ、ずっとこの部屋にいるんでしょう?」
ヴィルが広いこの部屋を見回すと、暖炉は暖かにパチパチと燃え、不自由のないように、ひと通りの家具や本、遊び道具が揃っていた。
しかし8歳のエルサに、ここで1人で過ごせというのは些か酷に思える。
「一緒に遊ぼう……?」
三度、ヴィルの手が差し出された。
最初の驚きが落ち着いたいま、エルサは逡巡し、手を重ねようとはしなかった。
「だめだよ、ヴィル……。
いくらあなたのまほうでとかせるからって、そんなの……危なすぎるわ……。
あなたとはあそべないの……ごめんなさい、ヴィル……」
「エルサ」
ヴィルがずいっと大きく1歩を踏み出し、三度エルサの手をとった。
「!」
驚いたエルサは、今度はヴィルの両手を凍らせた。
「あぁ、ごめんなさい、ヴィル……っ、でも、これで分かっ…」
「分からないよ!」
エルサの言葉を遮るように、ヴィルの雷が迸った。
その力はエルサを傷つけたりはしない。
ヴィルの体内を巡り、身体と心を熱くさせた。
「わたし、あなたをお守りしたい……それだけなの……」
王女の手をとったまま、ヴィルは片膝をついた。
ヴィルの両手から解けだした氷が肘へ伝い、雪解け水のように床へぽたぽたと垂れた。
困惑したように眉を下げるエルサをじっと見上げる。
「エルサがお部屋を出ないなら、わたしがここに来るよ。
力をおさえられるようになるまで、わたしがそばでお守りする。
だれにもエルサを傷つけさせないし、わたしも傷つかない。
それでも、だめ、かな……」
この1週間、エルサが寂しさを感じなかった日は1日たりともなかった。
両親は毎日、時間を見つけては部屋にやってきた。
食事や、身の回りの世話をする召使いも定期的に訪問した。
この部屋に来る誰もがエルサに優しくしてくれたし、楽しく会話もしている。
しかし、それだけだった。
アナがいない。
みんな、時間が来るとこの部屋を去ってしまう。
その瞬間が、一番いやだった。
「…………、」
それでも、あの日アナを傷つけたことは、大きな大きな心の傷としてエルサの胸に残り続けている。
エルサの手を握り、凍っては解け続けるヴィルの手元に、戸惑いの目を向けることしかできなかった。
ヴィルは、傷つかない……。
柱時計の鐘が鳴った。
ヴィルがアナと過ごす予定の時間だ。
「――また、来るね。
もしも、本当に、いやだったら、……窓のかぎを閉めておいて」
ヴィルの手が、名残惜し気にするりと離れた。
エルサは返事をすることができなかった。
ヴィルの気持ちは嬉しい。
でも、それ以上の恐怖に襲われ続けている。
また同じような事故を起こさない自信は少しもなかった。
「ま、まどから帰るの……?」
窓枠に足をかけるヴィルに問いかけた。
「うん。
みんなにはないしょで来たからね」
ヴィルはいたずらっぽく笑った。
「あの、気をつけて、ほんとうに……」
エルサのその言葉に頷くと、ヴィルは一気に飛び降りた。
エルサが小さく悲鳴を上げ窓から身を乗り出して覗くと、ちょうどふわりと中庭に着地するところだった。
ヴィルの周囲にはまたチカチカッと光るものが見えたので、雷の魔法をうまく利用したのだろう。
ヴィルが振り返って尖塔の三角窓を見上げると、エルサが窓から乗り出し、心配げにこちらを窺っていた。
無事を知らせようとヴィルが大きく手を振ると、彼女は安心したように引っ込み、小さく手を振り返した。
ヴィルはただそれだけで心が跳ね、嬉しかった。
綻ぶ顔をなんとか引き締めて、ヴィルはアナの部屋に向かうことにした。
「ヴィル!おそいよ!」
ヴィルがアナの部屋をノックすると、すかさず開いた扉から頬を膨らませたアナが小さな仁王立ちで現われた。
アナの部屋にある柱時計をちらりと窺い見ると、長い針は予定の時間を5分も過ぎていた。
アナが1分でも1秒でも長く遊びたがっているのは知っていたので、いつもなら鐘が鳴るのとほぼ同時に扉をノックするようにしていたくらいだ。
「ごめん。
行こう、アナ」
すぐ遊びに取り掛かれるよう早々におもちゃ箱を抱えたヴィルがにっこり顔でアナの手を引いている間、アナはヴィルを見上げ続けていた。
「……ヴィル、なにかいいことあった?」
「えっ?」
ヴィルはどきりとした。
どうやら表情に出ていたらしい。
「おんなのかんはよくあたるものよ!
ひとりじめはよくないってママがいってたわ!
だからあたしにおしえないとダメ!」
アナは足を止め再び頬を膨らませた。
ヴィルが何か楽しいことをして、それでアナと遊ぶ時間に少しだけ遅れてしまったらしいことが不服のようだ。
「……、わかったよアナ。
えっとね――」
ヴィルがまた歩き出すと、アナもつられて歩き出した。
「ちょっとした冒険をしてきたんだ……あ、もちろんお城の中でだよ。
でも、うまくいくか分からなかったし、初めてのことだったから、すごくドキドキした」
「ぼうけん?なにをしたの?」
アナの目が途端にきらきらと輝き始めた。
ちょうど何もない大広間に着いたところで、2人は中に入り、おもちゃ箱から人形を取り出した。
「アナ、おんぶしてもらったことはあるよね?」
人形をアナに持たせると、ヴィルはしゃがんで背中を差し出した。
「あるよ!ママにも、パパにも!」
アナはそう答えながら、人形を抱えたままヴィルの背中に飛び乗った。
「……走り回ったことは?」
ヴィルが立ち上がり、企み顔で振り返る。
アナは答える代わりに、顔いっぱいに笑顔を咲かせた。
ヴィルは掛け声とともに駆け出し、広間中を走り回った。
背中で「きゃっきゃ」と喜ぶアナは笑い声を上げ、スリルを楽しんでいる。
「ほら、お人形さんも空をとべるよ」
ヴィルが言うと、アナは抱えた人形を上に突き出した。
アナに似た、茶色い布の髪をした人形は、気持ちよさそうに風を切っている。
ヴィルは身体を右や左に傾けてジグザグに走ったりして、
ひとしきりの体力を使い果たしたところで、空っぽの大広間の真ん中に大の字に寝転んだ。
「はぁ、はぁ、どう?
大冒険、できた?」
肩で息をしながらヴィルが尋ねた。
「まあまあってところね!」
わざとらしく考える素振りを見せたアナは、ヴィルの手を引いて立ち上がらせようとした。
「ほんとうのだいぼうけんはこれからだよ!」
人形をおもちゃ箱に戻すと、アナはヴィルを引き連れて部屋を飛び出した。
疑問符を浮かべるヴィルは引っ張られるままについていく。
途中、窓の外にちらつくものを感じたアナは、その景色を見て先ほどよりずっと嬉しそうな声を出した。
はらはらと降りしきる雪は、2人が気付かないうちに世界を真っ白に染め上げていた。
「そうこなくっちゃ!」
アナは空に話しかけた。
「あとは、さいこうのあいぼう!」
ヴィルを連れて廊下を駆け抜け辿り着いた先は、雪の意匠が施された真っ白な扉の前だった。
「アナ……」
ヴィルが声を漏らした。
アナは扉を見上げ、リズミカルにノックをする。
「エルサ!
ゆきだるまつくろう?
おおきなゆきだるま!」
アナが元気いっぱいにそう呼び掛けても、扉は黙ったままだ。
しんと静まり返り、沈黙を守っている。
「こっちにおいでよ!
あそびにいこ!
……そこにいるんでしょう?」
アナは扉の鍵穴に内緒話をするように口を寄せたり、扉の隙間から中を覗こうと試みたりしていた。
「…………、」
ヴィルは表情を曇らせてそれを見ていた。
エルサの事情を知らないアナは、なぜ彼女が扉を閉めきったままなのかが分からない。
しかしそれをヴィルから教えることはできない。
それがとても歯がゆいのだ。
「まえはあんなになかよしだったのに、りゆうをおしえてくれてもいいんじゃない?」
だんまりを決め込む扉を前に、山のような弧を描いていたアナの眉が下がってきていた。
「わかった、わかった。
ゆきだるまじゃなくてもいいからさ、あたしとあそぼうよ!
もうずっとあってないよ?
まるでとおくにいっちゃったみたい」
すると、扉のむこうから、くぐもったエルサの声が小さく聞こえた。
「……あっちいって、アナ」
隔てているものは扉1枚分だけでなく、もしかしたら、頭に枕を引っ被っているのかもしれない……そんな声だった。
エルサだって遊びたい。扉を開けたいのだ。
その思いを断つには、否定し続ける他なかった。
エルサのその声が聞こえた瞬間、アナはほんの一瞬だけ笑顔になったが、すぐに肩を落として俯いてしまった。
やっと聞こえた返事は、エルサがきちんとそこにいることを教えてくれたが、
そのエルサが、また自分を遠ざけようとしている。
降り積もった雪で膨らんだ胸は、どんどんと萎れていった。
「わかったよ……」
アナはしょんぼりとしてその場をあとにした。
とぼとぼと黙って歩くアナに、ヴィルも黙ってついていった。
「エルサは、げんき?」
もしかしてびょうきなの?とアナは眉をハの字にしてヴィルを見上げた。
「元気だと思うよ。
わたしも父さんも、病気だとは、聞いてないから……」
膝を折って、アナの頭に手を添えながら答えた。
このときのわたしの表情が、エルサの心配をしている顔だと思ってもらえますように。
ヴィルはそう願うばかりだった。
ヴィルが勉学などでどうしても相手ができないとき、アナはしぶしぶながら一人遊びを覚えていった。
その一方で、エルサは王と王妃について、未来のアレンデール君主としての執務とマナーを仕込まれていった。
同時に、何にも増して重要な、禁断の力を制御する術を見つけようと努力した。
だが、それはたやすいことではなかった。
こればかりは帝王学と違い、父王から教えを乞うことはできない。
雪と氷の魔法を使えるのは自分しかいないのだから、自分で見つけるしかなかった。
しかし、雷の魔法を使える者がすぐそばにいる。
ヴィルだ。
彼女は性質こそ違えど、「魔法」を使える。使いこなしている。
あの日、窓からヴィルが訪れて以来、エルサは窓の鍵を開けたままにしていた。
学ぶ必要があるのだ。力を抑える方法を。
未来の女王として、王位継承権第一位の者として、「さびしいから」という理由を一番にしないようにした。
カチャリと静かに窓が開き、ヴィルがやってきた。
ヴィルの顔を見ると、エルサは少し心が軽くなった。
夕食を済ませてから寝る時間になるまでの空き時間に訪れることがまた新たな習慣となりつつあった。
「こんばんは、エルサ」
夜の訪問を二度、三度と繰り返していくうちにヴィルはいろいろなことに慣れていった。
城の者に見つからずに塔を登る方法、外側からの窓の開け方、
突然窓が開いてエルサをびっくりさせないよう、わざと小さな音から立てて訪問を知らせるようにもしてくれた。
ほとんど毎日エルサの部屋に入り浸るようになったが、何か特別なことをするわけではなかった。
昼間にカイやゲルダから出された宿題をこの部屋でこなしたり、
2人並んで本を読み星を見上げるような、静かで穏やかな時間を過ごしていた。
エルサは分からないことは何でもヴィルに聞いた。
エルサにとって、ヴィルは何でも知ってる物知りな姉のような存在だった。
語学に算術、史科に明るく、教養も兼ね備え、血さえ繋がっていればヴィルこそが女王に相応しいのではと錯覚するほどだ。
しかしそのどれも、ヴィルからひけらかすことはなく、
日中に学んだ帝王学のおさらいをしているときにエルサが躓いた問題に対してのみ発揮された。
逆にエルサがヴィルの宿題を覗き込んだときは、いったいそこに何が書いてあるのかすら分からなかった。
疑問符を浮かべ、首をひねる彼女を見たヴィルは困ったような笑顔を浮かべ、
「あと3年経ったら分かるようになるよ」と頭を撫でてくれた。
しかし、そんな2人でも分からないことはある。
エルサの力の抑え方だけは、ヴィルに何度聞いても答えに辿り着けることはなかった。
ヴィル自身も分からないのだ。
なぜ自分が魔法を使いこなせて、エルサに使いこなせないのか。
ヴィルがエルサと同い年だったときはすでに、雷を自在に操っていた。
ある時、廊下に誰も――主に妹が――いないのを確かめて部屋を出たエルサは、踊り場に据えられた甲冑に近づくと、恐る恐る真鍮製の手を取った。
エルサが握手した途端、空洞の騎士の手が氷結していく。
だめ……女王が臣下を氷漬けにしてどうするの。
エルサはまじまじと自分の両手を見つめるばかりだった。
どうしてヴィルのと違って言うことを聞いてくれないのだろう?
ううん、あせっちゃダメだ。
きっと、もう少し大きくなればコントロールできるようになるわ。
だって、私はアレンデール王家を継ぐものなのよ――。
「エルサ、考えごと?」
ある晩、エルサが甲冑の手を氷漬けにしたときのことを思い返していたとき、ヴィルの声で引き戻された。
今は2人で星明りの下、絵本を読んでもらっていたところだった。
絵本の中では、隣国同士の王子と姫が両親の目を盗んで秘密の逢瀬をしている。
みんなに内緒で会いに来てくれるヴィルは、姉のようでいて、絵本の中の王子とも重なって見えた。
「もっとれんしゅうしようと思って、
お昼に、おどりばにあるよろいの手をこおらせちゃったの」
エルサはそのときと同じように自分の両手を見つめた。
「そっか」
「またこっそり、れんしゅうしに行くわ。
ヴィルの手ばかりこおらせるわけにはいかないもの」
初めてエルサの部屋を訪れたときから、また何度かヴィルとも握手をする練習をしていた。
気持ちを落ち着かせて、深呼吸をして、ゆっくりと手を握るのだが、うまくいった試しはなく、
一度霜が降りはじめれば、さらにそれが不安材料に重なり一気に手を凍りつかせてしまうのだ。
そのたびにヴィルは「大丈夫だよ、またやろうね」と自身の手を温めて氷を解かすのだが、
指先がしもやけのように赤くなっているのに気づいたエルサは、あまりヴィルと練習したくなかった。
その後も何度も甲冑のところへ通ったエルサだったが、何度試しても、空っぽの手は凍った。
その手を見て、肩を落としまた自室へ戻っていく幼い娘を見かねた国王は、
エルサを自室に呼ぶと、一対の手袋を手渡し、助言を与えた。
「手袋をしなさい。いつもそれを身につけているように」
エメラルド色のなめし革の手袋は、エルサのアイスグリーンの瞳によく似合った。
「ほら、このほうがいい。
隠すのだ」
――その呪われた力を。
王は心の中でつけ加えた。
「落ち着くように」
エルサが淡々と応じた。
「感情を見せないように」
十にも満たない娘に、なんと理不尽なことを命じるのか。
娘想いのアグナル王は心を痛めたが、あの夜の恐怖を忘れるわけにはいかなかった。
危うく末娘を失いかけ、命を救ってくれたトロールの長によれば、
エルサが禁断の力をコントロールする方法を習得しなければ、やがては長女の方を失うことになるのだ。
しかも、自分の民の手にかかるという、国王として父として、およそ考え得る最悪の状況によって。
エルサ同様、トロールの長の見せた映像が、アグナル王の脳裏にも焼きついている。
魔法の雪を降らせるエルサを恐れ、刃を向ける民衆――あれを現実にしてはならない。
決して、他人にエルサの力を悟られてはならないのだ。
エルサの不思議な力は、泣いたり笑ったり、感情が昂ったときに現われるのは分かっていた。
自ら雪や氷を作りだしているわけではなく、空気中に存在する水分を集めて雪や氷の粒に変え、手のひらから放出しているらしい。
力をなくしてしまう方法が分かればいいのだが、今はただ常に心を平静に保ち、本人の意思に反して魔法の力が発現しないようにするしかない。
エルサはしっかりしているようでいて、優しい性格ゆえに、小さなことでも動揺しやすい面がある。
とりわけ、愛する妹に少しでも危害が及ぶと思うと、それだけで取り乱してしまいがちだ。
手袋をすることで、雪や氷が吹き出すのを抑えられると思えば、気持ちを落ち着かせることもできるだろう――
国王は、そう願わずにはいられなかった。
こうして、アレンデール城での日々が過ぎ、アナはいつしかひとり遊びの達人になった。
時には人形を姉に見立て、おままごと遊びをした。
「あなたはさいこうのおねえさま。ううん、こっちがさいこう」――これはすぐに飽きてしまった。
また、時には人気のない絵画室で何時間も過ごし、壁いっぱいに飾られたたくさんの家族や恋人たちの肖像画を眺めたり、
自分たちアレンデール王家を描いたひときわ大きな肖像画に話しかけたりした。
絵の中の姉は、決して「あっちに行って」とは言わなかった。
両親はエルサを厳しく律する一方、アナを甘やかした。
次期女王としての責任と人に知られてはいけない禁断の力、ふたつの重荷を抱えて伸び伸びと過ごすことの許されないエルサの分も、
アナには娘らしく、無邪気な子ども時代を謳歌させてやりたかった。
といってもアナはお転婆で、ポニーを乗り回したり、塔の屋根に登ったりと、片時もじっとしていない。
少しは落ち着くかと思い、家庭教師もつけてみたが、大して効果はなかった。
ある日、アナが窓の外を眺めていると、雪が降ってきた。
雪が降ると、どうしてもエルサを誘い出したくなる。
興奮で頬を上気させてエルサの部屋まで一気に駆けていき、扉越しに呼びかける。
「ねえさま、ゆきがふってるよ!
ゆきだるま、つくろう?」
昔から、こうやって誘えば必ず姉は応じてくれた。
夜空にオーロラがまぶしく輝いていたとある晩には城を抜け出し、ヴィルも巻き込んで、中庭で一緒に雪だるまを作ったこともあった。
あのときはたのしかったなぁ。
なんていったっけ、ねえさまがつけた、おかしなゆきだるまのなまえ……。
ヴィルのへんてこなこえはまだおぼえてるよ。
これなら絶対姉の気を引けると思ったのに、やはり部屋の中から返事は返ってこない。
あの日もそうだった。
ヴィルも一緒についてきてくれて、また3人で遊ぼうと誘ったのに。
あの日から、アナの心には「ダメもとでも誘ってみよう」という、諦めの気持ちが少しずつ混ざり始めてきていた。
聞こえなかったのかも、ともう一度だけ、今度はよく聞こえるように声をかけてみたのだが、
それでも何の反応もなく、扉はピクリとも動かない。
たぶん、部屋にはいないのだろう。
アナはそう考えることにした。
ひょっとしてお外へ散歩に行っちゃったのかな?
アナは中庭に出ると、ひとしきりエルサを探してみたが、見当たらなかった。
諦めて、ひとりで雪だるまを作り始める。
そのうちてつだいにでてきてくれるかも。
ヴィルもさそえばよかったかな。
ヴィルならこえをかけたらきてくれる。
……でも、このごろいつもほんをかかえて、おべんきょうにいそがしそう。
いびつな雪だるまを転がしながら、ふと視線を感じてエルサの部屋の窓を見上げると、
優しい笑みを浮かべてこちらを見守っている姉の姿が目に入った気がした。
手を休め、改めて目を向けると、そこには誰もいなかった。
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