融解ディスタンス
雨の日に踊るのは、雨粒だけではない。
彼らの距離も縮まるからだ。
雨の日には雨粒が海に変わり、海鳥が手紙を運ぶ。列車が走る。
水上に浮かぶその図書館には、一人の少年が住んでいた。
○
「人の色恋沙汰に口出ししてんじゃねえよ」
ジェラルドは銃口をこめかみに当てて言った。
「あんたが悪いんじゃない」
エミリーは彼を睨み、煙草に火を付ける。
「うっせえばーか」
彼は隣にいる若い女を見た後、「とにかく、俺はこいつと死ぬから」
彼は少しだけ笑った。
「後はよろしく」
彼は自らに当てた銃の引鉄を、引いた。
○
少年は読みかけの小説に飽きると、ソファーに寝転んだ。
どうして彼らは一緒にいるんだ? そんなにいやなら、離れればいいじゃないか。
彼は目をつぶり横を向く。辺りには本棚が多く並べられており、「あ」から順に著者の名前が並んでいる。検索危機には「恋の銃口」というタイトルがそのままになっている。
少年はソファーから起き上がると、本棚の隙間を歩く。哲学、神学、経済、法律、物理学、宇宙、芸術、文学。分野毎に本は並んでいる。読書をするには、まずそのインデックスを頭に入れておく必要がある。
奥にある扉を開けるとそこは小さな事務室になっており、机や書類が並んでいる。角を抜けると小さな冷蔵庫と洗面台が付いた部屋があり、少年は冷蔵庫を開けると小さなりんごを取り出し、齧る。
いやだって言いながら一緒にいる関係ほど、不毛なことはないじゃないか。
少年は小さな欠伸をし、事務室の机に座ると、万年筆を取り出し、手紙を書き始める。
毎朝、遥か遠くの彼女に向けて手紙を書く。それが彼の日課だ。
○
死んでから好きだって言う人が出てくる度に、何でもっと早く言ってあげないんだろうと思う。思い出すように、まるで忘れていたかのように、そういえば、そういえば。たぶん本当はどうでもいいのだ。それほど好きでもないのだ。そういえば好きだったなって、きっと過去形の感情を、今更ながらに突き付けられて、それって死者の弔いでも何でもなくて、ただ、遅すぎるよと、もっと早く言ってあげなよと、本人が生きている内に言ってあげなよと、そうすればもっと違う人生があったんじゃないのと、僕は言わずにはいられない。そんな後出しジャンケンみたいなの、ズルいよ。
少年は近くに置いてある伝記を読みながら、愚痴半分に呟いていた。心の中で。
そういえば手紙を書いている途中だった。
○
「死ねばよかったのに」
エミリーは煙草を吸いながら毒付いた。
「死ぬつもりだったけどな」
ジェラルドは死体になった彼女の横で呟いた。
「変な女連れてくるんじゃないわよ」
エミリーは女の死体を睨む。
「少しは興奮した?」
彼は上目遣いで見る。
「ばか」
煙草の灰が床に落ちる。
○
カモメは、毎朝少年が少女に宛てた手紙を、大切そうに運ぶ。しかし、彼はその手紙が届かないことを、知っている。なぜなら、この孤島から少女の住む島までのある空域に、西から吹く恐ろしい風が存在している。人はそれを魔の横槍と呼ぶ。それは彼も知っている。だからこの島から何か物資を運ぶためには、船か、海列車を使う。細長く続く絶壁の谷のような陸地に、人が列車を繋げたのだ。
横槍に流されて向かうカモメの先は、ゴミ屑の島。彼の手紙は、そこに淡々と流されていく。西の風が向かう先にあったその島は、いつしかゴミ屑で埋もれてしまったのだ。
彼の手紙は、ただゴミとなるべく毎朝生み出されている。
(あとがき)
海の先には、きっと少女が待っていて。海の上の少年は、その姿を思い浮かべる。