▼産屋敷耀哉
――何故私は生まれてきたのだろう。
物心ついた時から、胸にぽっかりと穴が開いているかのようだった。
生に疑問を持ち、命に疑念を持ち、心に疑義を抱き、そしてそれぞれの感情は私以外には持たなかった。
暖かな日光に当たる木々も。池の中をすいすいと泳ぐ鯉も。愛し育ててくれる両親も。身の回りの世話を焼く使用人も。皆等しく愛おしかった。素晴らしい生命だった。綺羅綺羅と輝く、美しいものだった。
――何故私は生まれてきたのだろう。
ずっと私自身に価値を見出せなかった。
だが皆にとっては違うようなので、その想いを真実にしようと精進し続けた。
私なぞに時間と手間をかける人たちに少しでも酬いることが出来ればと勉学に励んだ。
――何故私は生まれてきたのだろう。
両親に連れられて、屋敷の裏にある山を暫く登った場所にある膨大な数の墓を参っていた。
季節が巡る度に墓の数は増え、両親は余程の予定が入らぬ限り欠かさず山に登る日々であった。
元々私は物静かな性質だったのだが、この場所ではとくに騒いではならぬと、墓標たちを見上げて思ったものだ。「私の愛おしい部下たちなんだ、祈ってやってくれ」と父から言われ、一番身近にあった墓の前で手を合わせ頭を下げた。顔を合わせたことのない、見知らぬ人生を駆け抜けた人々。一心に祈った。彼らの魂にどうか安寧あれと。
いつかの時に、こんな風に何かに対して祈りを奉げていたような気もするが、今回が初めてだということは言うまでもなく。僅かに首を傾げた後、姿勢を正して祈祷する。
そんな私の姿を、両親は優しく見守っていた。
悲痛と決意の籠った顔で墓参りを行う両親の真意を知らされたのはこの世に生まれて五年が経った日。
お伽噺の中でのみ存在していた『鬼退治』がこの現代で行われているということ。
我が産屋敷家と『鬼の首領』たる男との約千年に亘る因縁のこと。
その話を聞いて、私は何故私がこの世に誕生したのかの理由を、脳でなく魂で理解する事が出来た。
『鬼舞辻無惨を倒す』
その為だけに、私は生まれてきた。
(ずきり)
無惨の打倒は人生の終着駅であるが、如何様に敏腕を振るおうとも世界は残酷だ。
剣士たちと共に血の滲むような努力を積み上げても、鬼たちはそれを嘲笑って蹴散らしていく。
一の目的を達成し、十の損害を被る。
繰り返し、繰り返し。
瞼の裏に映るのは剣士たちの墓と、黒く塗りつぶされた影の鬼舞辻無惨。
「お館様、顔色が悪いように見えますがお加減は」
「無理はしてないから大丈夫だよ、ありがとう」
「勿体なきお言葉……」
産屋敷一族は鬼舞辻無惨を排出したことで呪われている。
その影響で産屋敷の血が流れる者は総じて病弱か、或いは生まれながら身体が弱かった。三十を過ぎることなく亡くなるのだ。
私もその例に洩れず、身体が軋んでゆくのを肌で感じている。
しかし幸運なことにも神職の家系から嫁がれた母の加護を一等強く受けたらしい私は病の進行が遅かった。
父は二十を過ぎた時には既に他人の手を借りねば歩けぬほど足腰が弱っていたのだが、私は自分の力だけで立つことができ、走る事すら可能だ。
それでも、やはり三十を超えることは叶わないだろう。
もしかすれば、と希望を持つ周囲とは裏腹に、私の頭は冷え切っていた。
『鬼舞辻無惨を倒す』
其れは夢物語ではなく、理想ではなく。剣士たちと共に、奴を死の世界に葬ることを目指して。
嗚呼、口惜しい。
時の流れは無情だ。
私の代で終わらせるには、時間が足りない。
奴と相見えるどころか奴の影すら見えてこない。
倒す。無惨を倒す。奴は私たち産屋敷が倒す、剣士たちが倒す、柱たちが倒す。我々が倒す無惨を倒す、倒す、無惨。鬼舞辻無惨!
(ずきり)
……まただ。奴について考えると、偶にだが痛みがやってくる。
呪いの一種か将又精神病の一つかと幼き頃に何度も考えたが、理性とは別の答えを私の勘は囁いていた。
奴と私には、恐らく何かしらの繋がりがあるのだ。
これは私が産屋敷だからだというわけではなく、きっと、私が私であるから。
何故私であるのかは、勘だけで察することは出来ないが。
解明されずともいい。
鬼舞辻無惨を倒せれば、それでいい。
(ずきり、ずきり)
運は私に味方をした。
鬼殺隊に入った新たな剣士の手によって、百年ぶりに上弦の月の一角が撃破された。
犠牲を払いながらも私たちは歩みを止めなかった。
そして、漸く。
(ずきり、ずきり、ずき)
ようやっと奴を倒す機会がやってきた。
この千年の間踏み躙られてきた数多の剣士たちよ、どうか見守っていてほしい。
父よ母よ、どうか祈っていてほしい。
私はこの五日以内に、奴を叩くつもりです。
『鬼舞辻無惨を倒す』
(ずき、ずき、ずき)
成功を祈願して、杖をつきながら山を登った。
以前はあまねが付き添ってくれていたが、今日からは私一人になる。
供をすると、彼女は言ってくれたけれど。
不必要な犠牲を出すことは本意ではない。
大丈夫、私一人で問題無い。その確信があった。
……これも一つの本心であったが、もう一つ、本心もあった。
鬼舞辻無惨とは誰も間に挟まず対峙したい。
今夜は三日月。
三日月というのものは、眺めていると不思議な気分になる。
肌がざわつくような。
安心するような。
不愉快ではない、本当に不思議な気分だった。
様々に変化する月の形の中で一等惹かれ、そういった私の意向により家族の間で月見と言えば三日月を眺めることを示した。
(ずき、ずき、ずき、ずきずき)
砂利の音と共に気配が近付いてくる。
小さく口元で弧を描く。
「やあ、来たのかい。初めましてだね、鬼舞辻……無惨」
薄い布越しに、ぼんやりと男の背格好が露わになった。
そして世界は反転した。
『あの医者に処方された薬の効果だろう』
(よかった)
私とよく似た顔の、狩衣を着た一人の男が立っていた。
ああ、これは確かに無惨だ。鬼舞辻無惨だ。
一目見た瞬間、彼が彼であることを理解した。
しかしこの記憶は――――まさか――
(元気そうだ、嬉しい、よかった)
慶びの声をあげているのは、誰だ?
『こうして起き上がることも、言の葉を述べることも容易だ』
(もう一度歩けるようになるんですね、共に歩めるようになるのですね)
この無惨は誰に話しかけているのか。
"私"は今、誰になっているのか。
(――本当によかった)
『その必要はない』
生来の勘が警告の鐘を鳴らす。
これ以上考えてはいけない、見てはいけない、聞いてはいけない。
この先に分からないままでいいと思っていた答えがあるのだと直感していた。
今ならばまだ引き返せると、この身体が声を荒げている。
歴史の闇に消えた剣士たちの想いを虚仮にするつもりかと、この血が叫んでいる。
止まるべきだ。
目を逸らせなかった。
『俺の血となり肉となれ、無限』
この記憶の身体と私は同時に、異なることに納得した。
(ああ、そうか、そうなんですね)
……そうか。
私は君だったのか。
遥か昔の私は君だったんだ。
ああ、君の絶望を感じる。
泣きたいんだね。謝りたいんだね。でも、それはしないんだね。
(去り際はせめて潔く、醜く思われないように致します故、兄上、どうか、どうか)
……うん。己の気持ちは、よく分かった。
(――どうか彼の未来に、幸多からんことを)
――そうして己が立てた"三日月の誓い"を、私は踏み躙る。
何故、『鬼舞辻無惨』という男に強く己が執心したのか。
『産屋敷』という立場を切り離して考えれば、少しは真相に近付けたろうに。
ただ、そのような思考手順を過去の私は決して踏まないだろう。
産屋敷ありきの私であり、鬼殺隊を率いる私であれば。
『鬼舞辻無惨を倒す』
その為に今まで生きてきた。
人生の終着駅に沿えた『鬼舞辻無惨』に向かって進み続ける。
この程度の事で歩みを遅らせるものか!
この程度の事で想いが枉げられるものか!
屍の山を数えきれぬほど築いた奴を生かしておけるものか!
私は産屋敷名前。
千年に亘る儚い犠牲者と鬼殺隊たちの怨みを背負うもの。
彼らの想いを受け継ぎ、次代へ受け渡すものだ。
……己は選択を間違えた。
無惨、君はやり過ぎた。
その償いを果たすべき時が来たんだ。
「ああ……貴方がこんなに私の、……己の話を聞いてくれるとは思わなかったな」
先に行って待っているから、早く此方においでなさい。
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