七五三という年中行事を行う習慣がある。齢が三つになった私はその年で初めて着物を着付けた。
優しく微笑む父と母が「名無の為に織らせた」と、レンタルではなく特注で用意したらしい可愛らしい花柄の着物。
日ノ本の象徴といっても過言ではない、そして現代では廃れつつある着物を生まれて初めて――生まれ直して久し振りに着付け、独自の香りが身体を包んだ時、私はかつての記憶を取り戻した。
「想像してた通りの愛らしさだ!」
「さあ名無、写真を撮りましょうね」
周囲の面々は私の身に起こった疑いようもない異変に気付かない。
私の様子をよく見ていなかったからではない。取り巻く環境は優しいが甘やかさず叱るときはきちんと叱る、という方針の実に満たされたもの。
気付かなかったのは一重に、私の表面も裏面も通常通りだったからだ。
「ああ、そっか」
成人した直後に亡くなったという記憶が脳を支配し、それを受け入れ、頷いた。その後は七五三の行事を滞りなく終了させた。それだけである。
私にとって、記憶はあってもなくても大差がないものだった。
だが、一つ……いや二つばかり、かつての私の記憶は今の私に影響を及ぼした。
まず一つは七五三の七を過ぎても未だに着続けている着物。洋服よりも着物の方が着ていて気が楽なのだ。着物を着た時のあまりのフィット感に記憶がフラッシュバックしたほどである、筋金入りだ。しかし日本に生きる日本人は西洋のものに随分と感化されているらしく、日常生活を着物で過ごしていると少し人の目を引く。
無難な生活を過ごすには周囲に合わせて洋服を着ている方が利口だが、洋服だとストレスが溜まるのだから仕方がない。祖父が羽織のよく似合う日本男児であったからか、服をこちらに変えたいと言っても周囲は朗らかに笑って受け入れてくれた。
残りのもう一つは――――
「ふふ、そうね、名無ならきっとなれるわ」
母はふわりと笑いながら言った。
「……そうだな。なれるだろう」
父はとても難しい顔で黙り込んだ後、母の言葉を肯定した。
「名無がその日を迎えるのをこの目で見届けるまでくたばるわけにはいかんなぁ」
祖父はそんな父を楽しげに眺めて頭を撫でてくれた。
「うん。私、立派なお嫁さんになるよ」
成人を迎えた次の日には有名な公家に嫁入りする筈だったのだが、死を迎え入れてしまった身。
自由を許されなかった身。
親が己全ての権限を握っていた身。
それが常識だった身。
しかしそれ等は既に過去の事だ。
母に愛され父に愛され、周囲に愛され。実に、実に恵まれた身となった。
女という性が献立ではなく職業を選べるという自由。
かつての記憶と比べ、突然広大になった世界の中で心に芽生えたもの……それは、嫁願望である。
かつての己は地位と権力のある男の嫁となるしかなかったが、今の己には取り捨て選択が出来る。真実己が愛した相手と結ばれることが出来るのだ。
ならば、私はお嫁さんになろう。
比翼の鳥。番となる夫を見つけることこそが、今の私の夢なのだから。
しかし、基準がよく分からないのが正直なところだった。好ましいと感じる相手はそれなりにいるのだが、その中で何を理由に誰を選ぶべきか?
少しばかり思案した後、真っ白なスーツを着た父の部下が視界に入った。
どうやら我が家に訪れていたようだ。滅多に見ることのない姿を目にし、駆け寄る。
「こんにちは、四木さん」
「こんにちは、名無お嬢さん」
「あのね、四木さん、ちょっと質問があるの」
「なんでしょうか?」
「四木さんはお嫁さんにする人とか、したい人はいるの?」
「いえ、恥ずかしながらいませんね」
失礼な事を聞いていると自覚はしていたが、それでも質問したかった。
日本では左手薬指に指輪があるかどうかで既婚者かどうか判別が可能らしい。今現在、四木さんのそれに指輪は存在しない。
それ故、話を続ける。
「それじゃあ、四木さんのお嫁さんに立候補、してもいい?」
瞬間、とても珍しいどころか初めて見る表情を四木さんは形作った。
はてなんだろうかこれは。どういった感情が理由でその顔になっているのか予想がつかない。
「駄目?嫌?」
「……………………それは光栄ですね」
「立候補してもいいのかな」
「……貴女は私の事を好いているのですか?」
「うん、好き。お嫁さんって、好きな人になるものでしょう」
「そうですね、ええ。それでは……名無お嬢さんが大人になるまで私のことを好いていただけたら、責任をとらせていただきます」
「お婿さんも好きな人になるものだから、無理はしなくていいよ」
黙り込んでしまった四木さんを見上げ、首をかしげる。
四木さんは父や祖父の部下だから私に対して強い物言いが出来ない事は知っていた。だからこそ好いていない相手と結婚する必要はないとこちら側から言ったのだが、彼はどうしたのだろう。
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