どんな奇跡が起こったのか。
消えた筈のマシュが、必死の顔で手を伸ばしてくる。崩れかけた足場によって落ちかけている俺も、諦めていた身体に力を入れ重力に逆らって上を目指した。
もう少し。
ほんの僅か。
あとちょっと。
何かが俺の胴体に纏わりついた。
「先、輩――!」
がくん。
俺の身体が落ちていく。重力だけではない別の力によってマシュと引き離され、掴める筈だった手はからぶった。
(マシュ!)
名を呼ぼうとした。
落下していく俺を追ってきてしまいそうな顔をしているマシュに、言葉を残そうとしたのだ。
しかし俺の口が吐いたのは違うものだった。
「ゲーティア」
意識していたものとは異なる名を口にした自身に目を見張り、落下する不愉快な浮遊感も忘れて驚く。
サーヴァントの皆は既に力尽き消滅しているだろう。ロマニはもう亡くなった。この時間神殿に存在する生命体は自分以外いない。
だが此処に疑いようも無く存在した。帰還を妨害するものが。
少しばかり前に紛れもない自分自身の手で打倒した人間、ゲーティア。
彼も亡くなったと思っていたというのに、まさかまだ残っていたというのだろうか。
いや、その前に。マシュは?俺の大切な後輩は?影から目を放し顔を上げるがマシュを見る事は叶わなかった。
……マシュ。
「名無」
ゲーティアが俺を呼ぶ。
影が濃厚になり俺を包む。覆ったともいえるが、俺は不思議と包まれているように感じた。
俺は今、ゲーティアに抱きしめられている。
マシュと引き離され奈落に落とされている。
「我が怨敵。我が憎悪。我が運命よ……すまない、先程の行いを全て無に帰すような、否――まさしく無に帰す行為だ」
「何故、こんなことを?」
分からなかった。彼はあの瞬間、人として死んだというのに。人を理解したから獣から人になり、俺と戦って死んだというのに。
「実に……素晴らしい……命だった」
あの時の言葉は嘘だったのか?……違うか。この言葉に嘘は無かった。ただ、その後で心変わりがあった?
「……名無」
「ああ」
「私を知るのは、お前だけだ」
そう言われてみれば、確かにそうだ。魔神柱を統括するゲーティアは知っていても、今の人王を知るのは俺だけだ。
此処は千里眼でも見渡せない場所なのだから、人王ゲーティアとなった後で対面した俺だけが彼の存在を知っていると言える。
言葉の続きを待ったが、ゲーティアはそれ以上の説明をしなかった。
自分を知る唯一の人間が居なくなるのが嫌だったからこうしたとでも言いたいのだろうか。俺は、もう直ぐ死ぬのか。
「ゲーティア」
くぐもった声で、なんだと返事が聞こえる。
呼んでおいてなんだが、何か言おうと決めていたわけじゃない。
きっと俺の命の底はあと少し。長い筈がない。
僅かな時間で彼に告げる言葉は何が良いのだろう。
恨み言や罵倒……が普通か。
ああ、嫌だな。それは止めよう。最期に一緒に居るのが魔神王だったらそうしてたかもしれないけど、此処にいるのは人王だ。
それならならば何が良いのか。
もう直ぐ死ぬ。俺は永眠する。……あ、そうだ。
「おやすみ」
うん、これがいい。
おやすみゲーティア。
「名無……おやす、み」
意識を失い目を閉じた名無をゲーティアは抱きしめた。
短すぎる人生を駆けたゲーティアが胸に宿る想いを言葉に表す事は出来ず、ただ絶対に離すまいと力を入れることしか思いつかなかった。
そして、二人の人間は死に至る。
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