「軽く触っていいものじゃない、だっけ?」
「あ、はは……これも、予想外だ」
皆帆くんが部屋の扉を開いた瞬間の光景は、まだ若干の潤いを帯びていた私の視界にもぐんと飛び込んできた。目にあった水分は綺麗さっぱり無くなって変わりにこれでもかというくらい心臓が跳ねた。瞬木くんだ。どうして、こんな場所にいるんだろう。もしかしてさっきの話、聞かれてた?
ぐらぐらと頭が揺れる中で私の中の救いの人は皆帆くんだったのだけど、彼も瞬木くんと鉢合わせるなんて思ってなかったらしく、思いの他戸惑った様子を見せていた。私は何もできないまま、二人が軽く言葉を交わす(なんだかあまり良い雰囲気ではない、ような)のを見守りながら、そっと心の中で皆帆くんを応援したものの、皆帆くんは一瞬私の方を見てウィンクをした後に去ってしまった。皆帆くん、そのウィンクには何の意味があるの?私にはとてもじゃないけど良い意味には取れないよ。

 ドアを挟んだまま動くことのない私と瞬木くん。瞬木くんの顔は、うまく彼を見ることができなくなってしまった私からでもわかるほどムッとしていて戸惑ってしまう。頭では解かってるつもりだけど、どうしてもうまく動けない。
困惑を表に出さないようにと勤めてみるも、きっと瞬木くんには全てお見通しで、そんな瞬木くんは相手を安心させるような穏やかな表情をするわけでもなく、私へ目を向けて「こんばんは」と告げた。こ、こんばんは。私の口からも同じ挨拶が流れた。
正直なところ、こんな些細な言葉を交わすなんて思ってなかったから、瞬木くんから発せられた言葉は意外だった。……意外? そう、なのかな。どうなんだろう。確かに前……瞬木くんがまだ素を見せなかった頃も、こんな会話をした気がする。
「邪魔したみたいだな」
「あ、あの……良かったら、」
 ぎこちない上にタイミングまでかぶってしまったせいで会話が成り立ってない。邪魔なんかじゃないと慌てて瞬木くんの言葉に答えた私に瞬木くんは簡単に相槌を打ってから、部屋の中へ入った。がちゃ、ドアが閉まる音が妙に大きく聞こえた気がする。

 ここにきて私は一気に後悔の波に呑まれた。
だって、だって一体どうしたらいいのか。精一杯の勇気を出して、あのまま視界の外へ行きそうだった瞬木くんを引きとめたはいいものの、そこから先のことなんて全然考えられていない。あまつさえ部屋に呼び込んで無言なんて耐え切れるものじゃない。瞬木くんはどうして此処にいたの? さっきの話聞こえた? 頭の中で何度も自分の声でリピート再生を繰り返してシュミレーションをこなそうとするも、どれも不発に終わってしまっていた私の脳内は完全にパニックに陥っていた。
「こないだ描いてた絵、完成したのか?」
「あ……うん」
 部屋を見渡した瞬木くんが机の上にあるスケッチブックを見ながら言ったので、私の視線も瞬木くんではなくスケッチブックへと移され、そのまま若干挙動不審が残る動きで机に向かい、スケッチブックを手に取る。少し前、何気なく絵を描いていた時に瞬木くんに見られて「完成したらまた見せてよ」と爽やかな笑顔と共に言われたことは私の記憶にも残っている。
「(覚えてたんだ……)」
 あの時は恥ずかしくて、頷きながらも言わないでおこうなんて思ってた部分もあったけれど。正直今もこのスケッチブックを差し出すのは躊躇ってしまうけれど。この気まずい空気を少しでも解消できるのであればと、完成した絵のページまで捲った。
 絵をまじまじと見た瞬木くんは「へえ」と声を落とした。悪くない声のように思う。この場にきてはじめて、瞬木くんらしい声が聞けた気がした。……瞬木くんらしい、という言葉はきっとよくないんだろうけど、でも確かに、それは私の感じたことのある瞬木くんの声で。
「色がなくても結構描けるんだな」
「うん。モノクロはモノクロの良さがあっていいと思う。もちろん絵の具も良いけど、あ、色鉛筆も温かみが出て綺麗だよ」
「へえ……結構喋れるじゃん」
「え?……あ……そ、う、だね」
何時の間にか私の口はぺらぺらと動いていたらしい。瞬木くんに指摘されてようやく気付けた事実に私自身驚いたし、さらに良くないのは自覚した瞬間たどたどしい言葉に戻ってしまったことだ。これには瞬木くんも失笑、しているかはわからないけど呆れてしまっただろう。うまく瞬木くんの方を見れなかった。
またも訪れてしまった沈黙。破った瞬木くんは溜息混じりに言う。「そういうの嫌いなんだよ」脳天を直撃した言葉にびくりと肩を揺らしてしまった私の視界には、一気にいなくなっていたはずの水分が戻ってきてしまった。流れないだけマシだけど正直時間の問題。今にも溢れてしまいそうになるのを耐えていた私の口から出かけたのは、またも例の言葉で、喉から出かかったそれを懸命に止めた。
「……だからお前も、思ったことそのまま吐き出せよ」
「……え?」
「俺が嫌ならそれでも良いし、無理に合わせようとすんな。後ろめたいことなんて何もないんだから堂々としてろよ」
「い、嫌なんかじゃないよ!ただ、まだ気持ちが追いついてなくて……」
「追いつかせる気がないなら一緒だろ」
キッパリと、胸に突き刺さる鋭さを隠すことなく出した瞬木くんを前に、私は返す言葉も見当たらずに視線を伏せるしかなかった。
瞬木くんの言う通りだった。頭では理解している。理解してる、つもりで。そこから動く気なんて本当はなかった。甘えてるだけだって、わかってた。
瞬木くんもそれを判ってる。判ってて、あえて私に直接言ったんだ。そこには嘘偽りなんてなくて、瞬木くんは「それで良いんじゃねぇの」と続けた。……良い?このままで?こんな、今の瞬木くんを否定しているような状態を良いっていうの?
「……瞬木くんは、嫌じゃないの?否定されることが怖くないの?」
「怖かったさ、昔はな。でも今は違う。そう思われようが何だろうが俺は俺だ。他人なんて関係ないね」
 堂々と宣言した瞬木くんの瞳が私ではない何かを映す。私はそこに、お日さまみたいな彼の姿が映った気がした。みんなの心にするりと入ってきて、そっと背を押す彼は、彼の持つ必殺技と同じようにそよ風みたいな存在だと、私も思う。
今の瞬木くんが居るのはキャプテンのおかげ。瞬木くんの背中を押したのはキャプテンなんだと、改めて実感させられる。すごいな、キャプテンは。だからキャプテンなのかな。私とは全然違っていて……ううん、私は誰とも違っている。瞬木くんの背中を押すどころか、引きずることしかできなくて、今も足踏みしか出来ていない。
「……強いね。私はそんなに強くなれないよ」
「良いんじゃねーの。っていうか、みょうじには無理だろ」
「っ……」
「俺とみょうじじゃ全然違う。俺はみょうじみたいに絵が上手なわけじゃないし、みょうじは俺みたいにサッカーが上手いわけでもない。俺は他人を信じるなんて下らねぇと思ってるけど、あんたは信じたいから自分の評価を気にしてる。いちいち他人を窺って自分の行動は二の次だ。俺みたいにうまく立ち回ることも出来ないくせに俺の何倍も考え込む」
 瞬木くんの言葉ひとつひとつが私の胸を大きな針で抉ってくるみたいだった。ずきずき痛む心臓と、これ以上聞きたくないと頭が出した危険信号を感知して熱くなってきた私の目頭とは他所に、心の隅っこで少しだけ、少しだけ別の感情が生まれていて。
 誰かから見られる私が、こんな風に語られることがくるなんて思わなかった。私は自分から何も言わなかったのに、瞬木くんは私を見て、いろんな言葉をくれる。今までの優しい笑みはないけれど、でもその代わり、瞬木くんがどんな風に私を見ているのかが、じわじわ伝わってくるみたいだった。それが良いのか悪いのかは、半分半分だけど。
「だから俺は俺で、みょうじはみょうじなんだろ」
瞬木くんは私を見てくれていたんだと、彼の真っ直ぐな瞳を見て感じた。
私が安心して喋ることができた優しい瞬木くん。棘なんて全然なくて、なんでも包んでくれる穏やかな人。今、目の前にいる瞬木くんとは全然違う人。声のトーンや表情、態度や言葉も、全部全部違っている。
だけど目を見て話すところも、吐き捨てたくなるどろどろを拾ってくれるところも、同じだった。それは確かに私の知る瞬木くんだった。
「……私は怖い。否定されるのも幻滅されるのも。誰かの目を見て話すくらいなら、ずっと絵と向き合っていたい。そう思ってる」
「おう」
「でも、此処に来てから、色んな人と話すことが多くて、怖いけど、楽しかったりもして……瞬木くんといる時も、すごく安心してた。だから甘えちゃった。……ごめんね」
「また謝ったな」
「う……」
「別にいいけど。しっかり喋れるみたいだし」
 駄目な口癖をまたやってしまったのに、瞬木くんは呆れるどころか笑っていた。まるでやれば出来るじゃないかと云わんばかりの笑みだ。笑った顔、久々に見た気がする。いや、多分、この顔ははじめてだ。私の見た事のない瞬木くんの笑顔だった。私の知らない瞬木くんだった。
「ま、瞬木くんが言ってくれたから……」
「そうかよ」
 今まではそれがたまらなく怖かったのに、今の私はそれが少し嬉しく感じている。

「あ、あのね。また今度、瞬木くんを描いてもいいかな?」
何かが開けていく感覚と共に、流れるままに私の口は数時間前の私じゃありえないことを口走っていた。まだ上手く喋れなくてもごもごしてるけど、瞬木くんはそんなこと気にせずに「モデル料が貰えるなら」とさらりと返してくる。えっ。モデル料……!? 中学生に払える金額じゃない、だめだ、お世辞でもお金ならいくらでもあるなんてこと言えないお財布事情だということは財布の中身を知る私がよーく知ってしまっている。「冗談」そうか冗談くらいの金額が……ん? 冗談? 聞こえてきた言葉を頭でリピートしてから瞬木くんを見ると悪戯っ子のようににんまりと口を上げていた。
「弟たちに見られてもいいイカした絵にしてくれよ」
「し、敷居高いなぁ……」
 モデル料よりも高いものを条件に出されてしまったかもしれない――でも、うん。
「がんばるよ」

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