よる1





本当に選ぶのか
と問えば、デパートの人の来ない階段の踊り場で三角ずわりをしていた女は、微かに橙の頭を下げたのだ。

友達に自慢したいから。
今日も今日とて上辺を繕い見栄を張ることに必死な安城鳴子はそう言って、彼氏のふりをしてくれないかと頼んできた。マックで鳴った薄い薄い携帯電話。繋がる関係の重さまでこれに決められて仕舞いそう。鳴子のこえはあまりにも切羽詰まって聞こえて、集は、ああいいよ、と言ってしまった。そんなふうに聞こえたのは、あるいは電波の所為だったかもしれない。周りが煩くて、いくら耳を澄ませたところでよく聞きとることはできなかったからかもしれない。それとも案外、外れていないのかも知れなかった。昔からむっつりとしてそのくせ、よく泣く女だったから。だが確証をもてるようなものは何もなくて、無愛想なありがとう、と言う言葉の後に集にのこされたのは電話を切ったあとの例の無機質な機械音だけだった。振り回されて擦り切れて。ボロボロになって漸くお前は泣くのだろうなあ。
パンが乾いてチーズの溶けたハンバーガーを噛みちぎる。机の上に目を落とせば帳面の、三次方程式と曲がりくねったグラフが彼を出迎えた。集はため息をついて再びそれへと向かって行く。セットのポテトは冷める前に胃に収めた。今日の夕飯はこれでおしまい。ごちそうさまでした。
そして無機質なノートの罫線で、頭の中をうめつくす。




まるで生きる為の義務のように。
どこまでも入念に武装したおんなを集は笑いたくなった。何と言うか、みじめだった。みじめでみじめで、それは取り残された子供のようにも思えた。今にも泣き出しそうな子供。遊園地にたった一人置いていかれて、風船なんか持って、涙を堪えている迷子。それでもそれがばれないように、必死に楽しそうなふりをしているのだ。誰も見ていはしないのに。
待ち合わせ場所は駅前だった。鳴子はワンピースにバレエシューズのような靴を履いて、丈の短いボレロを羽織って髪をひどく念入りに巻いて垂らしていた。アイシャドウ、口紅、書いた眉毛に、つけまつげ。
「なんかさ、それ」
「何よ」
笑いをこらえながら集は言う。
「ふくわらい、みたいだな」
「はああっ!?」
ああ怒った。それでもさっきの取り澄まして、だけれども悲壮感の溢れた表情よりは幾分マシに思った。
彼女は友達を二人連れてきた。焼けた肌の女と、茶髪の女だ。二人は代わる代わる集の顔を覗き込んで、そっくりな抑揚をつけた調子で言う。「あーイケメンじゃん。」「イケメンイケメン。やるー鳴子」「なんか頭よさそーじゃね」
集は頭の良さというものは結局のところ努力を継続する意思と能力なのだと思っている。それでも鳴子が望むとおりに、集は笑った。
「はじめまして。松雪集といいます。今日はよろしくお願いします」





UFOキャッチャーで三千二百円と引き換えにとった不細工な熊の人形を傍らに鳴子は軽食屋のテーブルに背中を丸めて座った。やっぱり哀れだなあと集は思う。派手な黄色い卓上に珈琲を置くと、青い顔をして彼女はこちらを見上げた。
「―ありがと」
「きにすんな」
そう言ってやりながら集は彼女の向かいに座った。友人たちは声をかけてきた見ず知らずの男らとボウリングに行くのだそうだ。じゃあね〜鳴子。気をつけてねえ。そうしてひらひらと軽薄に振られる手。
浅黒い肌。絡む腕。ピンク色に光る唇。
鼓膜をつんざくようなゲームセンターの騒音が響いて来る。人間どもの馬鹿笑い。
集は知っている。あの熊だってべつに彼女は欲しいわけではなかったこと。きもかわいいねあれ、あの角度ならいけるんじゃねえ?そう友人が言ったからだ。がんばれなるこ。がんばがんば。携帯をいじりながらそう言われれば、彼女は逆らう術もない。
押し付けられた胸。染められきっていない髪。流し目。集は目をつむると視界に過ぎる記憶をおいやった。そしてもう一度瞼をひらく。微動だにしない橙。
「どうしたんだよ。そんな体調崩しやすくなかっただろ、おまえ」
安城は俯いたまま、小さく、ねぶそく、と返した。
「なんで?」
「…別に」
集はぼんやりと鳴子のつむじを見つめながら思う。
――来たくなかったなら、用事があるから。そう言って断ればよかったのに。おれなんて連れて来ないほうが、ほんとは良かったんじゃないのか。
紙コップに入った珈琲。彼女に放っておかれたそれはどんどん冷めてゆく。元々まずいのに。冷めたら飲めないだろうな。
最近はすっかり日が暮れるのが早い。もう外は黒く塗り潰されていて、窓にはこちらがわの景色だけが鏡のように写っていた。それも汚いガラスで明瞭ではない。全てが虚構じみて感じられて、思わず笑いだしたくなった。この、出来の悪い、不愉快で、馬鹿みたいな、せかい。
「あのさあ、余計なお世話かもしれないけど」
橙は俯いている。
「―こんなことやってても、何にもなんないんじゃないの」
げらげらと誰かが笑っている。男や女や子供がつまらなそうにどこかへと歩いていく。携帯電話を一様に覗き込みながら下を向いて去って行く。
「――こんなことしててさ、何になるんだよ、なあ、安城」
おまえ、変わらなきゃなんないんじゃ、ないの。
――一瞬何が起こったのか分からなかった。ただ風と、そして頬に焼けるような痛みを感じた。
「…あんたに、何がわかんのよ」
こちらをきっと睨むその目にはひどく大きな涙が溜まっていた。集はぽかんとして鳴子の顔を見つめる。――なぐられる、とは。予想外だ。
「何がわかるのよ、なん、にもわかんないくせに、すきなことばっ、か言って、いっつも」
「おい」
「わかん、ないんだ、ゆきあつには、なんにも」
ひっ、ひっ、ひっ。
言葉の端々にそうしゃくりあげられては堪らない。
怒ったと思えば泣くのだからつくづく飽きない女だ。
どうしたものかと姿勢を変えながら周囲を見渡すと、そばの客が興味津々といった様子で自分たちを見つめていた。集は彼等を薄く睨みつける。衆人観視、なんて。真っ平御免だ。
「…おい、安城」
鳴子はひくりとも動かなかった。大粒の涙がちゃちなテーブルの上にぼとぼとと落ちている。視界の隅で、馬鹿な顔をした女連れが首を伸ばしてこちらを見ているた。いらいらとした。
「――あなる!」
鋭くそう呼ぶ。
橙は涙の溜まった目を大きく大きく見開いた。
その口がゆっくりと開いてゆく。顔がじわじわとあかく染まっていく。
「あなるって呼ぶな!」
鳴子は集と同じぐらいの声で反駁した。痴話喧嘩をにやにや笑って観察していた女どもは揃ってぎょっとした顔をした。近くに座っていたカップルも。それが無性に胸をすっとさせて、集は笑った。彼女の馬鹿さが愉快だと感じた。
「そんだけ声でんなら大丈夫だな。頼むからこんなところで泣くな、行くぞ」
集は音をたてて椅子から立ち上がる。すると鳴子もまた、不承不承といった体で従った。熊のぬいぐるみを小脇に抱えて。それはどこか童女めいた仕種だった。ふと藍の目をした女はしないだろうと集は思った。あの赤縁の眼鏡の少女。




けしからん
111117//18修整
つづく


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