携帯と充電器
聾人で唖で性別をもたない主人だった。
そのヒトは信じられないくらい疲弊してドカリとCHの上に寝転がり気絶するようにねむった。
いくら充電してやってもくっきりとした隈は消えず、わるい顔色もそのままだったから、CHは彼のことが心配で心配で堪らなかった。
充電器は自分を紳士であると自負していた。
「…SH、あなたは、何をなさっているのです。なぜ隈はとれません」
主の名はSHといった。彼の髪はひどく早く伸びていくのだ。白い顔に黒い隈は見ているだけで不安になった。
彼は通った鼻筋の下半分から顎にかけてを包帯で被っていた。口が見えない。
「ずっと見ているからだよ、考えることを止められないのだ」
回路を通して、主はそうCHに応えた。膝枕をして充電してやっている。彼は口が利けないけれど、こうして繋がっていると会話が出来る。
「ぞっとしませんね」
「そうだ。ずっと果てを見つめている。羅列され続ける情報だけを見ていると、自分がいなくなるようだ」
SHはそう言うと、おまえはいつもスーツなのだな、と言った。
「ええ、好きなのです」
「わかる気がする」
寝心地はわるいけれど、と言って主人は笑った。
「だいぶ具合も良くなったようですね」
「ああ、だいぶいい」
目の周りのくっきりとした隈。見ていると瞼が開き穴のような眸が顔を出した。
「これがあなたの世界認知の術ですか」
「しぬようだよぐったりと疲れたときは。目もずきずき痛んで干からびて、世界が断片でしか入って来ないんだ。いいや」
死のほうが一瞬で済むから楽だよ。生きるというのは永続しているから。
「安心したまえべつに死を希うというわけじゃない。わたしは生きるよ、苦しみを神様と契約したのだ。死ぬまで生きることをね、どんな苦しみも生の途上にある以上乗り越えねばならぬことだと」
そしてわたしは天才だ。
充電器などに得体の知れないその携帯(ひと)は嘲笑うように言った。あなたはなぜ生きると尋ねた。
「…生きている、からだ」
そうだろう。
SHは暫しの沈黙のあとそう言った。どんなに疲弊しても後には死しかないと思っても、眠りという癒しののちは再び目覚めて機能できるからだ。
「…あなたはそれで満足ですか、あなたの生は幸福ですか」
「…幸福をのぞむのはつらいことだ。おまえはずいぶんと青いのだな」
「なぜです」
「幸福のメカニズムは未だ知れてないからだよ、私にとって定義されない物事は知覚困難なのだ」
長い脚を伸ばし彼の人は横たわり言った。またねむたげに目をとじている。
「しかし一般とちがうということで自らを非難したとて結局はどうにもならない」
文脈が読めなかったから何を言っているのかわからなかった。
SHは続ける。赤い形のよい唇がかさかさと動いた。
「ゆえに結局真の客観性というものは客体のなかにしか存在しないのだ…自己攻撃とは被害妄想に増幅してそれは心の破壊になるね、そして客観的に見て素晴らしいものまで潰してしまう」
「なにを言っているのです」
「客観性を模倣しようと突き詰めれば無関心だろう。主観が自己に無関心になれば潰れる。人間は主観に従盲的にならなければこころが潰れる。数学の動機だって」
何かに取り憑かれたようにSHは喋る。その理論に興味を惹かれる自分がいた。
「煎じ詰めれば欲求さ。工夫でありひらめきだ。
科学的にこころを喪失すればヒトはなにもできなくなる。情報の価値も突き詰めれば興味を惹かれるかどうかだよ」
「…何です」
SHは口角を僅かにめくる。
「君は私を論理の虜囚と感じたのではないのか?
これは私の本質である。客観性は主観よりも主観の観点から見れば軽んじられるべきなのだ。君に私の、いや人に人の本質を否定する権利なぞ無いのだよ」
「あなたを否定しようとは思いません」
ただ生きづらいのではないのかと思うだけなのです。
彼は黒い眸を何処かに動かして言う。
「それでもこれが私の本質だ」
この翼を毟られれば地に墜つだけだ。
20110703