やわらかな傷痕3





行かないでくれ行かないでくれ今気づいたんだ、たった今気づいたんだよ、俺にはおまえが必要なんだよ、お願いだ傍にいてほしいんだおまえがいなきゃだめなんだよおまえの為だったらなんでもするよだから、お願いだから頼むよつるこ、俺はおまえを愛してるんだ、例えば、そう言われたら自分は満足するのだろうか。あの男のことをもう一度愛しく思い直して、再び彼と、恋愛感情と憎しみが同居するような関係を続けていくのか。果たしてそれは絆なのだろうか?それともそれは呪いに似た、何か、だろうか。だけれど、自分は薄く笑って、冷めた言葉を彼の整った面に突き付けるだろう。そんな安っぽい歌みたいなこと言わないでくれない、と。うみは呆れ返るほどに美しく、ちりこは飽きもせずに宝石のようなそれを眺めていた。ワンピースが風になびき揺れる。あんな男しねばいいのよと唇からふと零れた言葉を、しかし彼女は訂正しようとは思わなかった。それは全き真理であった。死んで―本間芽衣子、と…そこで少女は自分の胸が焼けるようにひりつくのを知る。しねばいい、しねばいい、しねばいい、繰り返し脳が吐く呪詛のその度に、薄い胸の奥に眠る心臓がどくりどくりと音をたて動いた。どくり、どくり、どくり。そうして痛む胸が血を流すように、彼女の目からは海が滴り落ちた。
「、――っ…」驚いて頬に当てた指が濡れる。「あいつなんか死ねばいい、」口走る。憎い。憎い。憎い。同時に彼が、愛おしくてたまらなくなった。愛しい。憎い。愛しい、憎い、相反する感情が生まれては消え、しねばいいと呟きながらちりこは砂浜にしゃがみこみ、膝を抱えて泣いた。みんなみんな潰えればいいと願う。みんな消えてしまえばいい、こんな世界、こんな間違いだらけの世界、一度綺麗さっぱり、それでまた絡まった糸を解けば、ああでもそうしたらいなくなってしまう、ゆきあつ、あのおとこ、あのひと、あのどうしようもない、だからこそこんなにも愛おしい、ああ、あの男のいない世界でわたしの生きれるはずもないのだ。心の奥底まで根を張り巡らした強い感情は十八の少女に過ぎないちりこを混乱させ怖じけづかせるには充分だった。ぽたぽたと落ちる涙が海に吸い込まれ還っていく。死ねばよかった、ああほんとうに、彼女は死にたかったのだ。どうして応えてくれもしない相手へこんなにも強い感情を孕みつづけなければならない?嗚咽のようにちりこは言う。ゆきあつ、すきよ、すきよ、だいすきよ、きっとずっと、愛してるわとそれこそ安っぽい歌のような言葉を撒き散らして泣いた。がんぜない子供のように喚き泣いた。しねばいいと誰にともなく言い続けた。



それは偶然だった。
橙と黒が並んで歩いているのを見たのだ。
男受けしそうなツインテールと男受けしそうな乳といかにも今時な服は見間違いようもなかったし、いかにもオタクっぽいモサ髪と流行のかけらも見当たらない赤の文字Tだって見覚えがありすぎる。そいつらが二人仲良く手を繋いで肩を並べて歩いているのだから驚かないほうが無理な相談というものでゆきあつは思わずロードワークの足を止めた。赤信号でもないのに失態というほかない。
車道を挟み向こう側の道を歩いていたので会話など聞こえるはずもない。というよりも二人は、会話をしていないようだ。俯いて、微妙に緊張した雰囲気を漂わせながらそれでも手だけは…ぎこちなく繋いだ手は離そうとせず、歩いていた。それは誰がどう見たって、――デート以外の何物でもなかった。枕詞を選ぶとするならば唯一つ、付き合いたてのカップルの、である。
「―…マジかよ」掠れた声が吐き捨てる。それは何か他人のもののように感じられた。めんまはどうした。おまえ。めんまは。ふと反れた彼等の視線がこちらを掠めそうで、その瞬間ゆきあつはくるりと踵を返した。脳裏には鮮やかな銀の色。長い髪が翻り、碧い目が無邪気に煌めき、細く伸びたしなやかな肢体が踊る。松雪は足早に歩いて行った。彼は冬の朝が好きだ。彼女の色以外には何一つなく、誰一人いないような。冷たさは死に似ている。天国で芽衣子と会えると思えたなら、集はきっと死んだことだろう。しかし彼は、まだ少年だったけれど、天国なんか無いことを知っていた。死ねば終わりだとわかっていた。彼はただ彼女に会いたいだけで死にたいわけではないから、生きてきた。だが結局のところ、自分は幽霊になった彼女をちらりとも見れず、あいつだけが彼女の姿も心も手に入れられて――――全てが済んだ今、橙を傍らに引き連れて。
裏切り者。憎い。憎い。憎い憎い憎い憎い憎い。あいつが羨ましいと思うし、死ねばいいと思う、めんま、きっと哀しんでいる。そうだろう?そうじゃないか、そうでないわけがないだろう、だっておまえやどみが…宿海が好きなんだろ?
白いはかない姿が滲んでいく。涙のせいだと、思う。思って、次に、藍が、聡い目が、冷えた口調が、あの日の細い喘ぎが、なぜだか唐突に蘇り、芽衣子のすがたの上に咲いて、彼は慌てた。歩くペースも目茶苦茶で、テクノの音色も今は雑音にしか聞こえず、ウォークマンの電源を切る。俯いて早足で歩くと当然のように通行人にぶつかり、それもまた苛立ちに拍車をかけた。松雪は章周する。
めんま、
めんま、めんま。めんまめんまめんまめんまめんま。めんま。めんま。好きだ。好きだ。ずっと。今までもこれからも。だってそうだ。そのはずだ。それなのに。藍。ひとみ。ばかげている、と思う。つるこ。何故?
何故彼女は抱いてくれなどと言ったのだろう?
白いワンピースが踊る。翻り、乳臭い甘い声が笑う。ふと目を上げた。蒼い空が目にうつる。まばゆいほどの蒼であった。もう冬は過ぎたのだとでも言いたいのだろうか。ふざけるな、じゃあ何故。どうして?
ぐらぐらと視界が揺れる。


120707


何ヶ月ぶり…難しい


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